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広島から臨む未来、広島から顧みる歴史

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広島を基点に考える歴史と未来。 いかにして広島を寛容と対話の地域にしていけるか、などと大それたことを、余所者が考えています。広島にはその可能性が満ち満ちている、と考えていますが、…
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#吉田

広島から臨む未来、広島から顧みる歴史(32)

明治維新における吉田 ー 吉田松陰を軸に吉田藩について見てきたが、吉田というのは明治維新以降姓としても頻出するようになる。幕末期において目立つのが、長州の吉田松陰ということになる。率直に言って、その実在は怪しいのではないかと感じるが、とにかく例によってWikipediaから引用してその足跡を追うところから始めたい。いつものことだが、Wikipedia全体もそうだが、とりわけ明治維新時の記述は安定的だとは言えないので、その引用内容自体おかしな情報が含まれているかもしれないことは

広島から臨む未来、広島から顧みる歴史(30)

版籍奉還と吉田藩さて、このシリーズの初めのあたりで、『棚守房顕覚書』の中身を紹介し、その中で毛利氏と吉田との関わりについて見てきたが、その話の延長線上に、毛利氏の長州藩が主体となった明治維新というものを位置付けられるのではないだろうか。そこで、主語がなんとも言えないので少しわかりにくいが、吉田をどのように用いて明治維新というものを進めてきたのかを考えて見たい。 広島藩の動き まず、吉田というのが、幕末に広島藩支藩の吉田藩の入封によって名前が浮かび上がるということはすでに述

広島から臨む未来、広島から顧みる歴史(18)

祇園社と吉田津和野の祇園社についてみたが、その祇園社と吉田がどのようにつながってくるのかをみてみたい。 京都祇園社 そこでまず、京都祇園社について見てみたい。京都祇園社は元々興福寺の末寺だったのが、10世紀末に延暦寺の末寺に変わったという話がある。その頃の延暦寺は、天台座主の座を巡って山門派と寺門派が激しく相争っており、今残されている記録では寺門派の始祖円珍以降、座主の多くが寺門派から出ていた。それに対して、966年に座主となった良源は特に後ろ盾もなかったが、その年に焼け

広島から臨む未来、広島から顧みる歴史(14)

元就の本拠 吉田庄『棚守房顕覚書』を見てきて、元就が本拠とした郡山、この郡山という地名は当該本には一度も出てこなかったが、とにかくそこを吉田としようとする動きが感じられたことは何度か触れた。そこで、その吉田というのがいったいどのような経緯で、どのような意味を持って取り上げられてきたのか、その背景を独断と偏見で探ってみたい。 吉田庄の記述 ではまず、吉田庄について、『高田郡史』からみてみたい。 文献整理 ここでそれぞれの文献についてまとめると、 『祇園社記』 『祇園

広島から臨む未来、広島から顧みる歴史(12)

厳島から見る毛利元就2引き続き、『棚守房顕覚書』より、陶隆房の謀反のところから毛利との関わりを追ってみたい。 どうも、祇園社から吉田を”當社”に寄進した毛利の力を用いて、大内が討たれたのを機に勢力を拡大しよう、という意図の元に話を進めているように感じられる。 大内を討った陶が元々仲のよくなかった吉見征伐に出かけ、毛利に助力の催促をしたが、そうはならずに己斐、草津、櫻尾の城をとって神領ヘ向かった、ということか。ここで宮島と當島が別に書かれていることには注目したい。  そし

広島から臨む未来、広島から顧みる歴史(10)

厳島神社から見る毛利元就1ここで、厳島合戦についての基礎資料となる、厳島神社の棚守であった房顕の記した覚書を見てみたい。 『棚守房顕覚書』 まず、旧宮島町発行の『棚守房顕覚書付解説』からその基本的情報を見ておきたい。棚守は厳島神社の奉行を行う職名だとのこと。本姓は厳島宮司家である佐伯で鞍職から二十五代目、景弘からは十五代目に当たるというが、正確には不明だという。陶氏、毛利氏、大内氏の御師職を兼ねていたということだが、社の奉行を行う棚守と代理で祈りを行う御師を兼ねるというの

広島から臨む未来、広島から顧みる歴史(6)

毛利氏の故郷 郡山(吉田)歴史方向での話は、幕末の広島藩浅野氏の動向まで進めた。ここで、その浅野氏が気になって仕方がなかった毛利氏の故郷、安芸郡山、支藩が吉田として成立した場所について考えてみたい。 郡山(吉田)の地理的概要 郡山、というか、郡山というのは元就が建てたとされる城がある山のことだと思うので、その下の盆地のことをいったいなんと呼んだら良いのか悩んでしまうところだが、そこを広島支藩が吉田と名付けたのではないかと考えている。元々はもしかしたら可愛川(江の川)のもう