『兵器になるネットワーク』

令和4壬寅年3月11日日本経済新聞6面オピニオンのFINANCIAL TIMESのコラムで『兵器になるネットワーク』という大変興味深い記事が出ていた。相互依存が戦争のリスクを減らす、という議論は、グローバリゼーションを推し進める一つの大きな根拠となっていたが、「平和をもたらすネットワークの時代ではなく、『武器化するネットワーク』という全く新しい時代にいるのではないか。」との指摘がなされている。

「『グローバル化は自由主義の秩序を一変』させ…『国家間で交渉していたことが民間部門のネットワークが担うようになり』、自由主義の秩序は変質した。」という。自由主義がいかに定義されているかは元のソースに当たらないとなんとも言えないが、「自由主義の秩序」という時点で、私の考える自由主義とは少し距離があるようにも感じる。これは、「自由主義」国家というものの限界を指し示すものだとも言えそうだ。ロシアは、ソ連崩壊後、曲がりなりにも自由化され、民主主義によって選ばれ続けているのがプーチン大統領である。それが、「自由主義の秩序」なる概念が「自由主義」国家の間で共有されているがゆえに、どこからが強権的であると言えるのかの線引きができなくなっているのだろう。だから、特にデジタル化の進展によって自由か非自由か、ということの明確な定義が求められるようになり、国という「民主的」組織においては、その性質上自由を一義的に定義することができず、その結果、独裁的に自国民に対して「自由」を提供する指導者に依存するか、あるいは自由というものを民間部門が担わざるを得なくなっていると言えるのだろう。

「『戦争はもう古い手段』などではな」く、「複雑さを深めている。」とし、「今や企業やコミュニティー、国家がすべてネットワークの結節点(ノード)となっており、彼らは互いに協力もできるが競合することもある。」という。これは、基本的にはネットワークの排他性に起因するものであり、それが相補的であれば、少なくとも競合は避けることができ、それによって衝突も避けることができるのだろう。

この現象がもたらす点として、「まず事態の展開が読みにくくなった。」という。展開が読みやすい状態というのは、ある一つの価値観、あるいはシナリオに沿って動くだろうという予測があるということであり、その状態自体が自由とは相反していたのだ、ということは考えるべきなのだろう。「ネットワークから国や企業が一度締め出されるとネットワークに戻るのは極めて難しい。」というが、これもネットワークの排他性を示すものであり、これまた自由とは相反するものであろう。「ネットワークが複雑になると不安定さも増す。」とのことだが、それは市場に対する信任というものをあまりに軽視しているのではないだろうか。市場の作用というのは、誰も管理しなくても自然に調整がなされるというものであり、中央集権的な感覚で不安定だ、と言われても、むしろそれが安定状態なのだと言えるのかもしれない。サプライチェーン、バリューチェーンが巨大化し過ぎて市場がうまく働かなくなっていること自体が問題なのだろう。

全体として、かなり悲観的なトーンであるが、それは、閉鎖的ネットワークにとらわれた目で見ているからではないかと私は考える。インターネットの特性として、基本的にはどこでも、誰とでもつながることができる、という、まさに自由なネットワーク形成というものがあるのにも関わらず、それが、国なり、テック大手などによって囲い込みができ、そしてそれをベースとしたネットワークをイメージしているから、その閉鎖的ネットワークの間で衝突が起これば、まさにデジタルの特性としてどちらかが倒れるまで突き進むしかなくなるという予測になり、悲観的にならざるを得ないのだろう。それは、ネットワーク内のプロトコルでそのネットワークの方向性が簡単には修正の効かないように定まり、それが競争社会のために止まることなく猛スピードで走っていることから、一旦衝突してしまえばもはや取り返しのつかないところまでいくしかなくなってしまっているからだ。ネットワークの囲い込みというのはかくも危険なものであり、囲い込みによって自由なネットワーク形成を妨げることが、『武器化するネットワーク』を作り出していると言えるのだろう。

基本的に、ネットワーク形成は文脈であり、ある文脈、典型的には利益率によって具現化される株式会社のバリューチェーンのようなものが支持を集めれば、株価が上がってそのネットワークへの参加者が増える、ということになる。だから、その文脈が閉鎖的、株式会社の例でいえば、株式総数には必ず上限があるわけで、その意味で閉鎖的にならざるを得ない、または排他的、株式会社による情報や資産の囲い込みというのは排他性を示すものであろう、あるいは競争的、同じ例で株式会社は利益による競争を強いられる、であれば、それは必ずどこかで他の文脈と衝突する。民間ならば、基本的には武器は持っていないので、代わりに情報戦が激しくなる。何が正しいとか、あるいは利益で言えば何が儲かるとか、そういった情報が入り乱れ、それによってネットワーク同士が削り合うことになる。本来ならば、価値観の近いネットワーク同士は相補的になれるはずなのに、実は価値観が近ければ近いほど閉鎖的・排他的・競争的ネットワークでは競合が起こりやすくなるのだ。経済学においては、競争が生産性を上げるのだ、という根拠不明の信念が罷り通り、競争政策が取られてきたが、実際には独占や寡占が生産性を下げるのであって、決して競争が生産性を上げるものではない。にも関わらず、競争が奨励されてきたために、ネットワーク時代になってそれに対応できない状態になっていると言えるのだろう。

文脈が排他的になると衝突が避けられない以上、「戦略」という文脈は、相手に勝つためのものではなく、相補的な関係性を築くことのできる物にならないと、『武器化するネットワーク』の形成は避けられない。これまでは、先を見通すこと、そしてその見通しに沿って力づくでも道を開き、それを実現することが「戦略」だと考えられていたかもしれないが、これからは、見通しが悪くなった時にその原因を特定し、力づくではなく解決すること、そしてその解決のためにどう相補的ネットワークを構築することができるか、ということがより重要な「戦略」となるのではないだろうか。その「戦略」の定義次第でネットワークが平和的になるのか『武器化』するのかが定まるのだろう。

平和的ネットワーク実現のためには、組織というよりも、個々人が自分が何をしたくて、どんな協力を欲しているのか、ということを明らかにして行動する、ということが必要になるのだろう。それによって、誰がどのような行動を取ろうとしているのかが明示化され、予測可能性は十分に高まるだろう。このような「平和をもたらすネットワーク」の形成を可能にし、その力を十二分に発揮できるような、分権的相互尊重文脈を形成するあり方が強く望まれているのであろう。

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