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ヨハネ・パウロ2世と国際政治(上)

ヨハネ・パウロ2世

ヨハネ・パウロ2世という、ポーランド出身の、空飛ぶ教皇とも呼ばれた、非常に精力的に活動し、母国ポーランドをはじめとした世界各地の民主化運動に大きな影響を与え、様々な宗教との和解を果たしたローマ教皇がいた。冷戦の終了に大きく貢献し、国際政治に与えた影響も非常に大きい存在であったが、ここでは、国際政治に止まらず経済、社会にも大きく波紋を広げた、彼の思想及び特にその最初期における影響について考えてみたい。

ヨハネ・パウロ2世とマックス・シェーラー

1978年10月に就任したヨハネ・パウロ2世は、オランダ出身のハドリアヌス6世以来実に455年ぶりとなるイタリア以外の出身の教皇だった。当時社会主義国だったポーランド自体は非常にカトリックの教えが強いところであり、現代になって国民国家体制ができてからイタリア以外の教皇がいつかでるのならばポーランドからというのはある程度ありえた話だと言える。そして、のちにヨハネ・パウロ2世となるカロル・ヴォイティワは、非常にユニークなことに、家族を早くに亡くし、クラクフのユダヤ人コミュニティと強い関わりを持って育ったと伝わっている。そんなこともあってか、ユダヤ人哲学者であるマックス・シェーラーの教えに強く惹かれたようで、シェーラーの思想をカトリックの教えの基本に据えるという研究をし、1953年には「カトリック倫理をマックス・シェーラーの倫理体系によって基礎付けることの可能性についての評価」という学位論文を書いた。

シェーラー哲学

そのシェーラーの教えというのは、非常に広範に渡り、難解なものであるが、軸となるのは価値を倫理学に基づくものとして定義づけたことではないかと私は理解した。そのために、全てを聖なるものとそうでないもの、といった具合に二分法で定義したのが特徴的であるよう見受けられる。だから、究極的には、それが愛憎の二分法となり、故に感情の哲学と言えるような体系を作り出したのだと言えそうだ。一方で、シェーラーは、価値の序列の基準も定めており、(1)価値は「持続的」であるほど高い、(2)分割されない価値ほど高い、(3)諸価値の根底にあって基礎付ける価値は、基礎付けられる価値よりも高い、(4)自我の中心に深い満足を与える価値ほど高い、(5)低い価値ほど相対的である、として、感覚的価値、生命的価値、精神的価値、聖価値という価値序列を定めた。つまり、個別感情である愛憎を自発的作用としながら、それを感覚的価値として低い価値序列に起き、結局聖・不聖という絶対的価値の価値判断に従属させているのだ。それによって、聖・不聖を定めることができるものが一番価値が高い絶対性を帯びることになる。
さらにシェーラーは人間を5類型に分けたとされる。それは、宗教的人間観、ホモ・サピエンス、ホモ・ファーブル、生命主義的人間観、要請的無神論で、前三つの伝統的な人間観に対して、新たに後の二つを定義し、それによって人間と絶対者との関係を定義づけた。さらに、そこに共同感情の理論を持ち込むことで、他者とのつながりが共同感情を介することによって絶対者とのつながりとなるということになるのだと私は解釈した。これによって、最初の宗教的人間観を自律的な哲学や科学にとっては全く無意味なものである、として退けながら、結局絶対者への従属となるような理論体系を作り出しているのだ。それは、人と動物は基本的に変わらないというホモ・ファーブル的な考えによる、人は精神を持つというホモ・サピエンスに対する批判を、人は精神を持つがそれは病気であるとした生命主義的人間観としてまとめた上で、要請論的無神論に従属させる、という構造なのだと言える。要請論的無神論についてシェーラーは「神は(人間の)責任、自由、任務のためには存在してはならず、また存在すべきではない」とし、「人間は、世界過程のなかに方向、意味、価値を持ち込もうとするのならば、いかなるものにも自己の思想や自己の意思のよりどころを求めてはならない。」として、事実上神を認めるよう理論的強要をしているのだと言える。実際シェーラーはこの人間観を「(神についての)不可知論を基礎とする形而上学的な要請的無神論」と呼んでおり、一方で「絶対者についての理論的不可知論は誤りである。」として、要するに要請的無神論は誤りであるといっているのであって、結局のところは回り回って神を信じる宗教的人間観に回帰せよ、といっているようなものなのである。そして、生命主義的人間観を要請論的無神論に従属させた上で自己の拠り所を否定すれば、当然動物から連綿と続くと考える進化論とは対立することになり、まさにそれがシェーラー的哲学が全く科学的ではなく、事実上宗教である所以であるということになりそう。つまり、無神論としながらもそれを否定して絶対者を持ち出しており、絶対者によって人間も自然ももたらされたと考えていることになるのだ。ここに非常に大きな矛盾があるのだが、シェーラーはその上で価値二元論を説いているわけで、絶対者は善悪あるいは聖・不聖で、悪や不聖も生み出し、その上で自らがそれを区分けして悪や不聖を定義しているということになる。それは本質的に聖・不聖を区別することになり、それに基づいた理論体系はいわば差別の正当化体系であると言えるのだろう。その本質として差別を生み出さざるを得ないような理論に基づいたものを、絶対者、神として仰ぐことは果たして適当なのか。それは万人を救うべき普遍宗教にふさわしいのか。ここに、シェーラー理論が、科学的にはもちろん、宗教的にも大きな欠陥を抱えたものであるというべき大きな理由がある。

