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友達論

「友達」という言葉が嫌いである。と書くと、なんだ友達付き合いが嫌なのか、友達は持たない主義なのか、と訝しがる人も居るかも知れない。そうではない。世間の多くの人が「友達」という言葉の使い方を間違えている。だから嫌いなのである。

僕には友達と呼べる存在が少ない。数えるほどしか居ない。べつに付き合う人を厳しく選んで友達付き合いしているわけではないし、誰かと親しくなるのが嫌いなわけではない。本来、友達と呼べる人の数はそんなに多くなるはずがないと思っている。何十人、何百人と友達が居ると言っている人が居るが、その人たちは本当に友達なんだろうか。

学生時代によく級友たちが言っていたセリフがある。
「おい、友達なんだから宿題写させてくれ」
「百円くらい出してくれよ、友達だろ?」
友達だから◯◯してくれ、これくらいやってくれ友達なんだから。彼らは毎日のようにそんなことを言っていた。何かをさせるための人間を「友達」と呼んでいたのだ。でも、僕に言わせればそれは友達ではない。ただ使い勝手の良い便利な人間だ。そして「友達」と呼びながら、彼らはそういう「便利な人間」のことを自分より下に見ていた。そんなのは決して友達ではない。

社会に出ても職場の同僚で酷い奴が居る。
「タイムカード一緒に押しておいてくれ、友達だろ?」
「あの企画書、俺の名前も入れて一緒に作ったことにしてくれよ、友達なんだから」
スーツを着てネクタイを締めていても脳味噌は学生と変わらない人種だ。相変わらず、自分にとって便利な人を友達と呼んでいる。そして決して口にこそ出さないが、その人たちを自分より下に見ている。それは態度を見ていれば分かる。

べつにそれで良いじゃないか、という人も居るだろう。自分の役に立つことをやってくれる人をつかまえて「友達」と呼び、仲良くしていればそれで良いじゃないかと。でも、そこに本当に友情はあるのだろうか。たとえば、お金をよく貸してくれる人が貧乏になっても、「友達」と呼んで付き合い続けるのだろうか。出かける時にマイカーに便乗させてくれる人が健康を害して運転できなくなっても、「友達」と呼んで付き合い続けるのだろうか。おそらく、自分にとっての利便性が失くなった時点で、会うことはなくなるのではないだろうか。

では、本来、友達とはどういうものか。先の例にしたがって言えば、
「宿題は自分でやれよ。自分のためだ」
「お金の貸し借りは止めよう。必ず揉めるから」
「タイムカードは自分で押せよ。規則で決まってるだろ」
「仕事をしていない人間の名前は企画書に載せられない。そういう不正はおまえのために良くない」
こういったことを本人のためを思ってズバリ言える人。耳の痛くなるようなことでも、その人のためになるならと勇気をもって言ってくれる人。そういう人こそが「友達」と呼べる存在であろう。

周りを見渡して欲しい。あなたが「友達」と呼んでいる人々の中にこういった人が何人居るだろうか。何十人、何百人と居れば大変すばらしいことだが、自分のためを思って意見を言ってくれる人となると、おそらくそんなに多くは居ないだろう。顔を思い浮かべながら数えられるくらい、というのが現実ではないだろうか。

先にも書いたが、僕には友達と呼べる存在は少ない。社会人にもなるとお互いの生活環境が違うこともあり、そうそう会えない。けれど、たまに会うとお互いが考えていることを率直に言い合える。耳の痛くなるようなことも、ズバズバ言ってくれる。ああ、やっぱりちゃんとしなきゃ駄目だなとネジを締め直される心地だ。

よく会話の中で「友達だろ?」「友達なんだから」と言う人が居る。だが、本当の友達ならわざわざ自分たちのことを「友達」とは言わない。そして、友達は「なろう」と言ってなるものではない。友達とは作るものではなく、気がついたら出来ているものである。

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