広島文脈の結晶・宏池会の源流2

今度は外交・原子力政策を軸にして宏池会を見てみたい。
これまでの流れは、

宏池会の話に入る前に、広島原爆投下から戦後の核をめぐる動きのところをもう少し詳しくみておきたい。

アメリカの原爆開発についてみると、まず、ルーズベルトは大統領就任直後にボーイングを含んだ総合飛行機会社を三分割し、ボーイングは機体製造の専業となり、創設者の手を離れて軍事企業として動き出していた。のちにアイゼンハワーが指摘したような軍産複合体というのはこの時点からもはや歯車として動き始めていたと言える。そして、開戦に先立つこと2ヶ月、1941年10月9日に、原爆の開発計画がルーズベルトによって承認されており、そこからマンハッタン計画が始まっていた。開発された原爆をボーイングの機体に乗せてどこかに落とす、というのは、ルーズベルトが生きていようが死んでいようがもはや動かない流れ作業で、日米開戦は既に原爆投下で終わるところまで計画済みで始まっていた可能性もある。そこで、どこに落とすのか、というのが残った唯一の問題だったかもしれないのだ。

日本側について見てみると、前回少しみた三井銀行の池田成彬はかつてハーバード大学に留学していたとされ、時期こそ重ならないとはいえ、フランクリン、そしてその妻エレノアの叔父であるセオドアの両ルーズベルトはハーバードの卒業生である。鈴木商店は第一次世界大戦の時に世界を相手に商売を行っており、また、台湾をはじめとした南方に力を入れていたということで、のちにアメリカ資本と繋がることになる満州系とは別系統となる。その満州系の中心となる鮎川義介は、「三井の番頭さん」とも言われたとされる井上馨の姪の子であり、鈴木商店破綻の翌年に久原鉱業をのちに満州に移転する日本産業に改組したとされる。もう一つ、同じ年に、台湾電力が社債を募集し、それを日露戦争で日本の戦債を引き受けたジェイコブ・シフが引き受けている。この年には満州で張作霖の爆殺事件があり、それによって満州での大きな勢力が宙ぶらりんになっている。最大のライバルとなりそうな鈴木商店がなくなったことで、鮎川とアメリカ系がそれぞれ動き出したことになり、池田成彬はその引き金を引いたのだと言える。そしてのちに、平家没官領との関わりで西園寺に歴史的借りがあるといえる池田が西園寺と鮎川を結びつけ、それがゾルゲ事件や満州進出へと繋がっていったのかもしれない。

そこで、原爆をどこに落とすかという問題で、西園寺・池田路線が、過去の文脈を原爆という衝撃の中にかき消してしまうために、ハーバード人脈などを通じて広島へとそれとなく誘導したのではないか。それだけの大虐殺を行うにはなんらかの理由づけが必要となり、最終的に場所を決める、というのはよほどの覚悟を要する。落とされる側から誘導があればそこに引き寄せられるのは当然だと言える。それがどこから出たか、という可能性の問題で、西園寺・池田路線ということも考えられるのではないだろうか。

それでは、戦後の起点として、池田勇人がサンフランシスコ講和条約を中心となって交渉した、というところからみてみたい。1回生でいきなり大蔵大臣になった上に、外交に全く経験のない池田がなぜ講和交渉の中心となったのか、というのを考えるのに、当然占領軍にとどまらず、本国にまでなんらかのつながりを想定しなければ説明がつかない。そこで、池田と共に訪米した白洲次郎という人物に注目したい。彼は、カレッジも専攻も全く違うが、それでも1年間だけケンブリッジでのちにマンハッタン計画の中心人物となるオッペンハイマーと重なっている。さらに、ケンブリッジにおける白洲の学友として、ロビンと呼ばれるロバート・セシル・ビングという人物がいるが、この人物の先祖を辿ると名誉革命でオランダからオラニエ公ウィレム(ウィリアム3世)を招請する招請状を届けた人物に突き当たり、ルーズベルトの出身国であるオランダとつながる。白洲は近衛文麿と親しく、近衛は西園寺と共にパリ講和会議に出席し、また2度にわたる近衛への大命降下は西園寺の推薦によるものである。そして近衛はルーズベルトと面識がある。池田成彬の路線よりも、こちらの方がダイレクトに繋がるので、ここが広島原爆投下へのホットラインとなったのかもしれない。なお、池田成彬も第一次近衛内閣で大蔵大臣と商工大臣を兼任しており、北支那開発株式会社及び、中支那振興会社の創立委員にも名を連ね、中国とも深いつながりがあった。白洲が池田勇人、そして宮澤喜一という広島と関わる人物をピックアップしてアメリカへ連れて行ったのも、広島の怒りに蓋をするためであったかもしれない。そして白洲ラインではなく池田ラインで白洲の話が進んだのも、黒幕である白洲がアメリカとのつながりが薄いということを印象付けるためではなかったか。