カロル・ヴォイティワ

さて、カロル・ヴォイティワの話に戻ると、1978年のコンクラーヴェで、まずイタリア出身のアルビノ・ルチアーニが、教皇としては比較的若い65歳でヨハネ・パウロ1世として選ばれたが、宗教事業協会(バチカン銀行)の改革に取り組むとして積極的に動き出した途端に、わずか33日で不審死を遂げてしまった。ヴォイティワは当時58歳だったが、ヨハネ・パウロ1世と年齢が近かったため、普通ならば教皇選出の可能性は非常に低かったが、この不審死によって再びコンクラーヴェが開かれることになって、それによって教皇に選ばれたのだった。これは、ヴォイティワがポーランド人ということもあり、ヴァチカンの事情に疎いがために選ばれたとも言われる。

第2回ヴァチカン公会議

これには少し補足が必要で、1962−65年にかけて第2回ヴァチカン公会議が開かれた。58年10月にヨハネ23世が教皇に選ばれ、その3ヶ月後59年1月25日に、突然公会議の招集が告げられた。これには、イエズス会やドメニコ会の神学者が影響を及ぼしていたようで、キリスト教の教派を超えた結束を目指すエキュメニズムを目指した動きともされる。前年末に、フランスでイエズス会の親を持つシャルル・ド・ゴールがフランス第五共和政初代大統領に選ばれたことも影響していたかもしれない。いずれにせよ、これは、カトリック教会の現代化について討議されたもので、公会議史上はじめて世界五大陸から投票権を持つ参加者が集まった、世界規模の公会議となった。この準備段階で、アメリカの大統領選挙があり、アメリカ初のカトリックの大統領、ケネディが生まれたのも、公会議議論の盛り上がりとは無縁ではなかっただろう。ケネディの、特に外交政策と、この公会議の進行にはなんらかの関連性もありそうだが、そこまでは今は追えない。
この公会議では、進歩派の主張が強く押し出され、第一会期では事前に準備された草案が全て否決されるという事態になった。これによって主導権を握った進歩派の中心だったのは、ベルギー、フランス、ドイツ、中央ヨーロッパといったヨーロッパ北部の教父たちであり、ポーランドもそこに含まれていたと考えて良さそう。第一会期が終わって次の会期に向けての準備が進む中、63年2月にベルリンにおいて、第二次世界大戦中に教皇ピウス12世がホロコーストを見て見ぬ振りをしたという内容の、ロルフ・ホーフートによる戯曲「神の代理人」が初演された。これはカトリック教会の、特に保守派に大きな影響を与えた。6月には教皇ヨハネ23世が癌でこの世を去り、パウロ6世が新教皇に選出された。この二人はイタリア出身ではあるが、伝統的な家系ではなく、どちらかといえば進歩派に近い立場だといって良いのではないかと考えられる。同じ6月、教皇が変わった5日後の26日に、ケネディが西ベルリンを訪問し、伝説となるほどの「私はベルリン市民だ」という演説を行った。
8月には進歩派のヨーロッパ同盟の司教がドイツのフルダに集まり、第二会期の進め方が話し合われた。運営委員の大半も進歩派から出て、これによって公会議の流れはほぼ定まったと言える。第二会期は9月29日に開会され、様々な議論が行われたが、「広報機関に関する教令」と「典礼憲章」の議論が行き詰まったこともあってか、11月21日に教皇パウロ6世によって委員会定数が25人から5人増やされて30人となり、新たに5人全員が進歩派である追加の委員が選挙で選ばれた。それによって翌22日に「典礼憲章」の最終評決が行われることになった。典礼については保守派と進歩派が最も激しく対立した論点であった。なお、この22日にアメリカのダラスにおいてケネディが暗殺されている。25日に「広報機関に関する教令」が最終評決され、これら二つは12月4日に公布された。なお、25日にはケネディの国葬が行われている。そして、アイルランドはいわゆる保守派の中心勢力の一つであった。
元々カトリックは教会が非常に強い力を持っていたということがあり、その改革がテーマの一つでもあったこの公会議の成果として最も大きなものが、教会論をまとめた「教会憲章」であると言える。特に第2章の「神の民について」では、神が個人ではなく(祖形がユダヤ民族に見られる)人々のグループを聖性に招いているとされ、それはシェーラーの共同感情の理論が採用されたようにも見える。それはもしかしたらヴォイティワのシェーラー研究が影響しているのかもしれない。そして、もし仮にそれがシェーラー理論に基づいているのであれば、人の責任、自由、任務は祖形がユダヤ民族に見られる旧約聖書に源流をなす世界過程に従属すべきだ、といっていることになる。それは事実上人間の自由を否定したものであり、カトリック教会がそのような「教会憲章」を定めたということは、カトリックは自由の擁護者ではない、ということを認めたことになる、人類史上において非常に大きな改革を行なったことになるのだ。それを考えると、その評決にケネディ暗殺事件が重なっているのも偶然ではないように思える。これらのことを考えると、ヴォイティワはヴァチカンの事情に疎いどころか、従来のカトリックの考え方を大きく変更した進歩派にかなり肩入れしていた可能性があり、そのために選ばれたと考えるべきなのかもしれない。

