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【Lonely Wikipedia】スターリング・ポンドの凋落

アメリカがポンド経済圏を狙い撃ちにしてブレトンウッズ会議に臨んだのは見てきたとおりだが、その詳細についてはWikipediaでは追うことができない。そのことについての研究は多くなされているようだが、代表的なものとして
パワーと金融 : 1945年英米金融協定の研究

このテーマとなっている英米金融協定というのが、ニクソン・ショックに至る大きな伏線となってくる。1945年12月6日に締結されたその英米金融協定の主な内容は、37.5億ドルの資金供与、ポンド域内諸国との経常取引自由化、累積ポンド残高の処理などだった。この中には、レンドリース法による戦時供与の200億ドル以上の対米純債務の棚上げと残余資産の格安譲渡という寛大な処置が含まれていた一方で、協定発効後1年以内のポンドの交換性復帰、そしてポンド残高処理の保留と言うことで、ポンド圏の早期解体と、不確定債務の長期継続が定まり、これが戦後イギリスの国際経済政策を大きく規定することになった。

この協定は46年7月15日に発効し、それがあっての47年6月に突然発表されたマーシャル・プランであり、つまりその本質はイギリスのポンド残高によってまわっていたポンド経済圏を解体し、それをドルに置き換えるということで、イギリスはポンド残高があるが故にそれに飛びつかざるを得なかったし、アメリカはそのポンド残高をえさにすることでどんどんイギリスを追い詰め、できる限りの譲歩を引き出すことができたのだ。

とにかくその協定に従って、47年7月15日にはポンドの交換性を回復したが、すぐ8月20日には停止に追い込まれている。この間、8月14日、15日にパキスタンとインドの独立がなされていることから、この両植民地に対するポンド残高の精算に関わっているのではないかと考えられる。この交換性一時的回復の前後でポンドのレート自体は大きく変わっていないので、一時的にポンド安にして、両植民地に仮にポンド建て債務があったのならば、それを一時的に軽くして何らかの処理を行った可能性がある。

翌48年1月4日にはビルマが独立した。

ここで気になるのは、格安で英国に譲られた戦争終了時に輸送中だったとされる物資の扱いだ。ヨーロッパ戦線はアジアよりも先に終戦を向かえており、輸送中の物資は中国戦線向け、援蒋ルートに絡むものだった可能性がある。それを誰が受領するのか、というのはなかなか悩ましい問題で、イギリスが支払い、それをまた本国まで回送するというのは現実的ではなく、実際にはそれがインドのポンド残高の精算に回された可能性があるのではないか。つまり、交換性回復でポンドをぎりぎりまで下げ、ポンド残高を減らした上でドル建ての資産を譲渡することでそのポンド残高の精算を行えば、イギリス側の負担が少なくて済む、ということがあったのかもしれない。ミャンマーについてはほとんどポンド残高はなかったと思われ、独立時期をずらすことでその残高処理が混じることを防いだか。

更に2月4日にはセイロン(現スリランカ)が独立した。

このあたりも事情がありそうだが、今はよくわからない。想像するに、タミル人の方がシンハラ人よりもイギリスとつながりが深かったということで、ポンド残高はタミル人の方が多く持っており、その補償問題のようなものが両民族の対立につながっていったのかも知れない。いずれにしても、このあたりの植民地解放が慌ててなされたがために、南アジアに対立の構図が残された可能性もある。

3月17日には仮想敵国をドイツとした相互防衛協定のブリュッセル条約が締結され、後に西ドイツとイタリアを加えて西欧同盟へと発展する基礎を作った。

元々1年前の英仏間のダンケルク条約があり、そこにベネルクス三国が加わる形で広がったもので、その段階でドイツを仮想敵国とする相互防衛条約が必要なのか、というのは多少疑問が残る。要するに大陸に戦乱が起こった時にイギリスを巻き込みたいという条約であったと言え、ドイツを仮想敵国とするというのはフランスの主張だったとされるが、ブリュッセル条約はベルギーから摂政、首相、財務大臣が出席していると言うことで、ベルギーが主導していたようだ。

そこには大陸の政治情勢があった。まず、フランスは、第四共和政下で左派のヴァンサン・オリオールが大統領を務めていたが、大統領には権限があまりなく、実権を持つ首相は ポール・ラマディエが1947年1月22日 - 12月19日まで務めていた。

ラマディエは非常に強硬な独裁的傾向を持つ人物で、

対外的には強硬派で、1947年2月13日ベトナム民主共和国に対してこれを相手にせずという政府声明を出したり、フランス領であったマダガスカル島で暴動が起こると、これを武力で鎮圧し8万人の死者を出したりしている。
The French had humiliatingly had to ask Britain to yield Madagascar after World War II ended, and French political leaders suspected that Britain or South Africa would attempt to wrest Madagascar from France.
The French generally suspected that the rebellion was secretly supported by foreign powers, most significantly by the United Kingdom.

