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半地下への所感

 2月12日、水曜日。半地下観に行った。

 自分の世界にかなり響いたので、この記事を読むひとがいるかもしれないということをあまり配慮しないで自分の世界に降り注いだ物語への所感ということで感想を覚書する。


 高いところから低いところへ。水が流れ、ひとも流れ、それでも電波が入り、電気がついて、その僅かな信号がそとへそとへと繋がりを求める。

 地下なのに「電信ができる」という現代的な背景に戦時とはちがうものを感じつつ、おはなし全体に流れる緩やかな地盤沈下というか、遠くで絶え間なく銃声が聞こえる街で卵焼き作ってる、みたいなぐずぐずの緊張感があって、それがとてもとても恐ろしかった。この街には人柱が埋まっていて、その死体が絶え間なく崩れていくから誰かがその代わりに人柱になっていく。また誰かの死体が崩れていって、ぐずぐずぐずぐず……半地下は決して地上へ上がるための準備場所ではなくて、人柱としての「地下」への予備軍が集まったところなのだと思った。今日も どこかで誰かが地下へ引きずり込まれていく。人柱として。お父さんは人柱としての自己を「無計画」という本当の空虚によって体内に取り込んでいった。だからお父さんは…臭う。強烈な話だ。映画には嗅覚を働かせる余地がないのに、お父さんのすべてから臭うことがわかる。その臭い。人柱の臭いなんだ。

 韓国において、大根ってなんの比喩なんだろうなあ。ほら、日本では「大根役者」とか「大根足」とか、洗練されないもの、浮世離れしないもののことを大根っていうじゃない? 韓国ではどうなんだろう。






 もっとも感動したのは最後のシーンだった。


(※ネタバレル)



 あの庭園の悲劇があって、観客としての私はすさまじいカタルシスを感じた。そう、そこよ、という気持ち。そこを貫くべきであったし、そうするべきであった。あなたが、この舞台から降りるためには。そして瀬田宗次郎のごとく感情を失うカレ。

 そのあとのこと。雪のふる山を踏みしめて、双眼鏡で邸宅を覗くカレの、あの姿に、私は見覚えがあった。三浦哲郎の『鳥寄せ』だ。大好きな小説のこと、どんな物語にでも重ね合わせてしまうくせがあるんだけど今回は絶対に『鳥寄せ』だった。カレの姿は、秋の峠から見下ろす「とっちゃ」だった。邸宅はとっちゃの自宅であり、生活の火であり、遠いまぼろしであり、天国であり地獄である。とっちゃはその火を見て首をくくってしまった。カレは首をくくらない。なぜなら、邸宅にアレをみるから。ここで涙が止まらなくなった。アレは鳥寄せの笛だ。かっちゃが吹き、おらが吹いて、だれも応えなかった鳥寄せの笛の音だ。それは遠い宇宙から更に遠い宇宙へ誰かに届けと送られ続ける電信でもあり、誰も見ないと知りながらも期待せずにおられない未来への無限のトスだ。壁画だ。遺言だ。すっっっっっさまじい好物なんだ。

 なんて終わり方! あまりに未来が青くて、どうしようもなくて……人柱となったとっちゃはもう帰らない。でもとっちゃに鳥寄せの笛の音が届いたようで嬉しかった。帰ってきて良いんだよと、「地下」に落ちたとっちゃに届くものがあってよかった。はじめに書いた電信のすべてだ。


 身分差経済格差資本主義の敗北、どうでもいい。

 アカデミー賞というメディア、ありがとう。この作品をみにいく機会をいただきました。

 他の何も入り込まない、私とこの作品との涅槃会において、この作品は私の『鳥寄せ』をしあわせにみちびいた。カントク、演者の皆さん、うつくしい世界をありがとう。カレが双眼鏡を覗いたときの衝撃と感動を永遠に忘れません。


最初は、一と声、ついっちょん、でやんす。それから、ちちちちちちち、と七声つづけて、つういっちょ、つういっちょ、いっちょん、るぴいあ。あとは、ちちち、るぴいあ、ちちち、るぴいあ、を四度繰り返して、これが一と啼き。

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