【Lonely Wikipedia】シャルル・ド・ゴール
ブレトンウッズ体制を崩壊に導くのに大きな役割を果たしたフランス第五共和制初代大統領シャルル・ド・ゴールについてみてみたい。
その前に、フランスも絡んだヨーロッパの戦後の情勢についてみておきたい。
まず、フランスとその植民地との関係で、フランスのブレトンウッズ体制加入に伴ってCFA francが導入された。
Creation
The CFA franc was created on 26 December 1945, along with the CFP franc. The reason for their creation was the weakness of the French franc immediately after World War II. When France ratified the Bretton Woods Agreement in December 1945, the French franc was devalued in order to set a fixed exchange rate with the US dollar. New currencies were created in the French colonies to spare them the strong devaluation, thereby facilitating imports from France. French officials presented the decision as an act of generosity. René Pleven, the French Minister of Finance, was quoted as saying -
In a show of her generosity and selflessness, metropolitan France, wishing not to impose on her far-away daughters the consequences of her own poverty, is setting different exchange rates for their currency.
CFAフランを使用している国は外貨準備高の50%をフランスの国庫にて保管しなければならないという規定があり、旧宗主国であるフランスによる経済支配と批判されてきた。
フランスフランの切り下げによって植民地の購買力が落ちないように、現地通貨の方が価値が高くなるように「寛大な行動」として導入されたという。対ドルについて言えばそうとも言えるかも知れないが、基本的に本国への原材料供給によって経済が成り立っていたと考えれば、ブロック化の固定であったと評価できそう。原料を高く売れても、それは戻ってくる商品価格に反映される一方で、フランス以外の通貨に対して価値は変わらないので、輸出市場を広げることができないと言うことになる。ヨーロッパに近い穀倉地帯という位置付けにすれば、通貨価値が下がれば、ヨーロッパで不足する食糧を安価で提供できた可能性もあったが、結局マーシャル・プランも相俟ってその可能性はなくなったことになる。このあたり、フランスの植民地政策がどんなものだったのか、ということを見ないと正確には評価できないが、感覚的にはそれが西アフリカのモノカルチャー化のきっかけとなったと言ってもよいのかも知れない。そして、外貨準備の半分をフランス国庫にて保管などというのは収奪以外の何物でもない。
* 26 December 1945 to 16 October 1948 – 1 CFA franc = 1.70 FRF (FRF = French franc).
* 17 October 1948 to 31 December 1959 – 1 CFA franc = 2.00 FRF
* 1 January 1960 to 11 January 1994 – 1 CFA franc = 0.02 FRF
* 12 January 1994 to 31 December 1998 – 1 CFA franc = 0.01 FRF
* 1 January 1999 onwards – 100 CFA franc = 0.152449 euro or 1 euro = 655.957 CFA franc.
レートは、フランスが弱い時にCFAを強くして、自国経済が安定したら二桁のデノミを行い、CFAにも二桁切り下げを強いた。
一方で、ヨーロッパとの関係では、
モネ・プラン(Monnet plan)は、第二次世界大戦後にフランスの政治家ジャン・モネによって提案された、フランス再建計画である。ドイツの石炭・鉄鋼産出地域であるルール地域とザールに対する支配権をフランスに与え、これらの資源を活用してフランスの工業生産を戦前に比べて150%にまで引き上げることを提案した。1946年初頭にシャルル・ド・ゴールによって採用されたこの計画は、ドイツの工業生産能力を恒久的に制限すると共に、ドイツの資源を欧州復興のために活用することを確実にするというものであった。
こちらではドイツから生産性の高い場所を奪い取って復興しようという企み。結局これが1952年の
につながり、57年には
ができて、67年にその三つが一緒になって
となった。これが欧州統合の底流となっていった。
ここでようやくシャルル・ド・ゴールを見ることができる。
英語版の方が詳しいところもあるので
Childhood and origins
Charles André Joseph Marie de Gaulle was born on 22 November 1890 in Lille in the Nord department, the third of five children. He was raised in a devoutly Catholic and traditional family. His father, Henri de Gaulle, was a professor of history and literature at a Jesuit college and eventually founded his own school.