マダガスカルの歴史もまた複雑ではあるのだが、このマダガスカルへの暴動に対してイギリスが支援しているのではないかと疑いを向けておきながら、同じ月3月にダンケルク条約を結んでいるのだ。条約を結んでから暴動が悪化したという流れから、これは何かしら外交上で利用された条約である可能性がある。それについては後から少し触れる。

内政でもこの年には各地で食糧暴動が発生しており、三党連立の一角を占めていた共産党系の最大労組である労働総同盟(Confédération générale du travail、CGT)もストライキに突入した。それに対してラマディエは5月に共産党の閣僚を更迭し、連立を解消した。ストライキは11月に暴動に発展し、ラマディエ首相が辞任することでようやく、12月にストは収拾された。このラマディエは、大戦中、レジスタンス運動に参加し、その行動に依ってか、戦後、イスラエルのホロコースト博物館であるヤド・ヴァシェム Yad Vashemにその名が刻まれ、「諸国民の中の正義の人」の称号を贈られたという。

ラマディエの後に首相となったのがロベール・シューマンで、彼はドイツ語圏の生まれだということもあり、ドイツとの関係再構築に熱心に取り組んだ。

一方でベルギーの首相なのだが、調印したのがポール=アンリ・スパークだとされるが、彼が首相となったのは調印後の3月20日からで、調印時には首相ではなかった可能性がある。それまでは、国連総会の議長を務めており、その立場で参加していた可能性がある。48年の国連総会は11月から12月にかけて開かれていたようで、そのような中途半端な時期に交代するというのはおかしな話である。

おそらく、実際には、このブリュッセル条約に参加していたのは前任の首相であったカミーユ・ユイスマンであったと考えられる。

Between 1905 and 1922 Huysmans was secretary of the Second International. In that function he had many contacts with Sun Yat-sen, the leader of the first Chinese revolution, in 1911. His main task was creating an active peace function. At the Socialist Conference in Stockholm in 1917 he pleaded against continuing the war.
He was a fighter for the Flemish movement and fought for using Dutch at the University of Ghent.

彼は第二インターナショナルの秘書を務めていた共産主義者で、その関係で孫文とつながりがあるとされるが、孫文が共産主義と関わりを持ったのはユイスマンがインターナショナルから離れた後の23年頃であり、その関わりは嘘であろう。ユイスマンはベルギーにおいてオランダ語に近いフレミッシュを促進する運動に関わっており、要するにオランダに近い人物であり、オランダと中国共産党と言えば、その創設に関わったとされるヘンドリクス・スネーフリートの名が思い浮かぶ。つまり、中国共産党が1921年に創設されたという神話づくりに関与している可能性がある人物だと言える。

Huysmans is considered a friend of the Jewish people, mainly due to his friendly attitude towards Jewish immigrants in Antwerp in the years 1920–1940 and the Zionist movement[citation needed]. Some streets and neighbourhoods in Israel bear his name[citation needed].

ユイスマンは、内政においては急進改革を進める一方で、ユダヤ人と友好的だったとされる。その立場で、ラマディエの進めた英仏の対独相互防衛条約をベネルクスまで広げ、第2次世界大戦におけるドイツ悪役の印象を強化し、その一つの手段としてユダヤ人大虐殺という話を大きく取り上げた可能性がある。そして、その有効性を高めるために初代の国連総会議長を務めていたスパークを連れてきて条約に署名させて箔を付けたのではないか。

ブリュッセル条約の成立には、イギリスに武器を売り込みたいと考えていたアメリカの意向も多少なりともあったと考えられ、だから、その条約締結後の48年4月3日にトルーマンが1948年経済協力法に署名し、15日から援助が開始されることとなったのではないか。フランスはマーシャル・プランの受け手第一号であり、その点でもフランスが早くマーシャル・プランを指導させるためにイギリスを巻き込んだ可能性はありそう。

なお、48年5月14日にイスラエルが建国され、14日から15日に変わると、イギリス委任統治領パレスチナが廃止された。そして上に書いたマダガスカルについては、戦時中にドイツがユダヤ人を送り込んでその土地にするという計画があったとも言う。イスラエルの建国については、イギリスのバルフォア宣言が大きな根拠となっており、それによってイギリスに圧力をかけることでイギリスから譲歩を引き出していた可能性がある。トルーマンには親友としてユダヤ人の エドワード・ジェイコブソンがおり、イスラエルの承認に深く関わったという。48年は大統領選イヤーであり、敗北が予想されていたのにもかかわらず、いろいろなことがあって、結局トルーマンが再選されている。そしてその頃パリでは第3回の国連年次総会が開かれていた。

