オリンピック 名古屋からソウルへの事情
明後日9月30日は、名古屋が有力視されていたオリンピックがソウルで開催されることが決まって40年目に当たる。その背景には一体どんなことがあったのだろうか。
大平内閣の本質
三木内閣の後に、福田赳夫が2年後に大平に総理を譲るという大福密約で1976年の末に内閣を組んだ。その2年後1978年に約束の大平正芳への禅譲の時期が来るのだが、福田の芝居じみた行動によって何が本筋だったのかが非常に見えにくくなっている。それを読み解く鍵となるのが、1979年総選挙の最中に大平が突然取り上げた一般消費税の問題となる。Wikipediaによると、この問題は、1978年、福田政権末期の総裁選直前に税制調査会が提言したとされる。これが政府税調なのか党の税調なのかわからないが、政府税調は当時本当に存在したのか怪しい。税制とはほとんど縁のない小倉武一が16年間も会長を務めているというのがあまりに不自然で、それ以前の税調はほとんど短期間、長くても3年程度で期限となっており、連続して、ということはなかっただろう。そして、仮に政府税調だったとしたら、それは福田内閣の下にあったことになり、会長が税務についてあまり詳しくないのだとしたら、大蔵省出身の福田の傀儡であったと考えられ、つまり福田の意思に基づく一般消費税の提言だったということになる。そうなると、その後大平が選挙中に一般消費税を突然持ち出したことから起こった四十日戦争とは一体なんだったのか、ということになる。一方で、党税調だったとしたら、当時の会長は大平派の金子一平だったと思われ、その後第一次大平政権で大蔵大臣となっていることからも、一貫性が出てくる。しかし、大平の持ち出した一般消費税は党の理解を得ていなかったとされており、党税調からの提言が党の理解を得ていなかったというのもおかしな話となる。そしてその後は反大平で消費税反対派の山中貞則が長きに渡って党税調のドンを務めることになったことを考えると、税調と言っても政府でも党でもない、あえていうのならば大平派の私的諮問機関のような形でなされた可能性が高いのではないだろうか。
新自由クラブの動き
その頃大平は幹事長として新自由クラブの幹事長西岡武夫と連絡を密にしており、つまり、一般消費税の話は大平−西岡ラインで進んでいたとみられる。その後、大平は総裁選に勝った後に、新自由クラブとの連立を模索しており、このラインでの一般消費税成立を目指していたと考えられ、それが1979年総選挙の隠れた争点となる。一方で、西岡は結局総選挙の前の79年7月には新自由クラブを離党し、保守系の無所属として当選している。その選挙では、幹事長が脱退したとはいっても、自民党への擦り寄りが嫌われたか、新自由クラブは9議席減らして4議席にとどまった。ただ、本当に新自由クラブが選挙に勝つ気があったのか、というのは非常に疑問で、というのは、その前の新自由クラブ結党直後の1976年選挙で、投票率が73%を記録し、それが追い風となったか、新自由クラブからの当選者はほとんどがトップ当選となっている。つまり、前回述べたような河野一郎仕込みの河野洋平の政治工学的手法は、投票率を上げることでほとんど計算通りに動く、ということが実証されたのだと言える。その上で、1979年選挙は投票率が68%にまで下がっており、あえてそれを稼働させなかった可能性があるのだ。まず、消費税含みで自民党と近づく、という話になれば、浮動層は投票に行かなくなる可能性が上がる。そして、選挙の時の代表の河野洋平の父親一郎、それから選挙後に河野を継いで代表となる田川も、先に出たテレビ朝日の親会社である朝日新聞の出身であり、報道のコントロールはある程度効かせることができそう。一方で、河野洋平と福田赳夫の息子康夫は大学の同級生であり、新自由クラブとして大平に近づきながら、福田とも関係を保っていた可能性がある。福田が1978年の総裁選で第一回投票で敗れたところでさっさと身を引きながら、総選挙後にまた総裁に色気を見せるという行動は、自民党の中でも主流派とは言い難い福田派清和会を率いて自民党を分断させるつもりであったかもしれず、そこで河野洋平の新自由クラブと通じていた可能性もある。つまり、いずれにしても、河野は選挙後に自民党が二分することは見越しており、キャスティングボートを握るという形にするにしても、あまり大所帯にすると統制が効きにくいので、身軽になるために数を減らした可能性があるのだ。そして80年のハプニング解散では投票率が再び78%にまで上がり、新自由クラブは議席3倍増の12議席を獲得した。今でも朝日新聞などの新聞社が投票に行こう、というキャンペーンを張るのは、浮動票は政治工学に忠実に動きやすいので。新聞社などのマスコミ報道によって作られた文脈に沿った風を起こしやすい、というのがあるのだろう。