ポーランド経済

その時期、ヴォイティワの母国ポーランドでは、1970年に就任した第一書記のエドヴァルト・ギエレクの発展戦略が曲がり角を迎えていた。70年代前半には、西側からの信用供与を用いて技術導入を行い、成長率も9.0%を記録し、生活水準も上昇した。しかし、それによって貿易赤字が増大し、対外債務が急拡大した。そこで、76年6月に、各種物価を大幅に値上げして債務の削減を図ったが、値上げ反対のストに直面し、撤回を余儀なくされた。77年には外交専門誌「フォーリン・アフィアーズ」にて80年には債務繰延を迫られるとの予想がなされていたという。この対外債務の拡大は、ソ連を含んだ東側に共通の課題だったのだが、それは東側独自の経済システムが原因であった。基本的に一国社会主義による自給自足を目指して始まった共産主義国家は、元々は貿易というものが想定されていなかった。東側の国同士では取引はあっても、実質的にバーターのようなもので、為替レートというものは存在していなかった。それが、60年代のフルシチョフの頃から、外国技術を導入して発展を図るという方針がとられるようになり、西側との貿易が始まったが、ブレトンウッズ体制に参加していなかったので、貿易をするには、何らかの形で西側の外貨を手に入れ、それによって西側から商品を購入する、というやり方を取らざるを得なかった。ソ連は石油など天然資源が豊富だったので、何とか外貨を手に入れることができたが、ポーランドには輸出品がほとんどなく、だから海外から物を買うには外貨を借入して、それで輸入するということになった。60年代後半からの東西デタントの流れの中で、西側からの貸付の動きが始まり、ポーランドにはフランス、イタリア、英国、米国、西ドイツなどの銀行が多く貸し付けたという。そんな中で、70年代に入ると、ニクソンショックによって変動相場制が始まった。つまり、持っている外貨の種類によって借金の額が日々変動するという複雑なことがはじまったのだ。さらには70年代には2度にわたってオイルショックが起き、燃料を輸入に頼っていたポーランドは、さらに借金が膨らむこととなった。それが76年の食料品値上げにつながったと考えられるのだが、輸出品がない限りにおいては何処かでその外貨は返済しないといけないわけであり、それはいくら国内で値上げをしても解決する問題ではなかったのだが、そのあたり決定的に新しい時代の国際金融の知識が欠如していたのだろう。いずれにしても、外貨建ての借金漬けになってしまったポーランドは、どこかで何らかの激変が起こることは避けられない状態であった。

