見出し画像

【Lonely Wikipedia】第2次ニクソンショック

第1次ニクソンショックもまとめきれないまま週末を越えてしまい、新しい週が始まってしまった。今週中に第2次ニクソンショックをそれなりにまとめないと、またも時期外れになってしまうので、とにかくWikipedia調査だけは始めたい。

というわけで、第2次ニクソンショック、ドルの金兌換停止について、見てみたい。まず基本的なところから押さえると、

第2次ニクソン・ショック(ドル・ショック)は、1971年8月15日に発表された、米ドル紙幣ととの兌換一時停止を宣言し、ブレトン・ウッズ体制の終結を告げた新しい経済政策をいう。

おっと、早速、これは一時停止だったわけですね。ということは、戦前の世界恐慌に伴う金本位離脱と同じようなイメージで、どこかではまた戻るということをイメージしていたことになる。


ニクソン・ショック(ドル・ショック)とは、1971年8月15日(日本標準時1971年(昭和46年)8月16日)にアメリカ合衆国連邦政府が、それまでの固定比率(1オンス=35ドル)による米ドル紙幣と金の兌換を一時停止したことによる、世界経済の枠組みの大幅な変化を指す。当時のリチャード・ニクソン大統領がこの政策転換を発表したことにより、ニクソンの名を冠する。
ショックと呼ぶのは、それまで金と交換できる唯一の通貨がドルであり、それ故にドルが基軸通貨としてIMF(国際通貨基金)を支えてきたのがブレトン・ウッズ体制であったが、ドルの金交換に応じられないほど米国の金保有量が減ったことにより、戦後の金とドルを中心とした通貨体制を維持することが困難になったこと、そしてこの兌換一時停止は諸外国にも事前に知らされておらず、突然の発表で極めて大きな驚きとともに、その後世界経済に大きな影響を与えたことによる。

そうでした、唯一の兌換通貨だったんです。それがなぜ重要かと言えば、

1914年にはじまった第一次世界大戦により、各国政府とも金本位制を中断し、管理通貨制度に移行した。これは、戦争によって増大した対外支払のために金貨の政府への集中が必要となり、金の輸出を禁止、通貨の金兌換を停止せざるをえなくなったからである。また戦局の進展により、世界最大の為替決済市場であったロンドンのシティが戦災に遭い活動を停止したこと、各国間での為替手形の輸送が途絶したことなども影響した。例えば日本は、1913年12月末の時点で日銀正貨準備は1億3千万円、在外正貨2億4,600万円であり、在外正貨はすべてロンドンにあり、外貨決済の8〜9割を同地で行っていたが、大戦勃発後の1914年の8月に手形輸送が途絶した(当時はシベリア鉄道で輸送していた)。

金が集約されると、そこで為替決済がなされるわけですね。いちいち金を運ばなくても、為替で決済がきくようになる。為替の歴史というのも気になるが、そこまで行くとまた大変なことになるので、とりあえずはここで止めておく。

では、そこに至るまでの道のり

戦前は通貨発行量が希少金属である金の保有量に制約される金本位制であったが、戦後は金・ドル体制とも金為替本位制とも呼ばれ、実質的には金とドルを同じ基軸として置く体制で成り立ち、1950年代は戦後の復興と科学技術の発達による経済規模の拡大、国際貿易や国際投資の拡大、社会保障政策の普及、冷戦による恒常的な軍事費増などで、財政支出の恒常的拡大が進んでいった。
やがて西欧各国が次第に経済力を回復させて、また日本も高度経済成長でアメリカ以外の各国が経済発展していく中で、アメリカの手持ちのドルが海外へ流出するようになり、金と交換できるドルの絶対的価値が揺らぎ始めるのは60年代に入った頃であった。
戦後各国が定めた通貨の固定為替レートは、アメリカを除いて、第二次世界大戦の主要な交戦国が戦争で著しく疲弊していた当時の世界の経済状況を前提に定められたレートであり、大戦直後に世界の金保有額の三分の二がアメリカに集中して、ドルの金交換に基づく固定相場制を原則としたIMF体制で成り立っていた。そして戦災から復興した国々の経済が発展するにつれて、固定為替レートは次第に各国の経済力・競争力から乖離した状況になり、50年代に入ると各国の通貨のドルに対する為替レートが英ポンドや仏フランは切り下げられ、1961年3月には西独マルクがそれまでの1ドル=4マルクが5%切り上げられるなど、その時々に応じた通貨調整を行ってきた。しかし60年代後半になると潜在的要因としてドルの凋落が見え始めていたのである。

