社会科学とヘーゲル的弁証法

人というものがDNA鑑定により、具体的な父親と母親を特定することができるようになったことまで書いた。そこから社会を科学するためにはどうしたら良いか。父と母というのは全くの別人格であり、その二人から全てを取り入れて自分を成立させるわけにはいかない。どこかで父とはここが合ってここが合わない、とか、母とはここは似ているがここは違っている、とかそういうことが出てくる。自己の人格形成とは、これらのことについて、父母から正と反を抽出し、それを止揚して合を見つけ出す、ということで(少なくとも部分的には)なされるのではないか。もちろん生まれた時から親を亡くしているケースなどもあるので、それが全てではないが、一つのモデルとしてそういうことを想定すれば、全知全能の神から生まれたのだ、というような非科学的な宗教的考えを出発点として社会”科学”を打ち立てる、というおかしなことは避けられる。一旦合によって自我の確立が行われれば、それ以降は新たに会う人ごとにそのプロセスを繰り返せば、自我の絶え間ない成長を行うことができる。そしてそのプロセス自体が社会を作り出し、動かす原動力であると考えることで、社会を科学するための構造的フレームワークはできるといえるのではないか。

その中で、歴史的文脈は、個々の経験、あるいは父母の記憶として必ず引っかかってくる。成長するに従って、それをどう整理してゆくか、というのが、止揚のプロセスの中心となってゆく。そうすると、それが純粋経験なのか、それとも歴史的文脈上にあることなのか、というのが区別できるようになる。歴史的文脈上にあるものは運命のようなもので、自分の力では如何ともし難い。社会は、できる限り運命のくびきから解放され、自らの純粋経験を重ねられるようであった方が、少なくとも家柄などに左右されることがなく、平等になるのだといえる。だから、特に世襲で職業を継いでいるような家では、少なくとも父母の行動、意思決定について説明を求められたら、それに対する自分の立場を明確にしてゆく必要があるのだろう。そうでなければ、その文脈が社会に影響している時、それが本人の意志なのかそうではないのかの峻別がつかず、いいところどりだけをすることが可能になってしまうからだ。歴史的文脈のつまみ食いをされたら、世襲の家の方が圧倒的に有利になり、社会は硬直化する。そして、歴史的文脈が強いと、定義上社会を”科学”するのは難しくなる。

というのは、個人を父母から生まれたものだという定義をすることによって初めて社会を科学するためのベースができるのであって、それがそれ以上に遡ったら、宗教的分析になってしまうことは別に書いた。個人が父母の経験まで止揚することで、その人の考え方のベースを確認することができるようになる。そうすれば、他の人との考え方の違いが、その人の持つ前提にあるのか、それともそこから先の科学的・論理的思考回路にあるのか、ということが特定できるようになり、それによって初めて科学的な部分についての議論が可能になる。それ以前の歴史的文脈は、個々人の前提に帰せられることになるので、科学的議論とは分けて考える必要がある。その区切りをつけるために、両親の考え方との違いはどこにあるのか、ということを明確化する必要が出てくるのだ。それによって、歴史的文脈と個人の前提というものを明確に区分けできるようになる。歴史的文脈、個人的前提、科学的論理展開という三つが分けられることで、社会を科学的に分析し、そして個々人を歴史的文脈から切り離して評価ができるようになるのだと言える。

こうすることで、社会科学のテキストも、著者の個人的背景そしてそこから導き出される前提と、テキスト自体の論理性というものを峻別して読むことができるようになる。スミスやマルクスが考えた理屈は、どの程度まで本人の前提に依存しており、どこからが科学的に分析可能であると言えるのか。例えばスミスのピン工場の例は、人数が限られ、ある程度のゼネラリスト的能力の求められる日本の中小企業に応用可能であるのか。つまり、ピンの頭だけをつける人間が中小企業で求められるのか、という問題は出てくる。マルクスの革命史観にしても、権威と権力が分かれた社会においてそれは可能なのか、一体誰に対して革命を起こすべきなのか、という問題は発生しよう。民主的制度の整った立憲君主制の国において、君主の首をすげ替えることは実際的な意味があるのか。この辺り、前提がどこにあって、何の議論をしているのか、ということが明確にならないと、どんどんすれ違いが大きくなってしまう。マルクスを聖典と仰ぐ共産主義で内ゲバのようなものが多いのは、その辺りの議論の仕方が全く科学的ではなかった、ということがあるのだろう。

これは社会科学に限らず、文献史学などにおいても言えることなのだろう。作者の立場や意図を検討することなく、書かれたテキストが客観的に正しいものだとみなすことは、科学的にも、文学的にもまったく正しくない。文学的に考えれば、客観的に”正しい”テキストなどありうるはずもないことは明白。それを考えれば、聖書などの聖典を絶対視する宗教というのがいかに前近代的か理解できよう。客観的な正しさなどは、同時代ですら決められ得ないのに、ましてや過去の一人もしくは数人の限定的な主観が客観的に正しいなどということはあり得ようはずがないのだ。テキストは必ず何らかの主観のもとに書かれるものであり、そこからいかにして科学的分析に耐えうる部分を導き出すのか、というのが、社会科学的なテキストの読み方であると言える。

ヘーゲル的弁証法は、事象の観察や認識ということよりも、むしろその観察や認識をおこなう自我の確立のために有効な手法であると言える。社会をヘーゲル的に弁証法を適用して分析しても、それは結局主観による分析にしかならず、それ自体科学性をもたらすものではない。観察主体を科学的に定義することによって初めてその観察対象も科学的に分析可能になるのだということを理解した上で、社会科学を論理的に構築してゆく必要があるのだろう。

誰かが読んで、評価をしてくれた、ということはとても大きな励みになります。サポート、本当にありがとうございます。