一行がアメリカから帰ってきた昭和25庚寅年(1950年)6月、朝鮮戦争が勃発する。これによって、池田がアメリカに売ってきたものの清算が行われたのだと言えそうだ。その後、ダレスと吉田との間で話し合いがなされ、昭和26辛卯年(1951年)9月8日、サンフランシスコ講和条約が調印された。隣国で戦争をやっているのに講和条約とは、見方によっては非常に異様な光景である。日本では、講和条約の調印を受けてGHQによって公職追放されていた鳩山一郎や河野一郎らが追放を解除された。翌昭和27辛卯年(1952年)4月28日、講和条約が発効すると、GHQの占領が終了し、独立が回復された。4月18日には西ドイツと、そして5月15日にはイスラエルと国交を樹立しており、8月13日には池田勇人がアメリカで交渉した事項に含まれていたIMFへの加盟が認められ、翌14日に西ドイツもIMFと世界銀行に加盟となる。8月27日には西ドイツがイスラエルに対し、第二次世界大戦中のユダヤ人虐待およびホロコーストに対する賠償金として30億ドイツマルクを払う条約に署名した。この辺り、日本と西ドイツが戦争責任をめぐって競わされたという感じを受ける。

翌28日、日本で抜き打ち解散となる。その後、10月1日の選挙直前9月29日に石橋湛山と河野一郎が自由党から除名される。選挙においては自由党が45議席減らし240議席を獲得したとされるが、その中にはこの両名も入っているようで、最初から茶番除名であったことが明らか。ではなぜそのような茶番をやったかと言えば、まず一つには選挙直後の11月4日にアメリカ大統領選挙があり、アイゼンハワーが選ばれた、ということがある。アイゼンハワーはアメリカ初のドイツ系の大統領であり、マンハッタン計画を主導したロバート・オッペンハイマーは両親共にドイツ出身のユダヤ人で、またマンハッタン計画のスポンサーであったロックフェラー財団もやはりドイツ系である。この辺りの考察はまた別にまとめる必要があるが、とにかくその集大成としてアイゼンハワーが誕生したのだといえるのかもしれない。それは、戦争の評価に非常に大きな意味を持ち、講和条約においてはそのことを含めて交渉対象になっていた可能性が高いのではないか。なお、この年2月26日にイギリス首相チャーチルが核兵器の保有を公表し、10月3日に原爆実験をおこなっている。

その当時第四次吉田政権で、原子力開発が始まればそれを主管することになっただろうと考えられる通産大臣を務めていた池田は、アイゼンハワー勝利後に中小企業の5人や10人云々の発言で不信任決議を出され、大臣辞任に至り、その半月後、入れ替わるかのように石橋と河野は自由党に復党している。池田は、アイゼンハワー政権での原子力政策の動きを予測して、アイゼンハワーの間はその原子力について石橋と河野を中心に走らせるというシナリオで、この茶番臭い除名、池田自身の不信任による辞任、そして復党というアリバイづくりを行ったのではないだろうか。

そのシナリオに従って、翌昭和28癸巳年(1953年)には河野や石橋を含んだ鳩山派が自由党を離脱し、バカヤロー解散に至る。前年10月の選挙から半年余りのこの解散自体、茶番の清算にふさわしい茶番解散だといえる。ただ、この選挙の五日後には初めて6年任期を全うした参議院選挙が行われており、良識の府の選挙に政争を持ち込みたくはない、という良心は議員の間でも共有されていたのかもしれない。いずれにしても、これによって吉田自由党は過半数を割り込んだが、改進党の一部を取り込んで閣外協力させ、第五次吉田内閣を成立させた。7月27日に朝鮮戦争の休戦が成立し、8月8日にソ連が水爆保有を発表した。この辺り、3月5日にスターリンが亡くなったことから動乱が始まっているので、国際的にはその流れを抑える必要があるが、ここでは本筋から離れてしまうので別に譲る。そして日米開戦12年目にあたる12月8日にアイゼンハワーによる原子力の平和利用の演説が行われる。原爆投下というのは大きな国際的倫理の問題であったと考えられるが、それがこれによってアメリカの原爆投下による大量虐殺という大罪が随分と薄まることになったのだと言える。

