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不適切にもほどがあるものたち!

『不適切にもほどがある!』って意識が高い人からすると全然ダメなコンプラ批判に見えるけど、世間では大抵の人があれくらいの感覚なんだろうなと思う。で、その「コンプラ!?はあ!?」みたいな人たちに寄り添い、その人たちを共感させ、一緒にアップデートしていこうぜって呼びかける試みがこのドラマなのかなと思う。

『哀れなるものたち』においてのベラと『不適切にもほどがある!』の小川先生は物語の構造上、同じような役目を担っている。彼女と彼はその時代の常識や社会規範に全く塗れていないからこそ可能な非常識的行動を通じて、観客や彼らのまわりの人々を揺さぶる。

しかし、ベラと小川先生はもちろん全然違う。ベラがこちらへさまざまな非常識さを常に提示してくるのに対し小川先生は新しい常識への適応を見せる。その新しい常識は現代的なイシューであり、まだまだ適応できていない人が多い。ベラが道をゴリゴリと作っていく、まるでモーセのような人であるとすれば、小川先生は出来始めた道を少し先に歩きながら一緒に連れ添ってくれるような人である。

というところまで書いたが、本当にそうだろうか?

キュウリで自慰を始めてしまうベラと勝手に他人のビールを飲んでしまう小川先生の間に、大きな違いは本当に存在するのだろうか。

ベラは周りの人々に影響されながら、「社会にどう存在しようか」を確立していったように思う。『目の見えない人は世界をどう見ているのか』にあった三本足の椅子の喩えのように、規範通りでないとしても、立っている、成立しているようになるためには、どうすれば良いかを周りの人から学び、自分の感覚で掴んでいったように思う。小川先生はどうだろうか。

小川先生は徹底的に傍観者だ。帰るべき場所は1986年であり、2024年においてどう生きるかは彼にとって(3話時点では)問題ではない。
ではなぜ小川先生は2024年に来るのか。それは恋だ。妻との死別との折り合いとしての恋?はたまた自分の人生を取り戻すための恋?妻の形見をワンセットにして持ち歩いているシーンや、恋する父に行ってこいと諭す娘のシーンを見るに、愛する人との死別と新しい人との恋はとてもこのドラマにおいて重要な立ち位置を占めていると思う。

過去を乗り越え、今(1986年)を生きていくために未来(2024年)にやってくるのだとすれば、小川先生もまたどう生きるかを掴んでいくための道の途中なのかもしれない。

歴史(過去)を学ぶことで、今を考える人はある程度いる気がするが、未来を学ぶことで今を考える人は現実には存在できない。フィクションだからこそっすな。

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