Henri de Gaulle came from a long line of parliamentary gentry from Normandy and Burgundy. The name is thought to be Dutch in origin, and may well have derived from van der Walle ("from the rampart, defensive wall"). De Gaulle's mother, Jeanne (born Maillot), descended from a family of wealthy entrepreneurs from Lille. She had French, Irish, Scottish, and German ancestry.
De Gaulle's father encouraged historical and philosophical debate between his children at mealtimes, and through his encouragement, de Gaulle grew familiar with French history from an early age. Struck by his mother's tale of how she cried as a child when she heard of the French capitulation to the Germans at Sedan in 1870, he developed a keen interest in military strategy. He was also influenced by his uncle, also named Charles de Gaulle, who was a historian and passionate Celticist who wrote books and pamphlets advocating the union of the Welsh, Scots, Irish, and Bretons into one people. His grandfather Julien-Philippe was also a historian, and his grandmother Josephine-Marie wrote poems which impassioned his Christian faith.
父親がイエズス会の学校で歴史学と文学をおしえており、伯父も歴史家だと言うことで、学問に強い家系だと言える。ド・ゴールというのがオランダ系では、となっているが、Gaulleはガリアを意味するGauleと一字違いで、ガリアの、という意味ではないか。伯父が熱心なケルト主義者であり、父親がイエズス会というカトリックの会派と関わっていることからも、オランダ系というのは考えにくい。
戦争中の44年8月から戦争が終わった後の46年1月まで臨時政府の首相を務めた。55年には政界を引退したが、58年にアルジェ動乱が起き、ド・ゴールが再登板を要請された。ド・ゴールは半年間首相を務め、その間に大統領権限を強化した憲法草案を国民投票に付し、80%近い賛成で承認され、第五共和制が成立し、ド・ゴールは大統領となった。アルジェ動乱で戦費がかさんでいたため、フランは大きく下落していた。そんな中、58年12月にフランをはじめとしたヨーロッパ通貨が為替管理を撤廃して交換性を回復し、そしてフランは 17.55%切下げ(1米ドル=420フラン→493.706フラン) られ、それと同時に1年後の60年1月に1/100のデノミを行うことを発表した。
その憲法ではアフリカ植民地に大幅な自治が認められたが、経済的にはCFAにもフランのデノミが適用され、物価が一気に100倍になることになった。この年には多くの植民地が独立に至っている。この影響はかなり大きいのだと思うが、今はそこまでは手が回らない。
De Gaulle vetoed the British application to join the European Economic Community (EEC) in 1963, famously uttering the single word 'non' into the television cameras at the critical moment, a statement used to sum up French opposition towards Britain for many years afterwards.
