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自他境界をしっかり持とう(2024年1月)

※下書き保存していたものの、公開をしていなかった日記です。遡ること2024年1月の話。

昨年のクリスマス頃から長い長いお正月休みをいただいていた。年末年始もせっかちで予定詰めたがりな私は、仕事がストップしていないとできないこと(家族関連のイベントや、手の込んだ料理、映画鑑賞、遠出など)を存分に楽しみ、年始は沖縄本島で過ごしていた。

沖縄は私の定番旅行先なのだけど、今回もたくさんのキレイな景色や美味しい料理、パワースポットでエネルギーをチャージ。何回行っても新しい発見があるのも良い。

今回の旅行で感じたのは、傲慢な主体性を捨てて、自他境界を保つことの重要性だ。
そのエピソードをいくつか振り返る。

3時間待って30秒の出会い

真冬でもできる海のアクティビティということで、ホエールウォッチングに参加した。
約3時間の航海をしながら、気まぐれなザトウクジラを追う。長年クジラを追い続ける船長の勘や、周りの船からの連絡を頼りに船は進む。
乗船客の全員がデッキ上のあらゆる方向に散り、目を凝らしてクジラを探す。クジラが見られるのは、息継ぎのために海上に顔を出す一瞬。どの方向に現れるかもわからない、その一瞬を見逃さないように、乗船客全員が一つの目になり、クジラが現れた瞬間「進行方向15時方面!」など、方角を叫ぶ。
でも、振り返った瞬間にはクジラはもう海の中なんてことはザラ。
私の場合、3時間の航海で、肉眼でクジラを確認できたのは延べ30秒もなかった。それでも「ラッキー」だと心から感じることができた。
物言わぬクジラに対して「どうしてこんなに時間をかけたのに」と文句を言っても仕方がないのだ。期待したところでどうにもならないことはある。


気まぐれなクジラの写真など撮れるわけもなく

これって対人関係でも同じこと。大概のことは思い通りにいかないし、期待し過ぎは不幸の元。
他人は皆クジラのようなもの。大きな海の中で、フィーリングがあえばラッキーだし、運命かもしれない。

私が作っても「私の作品」ではない

続いて、国際通り近くで沖縄の陶器を販売しているやちむん通りでの体験。
自宅用の食器を探していたところ、偶然、窯元である新垣家を見つける。ここでは金土日祝のみ見学可能で、やちむん(焼物、器や壺などの陶器)を焼く立派な登り窯を見たり、映像での解説も視聴することができる。


国指定重要文化財にも認定されている窯元・新垣家。1974年まで陶業を営んでいた。

その映像の中で、実際にここの窯を使用していた窯元の男性が「やちむんは人が作るのではなく、火から生まれるもの」(意訳)と、話していたのが印象的だった。

やちむんづくりは、体全体を使って土をこねたり寝ずに火を守ったりと、見るからに重労働だ。そのクリエイティブ活動から生まれるやちむんのことを、「私の作品」と言いたくもなる。
しかし、そうではなくあくまで自然が生んだもの、という認識だだそう。生まれた時に、たまたまそこにいた人間が拾った感覚だろうか。あるいは、誕生のお手伝いをする助産師的感覚か。
なんとなく“アンパンマン”の誕生シーンを思い出した(ジャムおじさん&バタコさんのパン工場に“いのちの星”が落ちてきて誕生した)。
ジャムおじさんは、アンパンマンの生みの親ではないけれど、たまたま家に来た以上大切に育て、メンテナンスをする。それでも「私の子」という語り口でアンパンマンを語っていないように思う。

やちむん作りやアンパンマンにおけるジャムおじさんのように、クリエイティブ活動や子育てに関して、私たちは傲慢な主体性を排除した方がいいのかもしれない。
自分と作品の間と、親と子の間は、自他境界がどうしても曖昧になりがち。
でも、「私が作った」のではなく、自然から偶然をいただいたという感覚を持っていれば、もう少し身の周りの当たり前の存在に感謝し、丁寧に接することができるのかも。

…とまあ、自然に触れると思考が広がる。まとまりきっていないけど。こういった経験の積み重ねが、私の人格を作っていくのだと思う。
今年もたくさん働いて、色々な物事を見聞きし感じる1年にしたいと思う。

そしてパワースポットで商売繁盛を願いながらも今年1mmもまだ働いていないことに気が付き、焦って仕事を始めた私であった。


これからも頑張ります!