マガジンのカバー画像

広島から臨む未来、広島から顧みる歴史

37
広島を基点に考える歴史と未来。 いかにして広島を寛容と対話の地域にしていけるか、などと大それたことを、余所者が考えています。広島にはその可能性が満ち満ちている、と考えていますが、…
運営しているクリエイター

#小早川隆景

広島から臨む未来、広島から顧みる歴史(12)

厳島から見る毛利元就2引き続き、『棚守房顕覚書』より、陶隆房の謀反のところから毛利との関わりを追ってみたい。 どうも、祇園社から吉田を”當社”に寄進した毛利の力を用いて、大内が討たれたのを機に勢力を拡大しよう、という意図の元に話を進めているように感じられる。 大内を討った陶が元々仲のよくなかった吉見征伐に出かけ、毛利に助力の催促をしたが、そうはならずに己斐、草津、櫻尾の城をとって神領ヘ向かった、ということか。ここで宮島と當島が別に書かれていることには注目したい。  そし

広島から臨む未来、広島から顧みる歴史(10)

厳島神社から見る毛利元就1ここで、厳島合戦についての基礎資料となる、厳島神社の棚守であった房顕の記した覚書を見てみたい。 『棚守房顕覚書』 まず、旧宮島町発行の『棚守房顕覚書付解説』からその基本的情報を見ておきたい。棚守は厳島神社の奉行を行う職名だとのこと。本姓は厳島宮司家である佐伯で鞍職から二十五代目、景弘からは十五代目に当たるというが、正確には不明だという。陶氏、毛利氏、大内氏の御師職を兼ねていたということだが、社の奉行を行う棚守と代理で祈りを行う御師を兼ねるというの

広島から臨む未来、広島から顧みる歴史(8)

多治比から読み解く毛利氏発祥仮説毛利氏の本拠が多治比川上流の猿掛城であるというところを見た。ここで、前回も見た多治比という言葉から毛利氏の発祥について大胆に仮説を立ててみたい。 イスラム教の影 多治比がアラビア語で商人を意味するタジルからきているのではないか、という推定をしたが、シルクロード交易からすると700年程度、短く見積もっても500年の開きがあるわけで、それが突然出てくるというのはあまりに唐突感がある。そしてその後にはモンゴルによってシルクロードは逆向きに西洋への

広島から臨む未来、広島から顧みる歴史(4)

広島の歴史を読み解く寛容と対話の地域ということで広島の可能性を探っているが、そのような寛容と対話を積み重ねてこないといけなかった理由はどこにあるのか、よそ者だからこそ言える大胆な歴史への疑問提示によってその手がかりを探ってみたい。 広島城の現状 では、その出発点として、前回すでに疑問を呈した広島城について考えてみたい。まず、広島城の立地を見て一番不自然だと思うのは、太田川という大河のデルタ地域という、街を作るには最も相応しくなく、しかも中洲の上という不便極まりなく洪水に対