これについては、表向きは農業問題がテーマになっているようだが、実際にはド・ゴールがせっかく手に入れた核兵器について、マクミランが核実験禁止条約に積極的だったから、ということがありそう。そもそもEFTAを作ったすぐ後にEECの加盟申請をするというのが不可解なので、元からマクミラン自身が核実験禁止に積極的なケネディと組んでEEC加盟を使ってド・ゴールとフルシチョフに揺さぶりをかけた、ということがありそうで、そのあたりを以てトロイの木馬だ、と言っているのではないかという気がする。翌年の中国との国交正常化、そしてその年の内に中国が最初の核実験に成功したのも、ド・ゴールの核分散化戦略の中にあったのかもしれない。
1966年にフランスがNATOの軍事機構から脱退(一般の政治部門には残留)し、NATO本部がパリからブリュッセルへ移転した。このときフランスは国際連合の分担金の支払いを停止し、アメリカと近い立場を取るイギリスのヨーロッパ経済共同体への加盟拒否も表明し、同年11月に仏ソ直通電話線設置協定に調印した。また当時激化していたベトナム戦争に対するアメリカの介入を批判してベトナムの中立化をアメリカに提案したが、受け入れられなかった。
一番ヨーロッパ寄りであっただろうケネディの時に喧嘩してしまったら、後はどんどん離れてゆくだけとなる。まあ、ケネディのベトナム戦争介入が大きなきっかけだったのだろうからどうにもならなかったのかも知れないが。ド・ゴールとケネディがうまくいっていたら歴史は大きく変わっていたかも知れない。
ド・ゴール主義と金価格の関係は、1948年にブレトン・ウッズ協定に対立する形でCFAフランの対ドル相場がフランスフランと乖離し、ド・ゴールを支える金融資本家の経済利権となったことに始まる。1952年と1958年のピネー国債は金価格に応じてスライドするものであった。ド・ゴールは証券収入について累進課税を適用しなかった。むしろ国債応募者の所得に応じて国債利率を引き上げたうえ、相続税と贈与税を減免した。1957年にセーヌ県で行われた調査によれば、1953年までに亡くなったわずか33人の相続人が、被相続人の購入した1952年国債について10億フランの相続税を免れた。この額はナポレオン戦争の後に亡命貴族へ支払われた補償金総額に等しいが、デノミされて1000万新フランとなった。リュエフと19世紀以来の大資本が1960年前後にわたりアフリカで新たな利権を手にすると、1963年にド・ゴールが国際通貨制度を金本位制に戻そうと言い出した。そして1965年1月にフランス銀行が公然と財務省へ1億5,000万ドルをつきつけ正金へ交換した。翌月4日の記者会見にド・ゴールが登場し、「アメリカは基軸通貨という地位を利用してフランス経済を支配しようとしている」などと、疎い者を騙すような説明をした。アメリカ合衆国資本はリュエフ・プランが誘致したものであった。1967年10月、ポーランド訪問とシュナイダー・コネクションが実を結び、ローマ教皇とギリシア正教総主教の会見が実現した。11月にはポンド危機に際してド・ゴールが金価格を2倍に引き上げるよう提唱した。翌1968年3月の7か国中央銀行総裁によるストックホルム会議で金の二重価格制が採用された。ユーロダラーのインフレーションはド・ゴール主義の集大成であった。
ちょっと主観の強すぎる説明なのでゆがみがある。金融資本の経済利権かどうかは知らないが、国債を金価格連動の上、相続税減免で発行し、金貨を国庫に吸い上げようというのも、ド・ゴールの金本位への復帰への熱意を示したものだと言える。これは、戦費調達どころか、結局相続税の大幅減免となった。ただ、その後で1/100のデノミをしているので、全体としてはうまくやったのでは、という感じを受ける。
63年、ケネディの時に金本位復帰をぶち上げるというのは、やはりケネディとの間に何かあったのでは、という感じを受ける。イエズス会と関わる父親を持つド・ゴールは、アメリカ初のカトリックの大統領に期待していたが、それが裏切られたと感じたというのがあるのだろうか。ヴァチカン公会議やケネディの暗殺にも絡んでいそうだが、そこまで深入りはできない。
In 1964, de Gaulle visited the Soviet Union, where he hoped to establish France as an alternative influence in the Cold War. De Gaulle always viewed Communism as a passing phenomenon, and never used the term 'Soviet Union', always calling it Russia. In his view, Russian national interests rather than Communist ideology determined the decision-making in the Kremlin. Later, he proclaimed a new alliance between the nations, but although Soviet premier Alexei Kosygin later visited Paris, the Soviets clearly did not consider France a superpower and knew that they would remain dependent on the NATO alliance in the event of a war. In 1965, de Gaulle pulled France out of SEATO, the southeast Asian equivalent of NATO, and refused to participate in any future NATO maneuvers.