ドルの全面安ではなく、主にマルクに対して切り下がっていたと言うことですね。

1965年のベトナム戦争介入による財政赤字とインフレーションで、国際収支の赤字幅拡大によって、1966年に初めて外国のドル準備がアメリカ財務省が保有する金保有額を上回る事態となった。1968年頃からドル危機を潜在的要因としたフランの通貨不安が顕在化して、1969年8月にフランは11.1%切り下げ、9月にマルクは9.3%切り上げられた。

むしろフランスとドイツの経済関係が、ブレトンウッズ崩壊の決定的要因なのだと言えるのかも。
このあたり


が影響していそうだが、ちょっとすぐにはわからない。
ド・ゴールがドルを金に替えたことから、ドル不安がおき、それが結局フランの不安に跳ね返ってきたと言うことか。
つまり、フランスがドルを金に替えるのならば、フランを売ってドルやフランよりも安定的なマルクを買うという動きとなり、そしてドイツがドルの買い支えが出来なくなって、アメリカのブレトンウッズ離脱、ということになったか。

1971年4月に貿易収支が初めて赤字となり、8月に入ってからフランス、8月13日にはイギリスがアメリカに対して30億ドルの金交換を要求した。この時が金・ドル交換の停止を決定する引き金になった。アメリカ政府は、金とドルがリンクした通貨体制(金・ドル本位制)を維持することがもはや困難になったと判断した。そのために起こる国内の事態急変を避けるため10%の輸入課徴金を掛け、物価・賃金を90日間凍結してその期間に各国との多角的調整をしてドルをアメリカにとって一番望ましい形に切り下げる方向へ舵を切ったのである。

貿易で黒字を出せなくなったら、究極的には金で支払わざるを得なくなるので、金への交換が早い者勝ちになる、ということか。

1971年8月15日 ニクソン大統領の 新経済政策についての声明の一部
「……第二次大戦が終わった時、欧州とアジアの主要工業国の経済は疲弊していました。彼らのためにアメリカは過去25年間にわたり1,430億ドルの対外援助を行いました。それは正しいことでした。今日彼らは我々の援助に大きく助けられて活気を取り戻しました。彼らは我々の強力な競争相手であり我々は歓迎しています。しかし他国の経済が強くなった今、彼らが世界の自由を守るための負担を公平に分担すべき時期が来たのです。為替レートを是正して主要国は対等に競争する時です。もはやアメリカが片手を背中に縛られたまま競争する必要はないのです。……」
「……過去7年間、毎年1回は通貨危機が起きている。通貨危機で一体誰が利益を得たのか。労働者でも、投資家でも、富の真の生産者でもない。受益者は国際通貨の投機家です。彼らは危機で栄える故に危機を起こそうとしています。……」
「……最近数週間、投機家たちはアメリカのドルに対する全面的な戦争を行ってきた。……そこで私はコナリー財務長官に通貨の安定のためと合衆国の最善の利益のためと判断される額と状態にある場合を除いて、ドルと金ないし他の準備金との交換を一時的に停止するように指示した。……この行動の効果は言い換えればドルを安定させることにある。……IMFや我々の貿易相手国との全面的な協力の下で、我々は緊急に求められている新しい国際通貨制度を構築するために必要な諸改革を求めるだろう……」

見方はいろいろ。英語版の方がその答えをきちんと出している。

In France, the Bretton Woods system was called "America's exorbitant privilege" as it resulted in an "asymmetric financial system" where non-US citizens "see themselves supporting American living standards and subsidizing American multinationals". As American economist Barry Eichengreen summarized: "It costs only a few cents for the Bureau of Engraving and Printing to produce a $100 bill, but other countries had to pony up $100 of actual goods in order to obtain one". In February 1965 President Charles de Gaulle announced his intention to exchange its U.S. dollar reserves for gold at the official exchange rate.

フランスでは、ブレトンウッズ体制を「アメリカの法外な特権だ」と呼んでいる。アメリカ人の生活水準やアメリカ多国籍企業を助ける結果になるからだ。
ドルは印刷するだけだが、他の国はそれを得る為にその額面だけ支払わなければならない。
シャルル・ド・ゴール大統領は1965年2月に公式レートでドルと金を交換したいと発表した。

By 1966, non-US central banks held $14 billion, while the United States had only $13.2 billion in gold reserve. Of those reserves, only $3.2 billion was able to cover foreign holdings as the rest was covering domestic holdings.

