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尹東柱の詩は、ただただ奥が深い

「読んでも読んでも尽きない。月に1度の集まりが楽しい」

「尹東柱に出会ったおかげで、県外に引っ越しても、その先々で彼を愛する人たちと交流できた」

「尹東柱をきっかけにいろんな話ができる。旅先の韓国で『彼の詩を読んでいる』と話すだけで、現地の人との会話が広がる」

「尹東柱の詩は、何かあった時に立ち返る場所。夜、枕元に置いて詩集を開いて心を落ち着けたりする」

これは、先日の詩を読む会での皆の振り返り。
 


1994年12月に発足したわが会も、この12月で29年目に入った。
傍から見れば、よくもまあ1人の詩人をこれだけ読み続けてきたものだ、と思われるかもしれない。



でも、それだけの理由が彼の詩にはあるのだ。たたただ奥が深い。

国を思う気持ちと、キリスト教信仰に基づいた人間愛、そしてこの世の全てのものの命をいとおしむまなざし。これらが融合している。 

虐げる者への抵抗、祖国解放への願い、自己省察、自己犠牲、寄り添い…いろいろなものが叙情的な詩語の中に込められ、一つの作品の中で重層をなす。


だから、同じ作品でも読むたびに違った印象を受けるし、光の当て方によって読み解きも変わる。10人いれば10通りの解釈ができる。



例えば、代表作の「序詩」。
 
 

  序詩  (1941.11.20)
 


死ぬ日まで空を仰ぎ

一点の恥辱(はじ)なきことを、
葉あいにそよぐ風にも
わたしは心痛んだ。
星をうたう心で
生きとし生けるものをいとおしまねば
そしてわたしに与えられた道を
歩みゆかねば。


今宵も星が風にふきさらされる。
                 1941.11.20

初めて読んだ時、決意を高らかに宣言して、なんて純粋で潔いのだろうと思った。



次に読んだ時は、日本の支配が激しさを増す重圧に押しつぶされそうになりながら、自分の行くべき道を思い葛藤する姿が見えた。

それでも信じる道を行きたいと願うが、行けばこれまで以上の苦難や試練を伴うことも分かっている。

何度も逡巡を繰り返した末に彼が出した結論は、「わたしに与えられた道を歩みゆかねば」 。

自国の言葉が奪われてゆく中、朝鮮語で詩を書き続けた尹東柱は、高潔な人というイメージが強いが、決して聖人君子なんかではない。
ごく普通の青年なのだ、と思った。

詩を読む会では、2時間にわたって1編の作品と向きい、受けた印象などを皆んなで出し合う。それぞれが描いた作品世界が重なり、彼が置かれた状況や、彼の言わんとしたことがおぼろげながら見えてくる。

作品の読み解きも3巡目に入り、新年1月は再び序詩を読む。

さあ、今度はどんな尹東柱に出会えるだろうか。


◇   ◇

私たちと一緒に尹東柱の詩を読みませんか。
毎月第3土曜日午後6時から、あいれふ研修室で開催しています。1月は20日(土)です。

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