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広島から臨む未来、広島から顧みる歴史

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広島を基点に考える歴史と未来。 いかにして広島を寛容と対話の地域にしていけるか、などと大それたことを、余所者が考えています。広島にはその可能性が満ち満ちている、と考えていますが、…
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#祇園社

広島から臨む未来、広島から顧みる歴史(20)

吉田の起源を追って ー 信仰心の広がりの行方前回吉田と京都祇園社の関わりについてみて、津和野までは戻れなかったが、今回はそこを探ってみたい。 益田氏と吉見氏 津和野の北に位置する益田を拠点としていた益田氏が兼の字を通字としていたとされる。益田氏には、いくつかの系図が残されており、かなりの長期間にわたって兼の字を使い続けているが、支流がいくつかあったようで、益田氏自体が本家だったかどうかは定かではない。そして吉見氏とは、婚姻関係を結んだり、敵対したりして、単なる対立構図では

広島から臨む未来、広島から顧みる歴史(18)

祇園社と吉田津和野の祇園社についてみたが、その祇園社と吉田がどのようにつながってくるのかをみてみたい。 京都祇園社 そこでまず、京都祇園社について見てみたい。京都祇園社は元々興福寺の末寺だったのが、10世紀末に延暦寺の末寺に変わったという話がある。その頃の延暦寺は、天台座主の座を巡って山門派と寺門派が激しく相争っており、今残されている記録では寺門派の始祖円珍以降、座主の多くが寺門派から出ていた。それに対して、966年に座主となった良源は特に後ろ盾もなかったが、その年に焼け

広島から臨む未来、広島から顧みる歴史(16)

吉田の謎を追う ー 津和野前回は吉田庄についてみた。その吉田という名が『棚守房顕覚書』の中でかなり恣意的に用いられているのでは、という感覚を受け、そのために吉田庄について調べることになったが、その吉田についてもう少し進めて調べてみたい。なお、今回の記事は、まだ訪れていないところのことに多く触れるので、これからの調査によっては、その感覚はまた変わることもあるかもしれないということを先に指摘しておきたい。 津和野と祇園 厳島神社から見る毛利元就1で、吉田が津和野かもしれないと

広島から臨む未来、広島から顧みる歴史(14)

元就の本拠 吉田庄『棚守房顕覚書』を見てきて、元就が本拠とした郡山、この郡山という地名は当該本には一度も出てこなかったが、とにかくそこを吉田としようとする動きが感じられたことは何度か触れた。そこで、その吉田というのがいったいどのような経緯で、どのような意味を持って取り上げられてきたのか、その背景を独断と偏見で探ってみたい。 吉田庄の記述 ではまず、吉田庄について、『高田郡史』からみてみたい。 文献整理 ここでそれぞれの文献についてまとめると、 『祇園社記』 『祇園