1966年には、アメリカが132億ドルの金準備しかないのに、アメリカ以外の中央銀行が140億ドルのドルを持っており、その132億ドルの内たった32億ドルだけが海外取引に使えるだけで、残りは国内取引向けのものだ。

By 1971, the money supply had increased by 10%. In May 1971, West Germany left the Bretton Woods system, unwilling to revalue the Deutsche Mark. In the following three months, this move strengthened its economy. Simultaneously, the dollar dropped 7.5% against the Deutsche Mark.Other nations began to demand redemption of their dollars for gold. Switzerland redeemed $50 million in July. France acquired $191 million in gold. On August 5, 1971, the United States Congress released a report recommending devaluation of the dollar, in an effort to protect the dollar against "foreign price-gougers". On August 9, 1971, as the dollar dropped in value against European currencies, Switzerland left the Bretton Woods system. The pressure began to intensify on the United States to leave Bretton Woods.

1971年5月には、西ドイツがブレトンウッズ体制を離脱した。それによって西ドイツ経済は強くなり、ドルはドイツマルクに対して7.5%切り下がった。スイスやフランスはドルを金に替え始めた。8月5日にはアメリカ議会がドル切り下げを勧める報告を出し、9日にはドルが欧州通貨に対して切り下がり、スイスがブレトンウッズ体制から離脱した。アメリカのブレトンウッズからの離脱への圧力が強まり始めたのだ。  (訳は超抄訳です)

この新しい経済政策で国内の失業対策(総額62億ドルの減税も含む)を除いて注目すべき主要な点は以下の3点である。
* 金とドルの交換を一時停止
* 10%の輸入課徴金の導入
* 価格政策(90日間の賃金・物価凍結)


インフレに苦しんでいる時に10%の輸入課徴金とは、政策的には理解不能。むしろそんなに信認が落ちても売ってくれるということを感謝すべきだと思うのだが。
と思ったら

American products would not be at a disadvantage because of the expected fluctuation in exchange rates.

ということで、ドル安予測によって輸入急増するのを防ぐため、ということですか。

この1971年8月15日のニクソン大統領の声明そのものが経済活動に直接影響を与えたわけではなく、その後の多国間通貨調整でドルと他国通貨の為替レートの変更、特にマルクと円の切り上げが経済面で大きな影響を与えた。そして金とドルの交換停止は第二次大戦後の国際金融の枠組みであったブレトン・ウッズ体制の終焉を告げたという意味で、このニクソン声明は重要なものであった。

そうですね。ショックと言うほどには短期的ショックではなかったのです。なぜ敗戦国の通貨が強くなったのか、というのは大変興味深い。それは、一つには、賠償が現物支給で行われた、ということがあるのでは、という気がする。それは、とにもかくにも、生産ラインにお金を流して、出てきたものを海外に送り出す、ということなので、仕組としては実はマーシャル・プランとあまり変わらず、それによって生産性の向上が出来た上に、海外市場に商品サンプルを送り出したことにもなり、結果として市場を広げる効果もあったと言えるのでは。

変動相場に移って以後、早く固定相場に戻るべきとして円の単独切り上げで固定相場を復活させる考え方もあったが、結局多国間での通貨調整が行われる見通しになった。そしてG10先進10か国蔵相会議を舞台にした多国間通貨調整は以降、9月半ばのロンドン、9月末からのワシントン、11月末のローマを経て12月半ばのワシントンで決着を付けることとなった。最初のロンドンでは米国が黒字国責任論を唱え黒字国の相当大幅な切り上げを求め、金に対する切り下げを拒否した。9月末からのワシントンでは大きな進展はなく米国に輸入課徴金の撤廃とドル切り下げを求める日欧と、あくまで貿易黒字国の責任を声高に主張する米国との対立は解けなかった。11月9日に来日したコナリー財務長官と首相との会談が11日に行われ、席上10%の輸入課徴金の廃止と同時に24%の円切り上げをとの話が出ていた。11月末のローマでコナリーが初めてドル切り下げに言及して年内決着の見通しが出てくる中で12月12〜13日に大西洋上のアゾレス諸島で行われた米仏首脳会談でニクソンとポンピドゥー大統領との間でニクソンはドルの切り下げを確約した。この頃には円の為替は320円を割って実質切り上げ率は12%になり、西独の実質切り上げ率を上回るようになっていた。
1971年12月17〜18日、ワシントンD.C.スミソニアン博物館で先進10か国蔵相会議が開かれ、ここでドルと金との固定交換レートを実質7.98%引き下げ(1オンス35ドルから38ドルへ)、米国の輸入課徴金10%の廃止、固定相場制を維持しつつそれまでの変動幅を上下1%から2.25%に拡大することとし、ドルと各国通貨との交換レートを国家間の多角的調整で決定された(スミソニアン協定)。このスミソニアン協定によって各国の対ドル為替レートが変更され、ここで固定為替相場に戻った。