ヨハネ・パウロ2世のローマ教皇就任

そんな頃にヴォイティワがヨハネ・パウロ2世としてローマ教皇となったのだ。ヨハネ・パウロ2世は、その名の元となったヨハネ・パウロ1世が命をかけた宗教事業協会の改革には取り組むことなく、むしろ世界各地を飛び回って、他の宗教の指導者とも積極的に対話をし、宗教間の和解に努めた。それは、対立を防ぐという点では確かに望ましいことではあろうが、実際には世界中の神々を一つに統合し、シェーラーの哲学的には価値を倫理学上に置くことで、宗教的に善悪を定め、それに従って価値が定まる、という一神教的価値体型をグローバルレベルで強固にしたとも言える。そのヨハネ・パウロ2世の行動を見ると、母国ポーランドに対する姿勢というのは、いかにして安定的に債務を返済させるか、という、西側金融資本の視点に基づいた物であったのではないかと想像できる。そんなヨハネ・パウロ2世は、就任後8ヶ月目の79年6月に母国ポーランドを訪れた。それに先立つ79年1月にイラン革命が起きたこともあり、更なる混乱が予想されたということもあっただろう。この時点で、ポーランドについての思想的な選択肢としては、共産主義を悪者にして苦境を抜け出す、ということしかほぼ考えられなかったことになる。

アフガニスタン・イラン情勢

さて、ヨハネ・パウロ2世の教皇就任に先立って、アフガニスタンで78年4月27日にクーデターが発生し、大統領のムハンマド・ダーウードが殺害された。ヌール・ムハンマド・タラキーが書記長として率いる人民民主党が政権を握り、彼が革命評議会議長、大統領、首相となって、アフガニスタン民主共和国の樹立を宣言し、12月にはソ連との友好条約に調印した。アフガニスタンは、第二次世界大戦中に、隣国の歴史あるイランですらも連合国の進駐を受け、英ソの勢力争いの草刈り場となっている中で、同じく英国とソ連の勢力圏争いの最前線にありながら、中立を守り通したという偉大な国だったが、そこで、まさにヨハネ・パウロ2世が教皇となった年にそれに先んじてクーデターが発生しており、翌年からソ連の介入により長く続く内戦に突入することになったのだ。それは、第二次世界大戦を正邪の争いとして定義するのに、中立という存在は認められない、という二項対立的な考え方が具現化したものであると言える。一方で、その影響を受けるかのように、その隣国のイランでも、79年1月にイラン革命が起き、親米のパフラヴィー国王がアメリカ亡命を余儀なくされた。それに対して11月4日にはテヘランのアメリカ大使館が占拠され、人質事件が発生した。イランは善悪二元論を特徴とするゾロアスター教発祥の地でもあり、それに蓋をしていたような、第二次世界大戦で中立を貫いたアフガニスタンが崩壊したことで、善悪二元論的世界が一気に吹き出したのがこの78年という年だと言えるのかもしれない。そして、その申し子としてヨハネ・パウロ2世が誕生したと考えるべきかもしれない。このあたり、アフガニスタンのクーデターは非常に大きな意味を持っており、本当はそこを解き明かさないと、ヨハネ・パウロ2世の真の姿にも近づけないような気もするが、それはかなり話の筋から離れてしまいそうなので、本稿ではここまでで止めておきたい。

レーガン大統領の誕生

そんな動きを受けて、翌80年の選挙でアメリカにこれまたアイルランド系ではあるが、ケネディとは少し色合いが違って母方のプロテスタントの影響を強く受けたロナルド・レーガン大統領が誕生した。レーガン就任当日に、上に述べたイランの人質事件は解決している。レーガン政権は、デタント政策を否定し、悪の帝国ソ連と民主主義の正義を奉じるアメリカが対決するのだ、という、いわばスターウォーズ的な価値観を表に出して、それによって共産主義と民主主義の対立構図が出来上がった。その構図の延長として、のちの80年代後半に、教皇はその母国ポーランドでの民主化運動に対して大きな影響力を持ち、教皇は民主主義を支持し、それを抑圧するものを悪とすることで、宗教的に民主主義を裏書きしたのだといえそうだ。しかし、それは皮肉なことに、シェーラー理論に基けば、理論的にはこれは自由なき民主主義への道であったのだと言える。現在の、独裁か、ポピュリズムかの二者択一的な政治体制というのは、まさにこの自由なき民主主義上での価値二元論の具現化であるともいえそうだ。

このように、シェーラーの言うところの世界過程への影響を大きく強めたのが、ヨハネ・パウロ2世の下のローマ・カトリック教会であるといえそうだ。


参考
シェーラーについて
 マックス・シェーラー価値倫理学とその問題点
 シェーラーの生命概念
 人間観の類型論
 アンリのシェーラー批判に見る他者把握の問題
ポーランド経済について
 ポーランド危機と西側諸国の対応、1980-81年
 The role of a creditor in the making of a debt crisis: the French government's financial support for Poland, between cold war interests and economic constraints, 1958-1981
 東西貿易の動向について
Wikipedia 関連ページ

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