49年9月19日、ポンドはドルに対して30%の切り下げを行った。財務大臣スタッフォード・クリップの適切な政策もあり、輸出も回復、増税によって社会保障もしっかり機能するようになり、全く切り下げを行うタイミングではなかった。

He was reluctant to spend large sums on the Marshall Plan of aid to Europe. Snyder had little diplomatic experience, and in his negotiations with British leadership regarding Britain's need for dollars, he angered his counterparts. Paul Nitze, an American negotiator, recalled a meeting in Washington in September 1949:at one point Secretary Snyder made some very -- well, remarks which I thought were wholly undiplomatic and rude and showed his lack of concern for the UK problem (the general sense of them was why didn't the UK get a hold of itself, and why didn't its people do some work for change and why don't you cure those productivity problems in the United Kingdom, and why don't you get off your butt).

トルーマン政権の財務長官ジョン・スナイダーが、マーシャル・プランの予算を削減するために、ポンドの切り下げによってドル建ての支出を減らそうと圧力をかけた可能性がある。Snyderというのはオランダ系の姓である可能性が高く、オランダ系と言えばルーズベルトがおり、そしてすでに書いたとおり、オランダはドイツ西部の領土の割譲を求めていた。また、ベルギーの首相もオランダ系が続き、フレミッシュの公用語化が進んでいた。そのスナイダーが財務長官になった6月25日の20日後に英米金融協定が締結されている。つまり、スナイダーはマーシャル・プランの前提となった英米金融協定について熟知しており、その内容を何かしらつつくことでイギリスの通貨政策を変えさせること位はできた可能性がある。

56年にはスエズ危機が起こった。

The United States also put financial pressure on the UK to end the invasion. Because the Bank of England had lost $45 million between 30 October and 2 November, and Britain's oil supply had been restricted by the closing of the Suez Canal, the British sought immediate assistance from the IMF, but it was denied by the United States. Eisenhower in fact ordered his Secretary of the Treasury, George M. Humphrey, to prepare to sell part of the US Government's Sterling Bond holdings. The UK government considered invading Kuwait and Qatar if oil sanctions were put in place by the US.
Britain's Chancellor of the Exchequer, Harold Macmillan, advised his Prime Minister, Anthony Eden, that the United States was fully prepared to carry out this threat. He also warned his Prime Minister that Britain's foreign exchange reserves simply could not sustain the devaluation of the pound that would come after the United States' actions; and that within weeks of such a move, the country would be unable to import the food and energy supplies needed to sustain the population on the islands. However, there were suspicions in the Cabinet that Macmillan had deliberately overstated the financial situation in order to force Eden out. What Treasury officials had told Macmillan was far less serious than what he told the Cabinet.

アイゼンハワーが経済制裁の一環として為替の切り下げについて言及したが、これはイギリスの財務大臣マクミランのエデン首相下ろしだと考えられたよう。実際このときにはそれほど大きくは為替は動かなかった。スエズ危機または第2次中東戦争というのも非常に興味深いテーマであるが、ここで触れていると切りがないのでここまでとする。

58年の年末にヨーロッパの他の主要通貨と同様にポンドも交換性を回復し、それによって通貨の戦時体制は終わりを告げた。尤も、元々ポンドにはそれほど取引の制限があったわけではないので、余り影響はなかった。ただ、これによって、ド・ゴールのフランスは目指していた金本位への復帰ということは目標から外れたのかも知れず、ドルへの従属体制は固まったと言えそうだ。

その後、景気の停滞に伴い、67年には再びポンド切り下げに追い込まれた。この頃は、市場の力がかなり強くなっていたようで、ウィルソンは切り下げには反対していたようだが、結局切り下げに追い込まれたという。外交的にも第3次中東戦争などいろいろあった時期ではあるが、ちょっと今のところは直接の原因のようなものは見つけられなかった。

1971年2月15日に通貨が10進法に移行となり、シリングが廃止された。それに先立つ2月4日にはロールス・ロイスが破綻、国有化されており、アメリカが寄生する形で保たれていたブレトンウッズ体制の基礎であるポンドは、寄生つくされてしまって、もはやそれを支えられるような状態ではなくなっていた。そして8月15日のニクソンショックを迎えることとなった。

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