In February 1965, President Charles de Gaulle announced his intention to exchange its US dollar reserves for gold at the official exchange rate. He sent the French Navy across the Atlantic to pick up the French reserve of gold, which had been moved there during World War II, and was followed by several countries.
January 7, 1965 (Thursday)
The Bank of France demanded that the United States Treasury convert French holdings of $150,000,000 worth of United States dollars into gold. The U.S. had honored two previous requests for smaller amounts in 1962 and 1963. France's move came in light of the Finance Ministry's report that France had only 70% of its optimal gold reserve to back up its own currency.
February 4, 1965 (Thursday)
At a press conference in Paris, French President Charles de Gaulle called for an end to the Bretton Woods system that had been in force since 1958, and a worldwide return to the gold standard. Over the next two years, de Gaulle would lobby for transfer payments between nations to be made in gold, and would ultimately abandon the idea in favor of closer cooperation with France's European partners.
58年に西ヨーロッパの通貨が交換性を回復したことを受けて、ド・ゴールはそこに遡ってブレトンウッズ体制の終焉とし、世界的に金本位に戻ることを要求した。それは、65年1月に突然フランス銀行がドルと金との交換を求めてから一月後のことだった。これには、前年に失脚したフルシチョフとの関係がありそうだが、そこまではちょっと手を広げられない。
François Marie Adrien Maurice Mitterrand (26 October 1916 – 8 January 1996) was a French statesman who served as President of France from 1981 to 1995, the longest time in office in the history of France. As First Secretary of the Socialist Party, he was the first left-wing politician to assume the presidency under the Fifth Republic.
ド・ゴールの政治にそれほど大きな瑕疵があったようには見えないが、その間に全体主義社会主義者が動き出す。フランソワ・ミッテランは、ヴィシー政権に忠実だった、保守系とされていた人物だが、それが左側から中道にかけて大きく支持を広げていた。65年12月の大統領選で、1回目投票でのド・ゴールの勝利に待ったをかけ、その存在感を示した。67年の総選挙では左翼連合が比較第一党に躍り出て、ド・ゴール政治の足かせとなった。そしてその翌年に五月革命が起きる。
フランスの五月革命(ごがつかくめい)は、1968年5月に起きた、フランスのパリで行われたゼネスト(ゼネラル・ストライキ)を主体とした学生の主導する労働者、大衆の一斉蜂起と、それに伴う政府の政策転換を指す。五月危機ともいう。フランス語では「Mai 68」、英語では「May 68」と表記する。
68年という年は、ベトナム戦争がピークに達した年であり、年明けから北ベトナムによるテト攻勢が始まり、3月にはソンミ村虐殺事件がおきて、反ベトナム戦争の機運が世界的に高まっていた。パリ大学の学生が大学閉鎖に反対して暴動を起こしたのは、アメリカと北ベトナムの代表団が10日からパリでベトナム戦争の終戦に向けて会議を行うことに合意した日だった。10日までに学生の暴動は激化し、13日からは労働者のストライキも加わった。25日にジャック・シラクの主宰で労働者、国、雇用主組織の間での三者間会議が催され、翌日 最低賃金が3分の1上昇し、労働組合への公的権利が確立される「グルネル協定(Grenell agreements)」が締結されると、その翌日にはベトナムで北緯20度線への空爆が行われていることに対して、随行していたヴァンスをワシントンに送り返した。その翌日にフランスでは全国規模の80万人デモが起きた。
この運動の軸となっていたのは、