独日に関しては、戦後にデノミあるいは新円切り換え後の大幅インフレが行われているので、戦前からの経済の連続性を考えれば、特に日本はまだまだ余力があったと言えるのかも知れない。結局その無駄な余力が田中角栄を経由して土地バブルにつながっていったのは皮肉なことであるが。

翌年1972年3月になると当時のEC6か国(西独・仏・伊及びベネルクス3国、この当時の英は未加盟)が域内の国内通貨は固定相場とするが域外のドルに対しては固定相場を放棄して変動相場制に移行する措置をとった。しかしドル売りの動きは止まらず、英国のポンドに投機で売り浴びせられて、6月23日にイギリスが変動相場制に移行。翌1973年になるとイタリアの政界混迷でイタリア人によるスイスフラン買いが増え、スイスフランが変動制に移行した。やがて投機はドルに向かい西独で連邦銀行がドルを買い支えたが市場閉鎖に追い込まれた。2月8日にボルカー財務次官が来日して愛知揆一蔵相と会談し、10%のドル切り下げで、円を10%切り上げるように要請して来た。愛知蔵相は日本が取れるのは円切り上げでなくフロートだと主張した。その後結局、日米独間の折衝で円は対ドルで17〜20%切り上げに相当する1ドル257〜264円で変動させることで合意が成立した。2月12日にシュルツ財務長官が記者会見でドルの10%切り下げを発表し、2月14日に円は変動制に移行した。これで一応スミソニアン体制は落ち着いたと思われたが、今度は金相場が暴騰。マルクにも投機が集中し3月1日に西独連銀のドル買いがわずか1日で30億ドルに達し翌3月2日に閉鎖に追い込まれた。3月9日と16日にパリで主要14ヵ国の通貨会議が開かれたが、19日に市場が再開された時には殆どの国が共通フロートに踏み切っていた。ここに至って、なし崩しに先進国ほぼ全てが変動相場制へと移行した。
戦後、ブレトン・ウッズ体制が四半世紀続き、その後にスミソニアン体制を作ったがわずか1年3ヶ月しか維持できなかった。これは70年代に入ってから、アメリカはすでに固定相場制を維持できる経済力を失い、戦後から続いた国際金融体制で自国の国力を背景に統制することがもはや困難になったことを意味していた。西欧各国と日本の台頭がアメリカ経済の衰退を招き、固定相場の安定が失われていった。日本も1973年2月に変動相場制に移行して以降、固定相場制に戻ることなく、1976年1月、ジャマイカキングストンで行われた国際通貨基金 (IMF) 暫定委員会において、変動相場制が正式に承認された(キングストン協定)。この変動相場制の時代がそれから40年以上続き今日に至っている。

変動相場制に関しては、ブレトンウッズ体制の基礎を打ち立てたアメリカのモーゲンソー=ホワイトラインは、最初から目指していた部分があるので、結局のところアメリカ金融資本の思惑通りにことが進んだと言えるのかも知れない。ニクソンが大統領となる前後にフラン暴落、マルク暴騰が起こったのは、明らかに政治的な相場であるといえ、ニクソン政権の間のどこかで変動相場制になるというのはある程度織り込み済みだったのかも知れない。それでも、ニクソンショック後1年半は、曲がりなりにも固定相場が行われていたわけであり、完全に思惑通りに運んだ、ということでもなかったとは言えそう。
現状、変動相場制が当然、不変のもの、と考えられているかも知れないが、理論的に変動相場の方が固定相場よりも優れているとは言い切れない訳で、通貨主権の観点から本当に変動相場制が望ましいものなのか、ということはもっと議論されても良いのではないだろうか。



誰かが読んで、評価をしてくれた、ということはとても大きな励みになります。サポート、本当にありがとうございます。