日ソ共産党関係正常化
河野洋平が日本共産党のソ連共産党との接近の動きを読んでいたかどうかはわからないが、公明党が社会党に共産党と絶縁するよう迫っていたという動きは耳に入っていたはずで、そこからソ連共産党との接近はある程度予測できたのかもしれない。そのソ連側ではブレジネフ後継として有力であったクラクフが1978年に急死し、ブレジネフ後の見通しが急速にきかなくなっており、なんらかの打開策を探っていたのだと言える。そんな中で、千島列島全島返還を主張する日本共産党は、国際情勢の中でスターリン系を立て直すために必要な西側への楔となるわけで、その繋がりが求められたのだと言えそう。それに対するアンドロポフの巻き返しで一気に世界情勢が動き出す。
韓国情勢
さて、それに少し先立って、韓国では1979年10月26日に朴正煕が暗殺され、全斗煥がクーデターの末実権を握り、1980年9月1日に大統領となっていたものの、こちらも不透明さが増していた。10月10日に北朝鮮の金日成主席は第6回朝鮮労働党大会で連邦制による朝鮮統一案として「高麗(コリョ)民主連邦共和国」設立を訴えたが、この案を全斗煥は拒否していた。ソ連のアフガニスタン侵攻により、冷戦構造が強化されており、その状態での統一の話は進められなかったのだろう。常識的に考えて、冷戦が激化する中において、その最前線で軍政下に突入したばかりの不安定なところでわざわざ第二次世界大戦後に建国された国として初めてのオリンピックをやる、などということはあまりに異常なのだが、力技でそれが行われることになる。
ソウルオリンピック決定
それは、大平内閣が総辞職し、その選挙期間中に大平が急死し、それによって弔い合戦となった自民党が圧勝してできた鈴木善幸内閣の時に起きた。その鈴木内閣の時、日米の安全保障というのが大きなテーマとなっており、同盟の定義についての議論が起こり、もともと社会党出身でハト派スタンスの強かった鈴木善幸を締め付けた。社会党や共産党は同盟批判を繰り広げ、一方で外務大臣の伊東正義は軍事同盟を示唆したことで、それは左右の対立軸を際立たせることになる。伊東はそれによって外務大臣を辞職し、その後に園田直厚生大臣が横滑りで外務大臣となった。その園田外務大臣の時に、韓国の全斗煥政権が5年間で60億ドルという借款や技術援助を求め、園田はそれを退けたが、その交渉過程で全大統領が朝鮮の植民地化について朝鮮側の責任を認め、おそらくその対価のような形で、有力視されていた88年の名古屋でのオリンピックがソウルに変わったのではないかと考えられる。
サラマンチ
これには様々な要素が関わっており、まずは当時IOCの会長だったのが、モスクワオリンピックボイコットによって新たに選任されたスペインのサラマンチで、彼は熱心なフランコ派であった。フランコは、満州国を承認しながらも、日本に対しては厳しい態度をとっていた人物であり、むしろ満州国の利権構造の方に関心を持っていた人物であると考えられる。そんなフランコを支持していたサラマンチは、まずは軍事政権にオリンピックをやらせるということ自体に多少の価値を見出していた可能性がある。なお、この年はあちこちで戒厳令が出ており、バングラデシュでクーデター、そして後から話が出る教皇ヨハネ・パウロ2世の出身国ポーランドでも軍政による戒厳令が出ている。そして、ソウルの次の92年のオリンピックは、サラマンチの出身地であるバルセロナになったわけで、そこは交換条件があったとみられる。さらには、サラマンチはまさにオリンピックの商業化に大きく舵を切った人物であり、その闇財源として満州国、朝鮮利権というものを充てた可能性がある。そうなると、その利権を握っており、スポーツ界と強い繋がりを持っていた河野一郎、謙三、洋平の一族が絡んでいた可能性は大きく広がる。特に謙三は、選手団の参加の強い要望を押し切ってモスクワオリンピックのボイコットを主導しており、オリンピック問題には強く関わっていた可能性が高い。
事情と言うほどにうまく迫れていないのだが、名古屋オリンピックがソウルに切り替わった背景はだいたいこの辺りで切りとなる。
あとはもう少し関連の話だが、多少生臭くもあり、そしてあまり積極的に人に読ませたい内容でもないので、有料とさせていただきます。読ませたくなければ書かなければ良いのだが、何とも引っかかっていて、書かないと気持ちが落ち着かず書いた程度の駄文なので、特に読むことはお勧めしません。内容についても非常に主観的なもので、ほぼ想像に過ぎないので、信頼性については全く保証しません。それでもよろしかったらお買い上げください。
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