明けて昭和29甲午年(1954年)、1月21日に原子力の平和利用の舌の根も乾かぬうちに史上初の原子力潜水艦ノーチラス号が就航しており、さらに3月1日にはビキニ環礁での水爆実験に巻き込まれた第五福竜丸事件が起きる。そして4月7日にはアイゼンハワーが『ドミノ理論』の演説をしてソ連を煽っている。一方6月27日にはソ連で世界初の原子力発電所が稼働している。核反応は起こすのは簡単だが、連鎖を管理継続させるのが難しいのであって、原爆よりも原子力発電の方がはるかに高い技術を要する。核の平和利用を口だけで表明したアメリカはあいも変わらず原爆よりも破壊力の大きな水爆実験をしている一方で、ソ連の方が先に原子力発電を実用化させていた、という技術力の差は注目すべきなのだろう。これを受けてか9月29日に欧州原子核研究機構(CERN)が設立される。

一方日本では、原水爆禁止運動の発端ともなる署名運動が杉並で5月9日に協議会を結成したという。これは8月8日には全国に広がった。その発起人の一人が元外務大臣の有田八郎で広田内閣の時に日独防共協定を締結し、近衛内閣でも外務大臣を務めている。その実の兄が山本悌二郎でドイツ留学の経験を持っていた。別の発起人植村環は、日本YWCA会長で、3年前にプロテスタント長老派の日本基督教会を日本基督教団から離脱して設立している。日本基督教団ではこれを日本基督教会がアメリカから資金を受け取るための行為であると非難しているという。つまり、アメリカ、そしてドイツと非常に強いつながりを持っている人物たちが原水爆禁止運動を主導して、いわばマッチポンプのガス抜きをしていたのだといえる。なお、杉並での協議会設置に先立つ5月1日には韓国でこちらも長老派の影響の強い統一教会が設立されている。また6月14日にはアメリカの公式行事で暗誦される忠誠の誓いに「神の下」という言葉が付け加えられている。この頃からアメリカは完全に宗教国家へと足を踏み出し、そして長老派がその尖兵となって世界にその動きを広げようとしていたことがわかる。それによって核兵器を神の光のように扱おうとしていたのかもしれない。科学的進歩を目指していたソ連と宗教的国家を目指していたアメリカという対比がここまで明確になったこの1954年6月という月は非常に象徴的な月であったといえる。その意味では、20世紀とはアメリカというある種のカルト国家が人類の進歩を大きく足止めした世紀であったと評価できるのかもしれない。9月14日にはそのソ連も核戦争に対する訓練をおこなっており、アメリカでの赤狩りもあって、急速に緊張が高まっていたのがわかる。9月30日には原潜ノーチラス号が海軍に配備された。11月3日には日本でも映画『ゴジラ』が上映され、こちらでも原水爆の恐怖を煽っていた。

国内の政争はとりあえずここでは見ないが、とにかくこの年12月10日に第一次鳩山政権が発足し、杉並を選挙区とする花村四郎が法務大臣となる。弁護士としては小作人の立場に立っていたようで、長野出身ながら鳩山の勧めで東京から立候補している。杉並は関東大震災以降に急速に宅地化が進んだようで、その土地の権利関係で活躍したのかもしれない。その頃河野一郎は朝日新聞で農業関係の記者をしており、そして昭和6辛未年(1931年)には、先程名の出た山本悌二郎農林大臣の下で秘書官を務め、翌年に衆議院議員に当選している。関東大震災以降の土地の権利関係整理を表に結びつけた可能性がありそう。それはともかく、その河野一郎がこの第一次鳩山内閣で農林大臣となっている。そして原子力の所管になるかもしれない通産大臣は石橋湛山だった。池田勇人は自由党幹事長としてこの石橋を除名している。吉田子飼いの池田は当然鳩山内閣においては表に出ることはなかった。

とりあえず、宏池会のできる前の話で、直接には関係がない話が続いてしまったが、原子力導入前夜の動きはここまでで切りとしたい。

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