数学をいかにして数学的に現実に応用可能とするか

数学の原理的限界として、自然数の認識共有誤差を挙げたが、それは数学全体の緻密さから考えたら無視できる程度のもので、数学を現実に応用する時に、自然数認識が違うから話が噛み合わない、などということはまず起こり得ない。それはまさに宇宙や量子レベルで起こりうる問題であり、現実的にはほとんど問題にはなり得ないだろう。

では、一体なぜ数学的に動く世界に(個人的に)違和感があるのか。それを突き止めるために、問題を数学的に解析することを試みてみたい。まず、数学らしく、数学とは一体なんぞや、の定義から考えてみたい。この時点で既に定義が噛み合わない可能性も十分にあるのだが、私はとりあえず、極めて単純に、問題に解法を当てはめて答えを得る、というプロセスを数学であると定義したい。この定義が共有されるにしろされないにしろ、とりあえず問題のありかをつきとめるには有効であろうと考えるからだ。ここで、この定義を持って、どこから違和感が生じるのかを考えてみると、違和感が二者間で生じるとして、答えに違いが出る原因は、解法が違うか、あるいはそもそもの問題設定が違うか、もしくはその両方が違う、という可能性がありそうだ。つまり、二者間において数学的問題解決が可能な条件というのは、問題と解法がともに共有された時に限る、ということになりそう。

数学的問題解決を図ろうとする時、基本的には問題が共有されていることを前提として解法を探るというアプローチが主であろうから、最適な解決法を探るという数学的アプローチが有効であるケースが非常に多いのであろう。そこでまず、このケースで問題になりそうな状況を考えてみたい。これは特に受験数学的、つまり教育的なケースでよく起きると思うのだが、解法ありきで問題提示され、その解法を実行する、あるいは覚え込む、ということを強いられる場合だ。確かに解法がわかっているのならば、それを覚えて実行すれば良いのだが、現実的問題で言えば、その解法では答えが出ないからいつまで経っても問題として残っているのであり、つまり解法が共有されていないということになるのだ。この場合、解法を強制するのではなく、何がその解法で問題となっているのか、という、新たな問題設定が必要になるのだろう。

では、その問題が共有されていない場合を考えてみたい。そもそもお互いに解こうとする問題が共有されておらず、思い込みに近い状態で問題に対する解法をぶつけ合ったところで、答えに至るケースはほとんどあり得ない。そこで、これはおそらくわたしの勝手な思い込みなのであろうが、数学的には圏論というアプローチでこの問題を解決しようとするのではないだろうか。つまり、問題がなんであれ、射によって問題を単純化し、既存の数学的モデルの中に落とし込む、ということではないだろうか。それは、答えは出たように感じるかもしれないが、問題が単純化される際に削ぎ落とされたことがある可能性があり、そこから違和感が生じることになるのだろう。

これが数学至上主義となると、単純化された問題を決めつけ、そしてその解法も一方的に押し付けるという非常に息苦しいものになる。つまり、問題は数学自体にあるというよりも、その用い方にあると考えるべきなのだろう。

二者間ならば、その違いは直接対話によって解消すれば良いが、それが社会となると問題は一気に複雑化する。万人の万人に対する闘争の競争社会の構造では、問題を明らかにすることは、弱みを見せることにつながり、それは避けられがちになる。だから、問題を忖度し、一方的に解法を提示するという、前提の脆弱な「数学的」アプローチが横行する。そしてそれに対して圏論というものを持ち出すことで、問題をすり替えて解法だけを取り上げるという、数学的”搾取”のようなことが行われることになる。これは競争社会において起こりやすいということで、数学というのは、競争に強いもの、既存の権力を持つもの、問題のすり替えがうまいものにとっては非常に便利な道具となるが、そうでないものは、ひたすら問題を忖度し、その解法を押し付けられ、覚えさせられ、実行させられ続けるという不毛極まりない数学無限地獄に落とされることになる。

ここからは少し数学的考えを離れ、社会や人というものについて考えてみたい。本来的には、問題は個別に持っており、その解決を協力して行うことができれば、社会を形成する意味が生じ、そして数学によってそれが円滑に動くようになるのだと言える。それが、現実社会においては、特に代表制民主主義においては、問題意識というのが政治力の源となるので、個別の問題を圏論的に一つのモデルに集め、それに解法を提示することで政治力を得るということになり、数学はその権力闘争に勝つための道具として使われ、だから権力を得るために社会全体が数学至上主義的になってゆく。

今や社会はかなり豊かになっており、そのような一般的解法を、少なくとも押し付けることで幸せがもたらされると感じる人はそれほど多くはないのではないかと考えられる。いかに自分固有の問題を自分の納得といくように解決してゆくか、ということの方がより重要になっていると考えられ、人と同じ問題だと単純化されることも、それに対する一般的な解法を提示されることも、満足をもたらさなくなっているのではないだろうか。そしてそれが数学に対する違和感につながっているのではないだろうか。個別の問題を具体的に把握し、それにベストフィットするような解法を提示するように数学が活用されれば、数学というものは十分に現実に摩擦なく応用可能なのではないかと感じる。

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