のちに欧州議会の議員となったユダヤ系ドイツ人、赤毛のダニーこと「ダニエル・コーン=ベンディット」、フランス西部レンヌで美術教師となった全学連(UNEF)の副リーダージャック・ソヴァジョ(フランス語版)、国家教育名誉査察官になった反=スターリニズムの毛沢東主義者アラン・ジェスマル(フランス語版)、革命共産党連盟(LCR)のスポークスマンになったトロツキストアラン・クリヴィンネ(英語版)らの指導者があらわれ、一部の労働者も学生に賛同して、運動は労働者にも波及してゆく。
一方
ド・ゴールはラジオ放送を行ない、辞任を拒否するが、国会を解散すると述べた。その夜、何十万人ものド・ゴールの支持者、いわゆる「サイレント・マジョリティ」がパリのシャンゼリゼ通りを行進した。
これをどう読み解くかと言えば、まず、ド・ゴールは、和平会議が始まった3日後から外遊に出かけていると言うことで、少なくとも積極的にこの和平会議を主催したものではないことがわかる。ということは、形式上は、アメリカ側からフランスに仲介を依頼して、ド・ゴールは場所を提供することでそれに応えた、という事になる。そして、それに先立つ形で、政治とは関わりの無い、学生の大学運営に対する不満から学生がざわついており、和平交渉が行われるという合意がなされたところで、それが暴動へと変わる。
パリ大学ナンテール校
À sa création en 1965, Nanterre « a soulevé de grands espoirs » et « devait être le lieu d'expérimentation d'un enseignement renouvelé, l'esquisse de l'Université de demain », en profitant de l'apport de « célèbres professeurs » qui « ont volontairement quitté la Sorbonne pour participer à la Grande Aventure ». Henri Lefebvre, professeur de sociologie de 1965 à 1968, influence les étudiants qui initient le mouvement de Mai 68, puis livre une analyse à chaud des événements.
どうもソルボンヌからの離脱組の教師がたまり場としていたようで、その中でも、学生をたきつけたとみられるアンリ・ルフェーブルという哲学者は、
Henri Lefebvre, né le 16 juin 1901 à Hagetmau et mort le 29 juin 1991 à Navarrenx, est un philosophe français. Il s'est consacré à la sociologie, la géographie et au matérialisme historique en général. Influencé par la pensée de Karl Marx, il fait partie des premiers intellectuels qui diffusent en France la connaissance du marxisme.
Mais son évolution au cours des années 1950 concernant la théorie marxiste, en particulier son rejet sans concession du stalinisme accentué à partir du rapport Khrouchtchev, lui vaut d’être suspendu du PCF en 1958, suspension qu'il transforme librement en exclusion.
マルキストで、かつ反スターリニストだったとのこと。
大学への不満を、ド・ゴールの失政へと結びつけることを目指して、国内政治的には、躍進しだした左派連合のミッテランによる政権交代を目論見ながら、敵の敵は味方の論理で、ド・ゴールの宿敵であるアメリカと手を結んで国家転覆をもくろんだのだといえそう。
そして、満州と関わりの深いハリマンを代表として送り込んだアメリカも、和平などは実はどうでも良く、ド・ゴールを大統領から引きずり下ろすことが最大の目標だと言え、だから結局ベトナム和平はそこから更に5年も延々と続くことになるのだろう。和平交渉すらもそれ自体が目的ではなく外交手段に過ぎないのだから、途中で空爆もするし、ニクソンショックを起こして敵だったはずの中国とも結ぶし、そして金本位も放棄するし、何でもする、ということなのだろう。結果的には、ド・ゴールは挑発自体には選挙できちんと勝ち、そしてアメリカをニクソンショックに追い込んだという点で、ほぼ完全勝利と言ってよいことになったが、アメリカ自体の態度を変えさせるには至らず、未だにアメリカは独自路線をひたすら突っ走っていることになる。
ド・ゴールを支持していた「サイレント・マジョリティ」は、アメリカでは次の選挙でニクソンがその票を得たもの、と解釈されるようになった。
ド・ゴールは非常に興味深い人物だが、Wikipediaで追っていたら時間がいくらあっても足りないので、ニクソンショックに関わる部分として、ここまでとしておく。最初の二つの話もうまく回収しきれなかったが、とにかく当時の世界情勢を主導していた一人であることは間違いなさそう。この見方が加わるだけでも世界の動きは非常に立体的になる。
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