【ハスモン朝の謎を解く】『マカバイ記』の意義

キリスト教のカトリックとプロテスタントで、正典に入れるか外典とするかで立場のわかれている『マカバイ記』。その『マカバイ記』で描かれるハスモン朝について考えてみたい。

ハスモン朝の起こりについてはフラウィウス・ヨセフスの著作および旧約聖書の外典(第二正典)である『マカバイ記』1・2に詳しい。『マカバイ記』は七十人訳聖書に含まれていたため、カトリック教会と正教会によって旧約聖書の一書として受け入れられたが、ヤムニア会議以降のユダヤ教とプロテスタント諸派はこれを正典として受け入れなかった。

マカバイ記1ではアレクサンドロス3世の東征に始まり、ハスモン朝の支配が確立されるまでの歴史をマカバイ戦争を中心に描いている。そしてそのなかで異邦人に汚されたエルサレム神殿がふたたび清められたことがハヌカ祭のおこりであると述べている。

マカバイ記2ではエジプトのユダヤ人へハヌカ祭を祝うよう薦める書簡から始まり、ユダヤに対する迫害とそれに対抗する宗教的情熱、ユダ・マカバイの活躍が描かれている。

マカバイ記1
ヘレニズムと小アジア(1:1-1:9)
マカバイ戦争の勃発(1:10-2:70)
ユダ・マカバイの指導(3:1-9:22)
その弟ヨナタンの指導(9:23-12:54)
大祭司シモン(13:1-16:24)

マカバイ記2
エジプトのユダヤ人への書簡(1:1-2:18)
序文(2:19-2:32)
ヘリオドロスの神殿冒涜のたくらみ(3:1-3:40)
迫害(4:1-7:42)
ユダの勝利と神殿の清め(8:1-10:8)
新たなる迫害(10:9-15:36)
結び(15:37-15:39)

となっており、基本的にハスモン朝と呼ばれる中でも、シモンのところまでが『マカバイ記』に書かれていることである。

権威の確立(シモン)
紀元前142年にヨナタンが敵将トリュフォンの手に落ちて殺害されると、兄弟のシモンがヨナタンの後をついで大祭司となった。シモンは兄の立場を継承して軍事的指導者にして大祭司という立場に収まった。シモンの時代にユダヤ人はエルサレムに駐留するシリア軍を撃退し、撤退させたことで、シリアから政治的独立を認められた。ハスモン家の祭司としての正当性に疑問を持つユダヤ人たちも少なくなかったが、ハスモン一族の政治的実績の前に、多くの人々が「忠実な預言者の出現するまでは、シモンを彼ら(ユダヤ人)の指導者、大祭司とするのをよしとした」(マカバイ記1 14:41)
こうして紀元前142年から紀元前135年にかけてのシモンの時代にユダヤはシリアからの事実上の独立を勝ち取ることに成功した。シモンはローマに使者を派遣して自らの権威の承認を求め、元老院はこれに応じて、シモンの政権を承認した(マカバイ記1 15:19)。しかし、紀元前135年2月、シモンは娘婿プトレマイオスに暗殺された。

Wikipedia ハスモン朝

ということで、シモンがシリアからの独立を達成し、ローマから承認されたが、そのシモンは娘婿であるプトレマイオスに暗殺された、となっている。

ここで、プトレマイオスという人物に暗殺されたという部分が引っ掛かる。時代は遡るが、同じようにプトレマイオスという名の人物に殺害された人物として、アレクサンドロス3世の後継者でバビロニアにセレウコス朝をひらいたセレウコス1世がいる。

紀元前281年、コルペディオンの戦いでセレウコスはリュシマコスを敗死させ、さらに故国マケドニアに勢力を拡大しようと遠征を開始するが、途上ヘレスポントス海峡の対岸リュシマキアの陣営で、マケドニア王にならんと野心を抱いた同行者のプトレマイオス・ケラウノス(プトレマイオスの息子)によって暗殺された。遺骸はシリアのセレウキアに運ばれ、この地の墓廟ニカトレイオンに葬られる。

このプトレマイオス・ケラウノスは、セレウコス1世の同僚でエジプトにプトレマイオス王朝をたてたプトレマイオス1世の息子とされる。プトレマイオス1世はアレクサンドロスと共にアリストテレスから学んだ学友であり、アレクサンドロスの死後にエジプトに王朝をたてることになった。

ここで、果たしてアレクサンドロス3世なる人物が本当にいたのか、ということが引っ掛かる。実は、アレクサンドロスの没後にそのあとで最大の版図を得たセレウコスは、アレクサンドロスに関する記録の中では非常に影が薄いようだ。そんなセレウコスは、アレクサンドロスと同様インド方面に向かっている。

セレウコスはインダス流域で、その頃インドで成立したばかりのマウリヤ朝の初代王チャンドラグプタ(サンドロコットス)が率いる圧倒的な大軍と遭遇する。このとき、両者の間に軍事衝突があったかどうかは定かでない。いずれにせよ、ここで彼はチャンドラグプタと協定を結んだ。この協定でセレウコスはガンダーラやゲドロシアなど東部辺境地域を割譲し、自身の娘をチャンドラグプタの息子ビンドゥサーラ(アミトロカテス)の妃としてマウリヤ朝の後宮に入れるのと引き換えに、チャンドラグプタから500頭もの戦象を獲得した。これは地中海世界に戦象が本格的に姿を現すきっかけとなるとともに、後のイプソスの戦いで彼の勝利に大きな貢献をするものでもあった。

これは、本来ならば原典を確認した方がよい内容であると思うが、インドに入ることができなかったというところで、アレクサンドロスの東限と重なる。更に、チャンドラグプタという名は同時代のギリシャ資料には出ていないようで、後につけられた名前のようだ。そして、チャンドラというのがアレクサンドロスの別名としてイスラム圏で広がっているイスカンダルという響きに近く、それは実際アフガニスタンのカンダハルでは頭のisも抜けており、チャンドラと非常に近くなっている。また、それはガンダーラという地名についても同じことがいえる。グプタというのは後にグプタ朝を作った同じ名を持つチャンドラグプタ1世の父の名であり、更にはセレウコスと会ったというチャンドラグプタの宰相カウティリヤの別名とされるヴィシュヌグプタにも用いられている。だから、チャンドラグプタのもとの名は単にチャンドラ、あるいはイスカンダル、アレクサンドロスに近いような名であったのではないだろうか。つまり、この詳細はまた別に検討する必要がありそうだが、アレクサンドロスはギリシャの出身ではなく、インドの有力者であった可能性があるのだ。その場合は、アレクサンドロス3世の活躍したとされる時代とは一世代繰り下がることになる。

紀元前316年、イラン南部におけるパラエタケネの戦い、およびガビエネの戦いでアンティゴノスはついにエウメネスを敗死させた。しかしこの直後から、セレウコスはアンティゴノスに疎まれるようになり、さらに事後の領土再配分をめぐってアンティゴノスと決裂する。同じくアンティゴノスと決裂したメディア太守ペイトンが滅ぼされると、セレウコスはアンティゴノスの脅威から逃れるため紀元前315年にバビロンを脱出し、エジプトへ奔ってプトレマイオスと結んだ。両者は紀元前312年の春にガザの戦いでアンティゴノスの子デメトリオスを破った。これを挽回すべく、アンティゴノス自らがシリアに出陣してくると、セレウコスはその間隙を突き、東方への帰還を果たす。この時のセレウコスの率いる兵力はプトレマイオスから譲り受けたわずかなものだったが、セレウコスの善政を懐かしむバビロンの住民たちはこぞってセレウコスに味方し、同年10月1日にセレウコスはバビロンを回復した。一般にこれをもってセレウコス朝の開始とするが、彼が正式に王を称したのは紀元前305年のことであると言われている(アンティゴノス・デメトリオス父子がこの前年の紀元前306年に王を名乗ったため、セレウコスも対抗して王を称したという)。

セレウコスはプトレマイオスの力を借りたようで、それによってセレウコス1世の死後に、プトレマイオス朝によってその功績がマケドニア人アレクサンドロスによるものだ、と書き替えられたのではないか。そしてそれは、実質的にハスモン朝をひらいたヨハネ・ヒルカノス1世が、その父としてのシモンをセレウコス1世に重ね合わせることと一緒に行われているようだ。つまり、ハスモン朝の始祖としてシモンという人物を作り上げるのに、それをセレウコス1世をモデルにし、それと対立したアンティゴノスをシモンの兄のヨナタンとして、そしてさらにその兄としてのユダ・マカパイという人物をインドのチャンドラグプタをモデルにしてアレクサンドロス3世という人物を作り上げるのと同時に作ることで、ハスモン朝というものの正統性を模索したのではないかと疑われる。その創作話をまとめたものが『マカバイ記』であると言えそうだ。

*令和4壬寅年3月6日追記
「マカパイ」だと思い込んでいてそう記述していますが、「マカバイ」の間違いです。お詫びして訂正します。タイトルだけはあまりにみっともないので変更しました。失礼しました。
そのほか、ロシア・ウクライナ問題の警告が表示されている通り、この記事は(も?)一般的な解釈とは大きく異なり、内容に偏りがある可能性があります。十分に吟味してお読みください。

*令和5癸卯11月19日追記
「マカバイ」訂正の上、再度公開します。内容に偏りがありそうで公開を差し留めていましたが、どうもこの記事の内容が気に入らないところから強い圧力を感じるので、公開することによってどうなるか、様子を見てみたいと思います。

追記として、シモンと言う名と『史記』の作者司馬遷(Sima Qian)のシマという姓が似たような音であることもあり、この『マカバイ記』の内容がインドにとどまらず、中国に至るまでの世界史のかなりの広範囲に影響を及ぼしているのではないか、とも妄想してしまっています。
論理の原点に歴史的文脈が置かれると、その解釈によって論理自体の方向性を定められてしまい、解釈を定める預言者を認定する人や集団に過大な権力が集中する可能性もあります。
現代論理社会の原点にこのような歴史的文脈があるのだとしたら、それはなるべく多面的に解釈を検討し、一つに固まった解釈によって論理の濫用がなされることを防ぐ必要がありそうです。
歴史を学ぶ意味とはそんなところにもありそうです。

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