私たちの中にある美しい「脆さ」について
私たちは誰もが、見えない鎧を身にまとって生きている。
それは、幼い頃から「強くなければならない」という社会の期待に応えるために、少しずつ身につけていった防具だ。
学校では「泣き虫」と呼ばれないように。 職場では「できない奴」と思われないように。 人間関係では「弱い」と判断されないように。
しかし、その鎧は次第に重くなっていく。が、容易に脱ぎ捨てる決心もつかないものだ。
ある日、私は一人の患者と向き合っていた。 彼は優秀な仕事人間で、いつもスーツを着て現れた。完璧主義的な性格で、要件のみを話すため業務上はこの上なくスムーズに終了する、ある意味で「できる」患者だった。
確認事項が済むと処方をして次回の予約を取る。こんな関わりが数年続いていた。
しかし、この日は違った。 診察室の中で、彼は小さな声でこう呟いた。
「先生、俺、本当は怖いんです。ずっと誰にも相談できなくて...」
その瞬間、彼の目から涙が零れ落ちた。
私は驚き、斜めではなく正面へと向き直り、じっくりと話を聞く姿勢を見せた。
完璧な鎧に、小さな隙間が生まれた瞬間だった。
不思議なことに、その「弱さ」の告白は、彼の人間性をより魅力的に輝かせた。 それまで何となく近寄りがたく、お世辞にもコミュニケーション能力が高いとは見做せない彼の周りに、温かな空気が広がっていくのを感じた。
以降、彼の診察室での振る舞いは明らかに柔和なものへ変化し、治療も前進していった。
彼のような例は決して少なくない。精神科医であればきっと誰もが同じような体験をしているはずである。
人は皆、心の奥底に「割れやすいもの」を抱えている。むしろ外向きの強さは内面に壊れやすさを抱えた証左だと言っても良い。 それは、まるでデリケートな陶器のような脆さを持っている。
だからこそ私たちは必死に鎧で守ろうとする。しかし、その鎧が重すぎて、本来の自分の動きを制限してしまうことに気づけない。
完璧な姿より、弱さや傷痕が人の心に残ることがある。
日本の伝統技術で最も感動するものの一つが「金継ぎ」という技術である。
室町時代から発展したこの技法は、漆で器を接着し、その上から金粉を蒔くことで、傷を美へと昇華させる。 まるで魔法だ。
器の一部分が壊れ、修復された金色の痕に過ぎないはず。だが不思議なことに、その傷跡は欠点として目立つどころか、むしろ器全体の価値をより高めているように見える。
「壊れたものは壊れたまま」という概念を覆し、その傷痕がその器がたどってきた「物語」を見るものに想像させる。金継ぎには、不完全さの中にこそ真の美しさがあるという、深い哲学が込められている。
人の心も同じではないだろうか。 傷つきやすさ、弱さ、不完全さ。それらは決して隠すべきものではなく、むしろ私たちをより人間らしく、より深みのある存在へと変えてくれる要素なのかもしれない。
私自身がこのことを特に強く実感するのは、Voicyのリスナーの反応である。 専門性の光る話をするよりもリスナーの反応が多いのは、私自身の弱さを曝け出した時だ。 医師という鎧を少しだけ脱ぐ。だからこそリスナーも鎧を脱ぎ、私の話を同じ人間として向き合い、聞いてくださるのだと想像する。
完璧な人間など、この世に存在しない。 むしろ、自分の弱さを認め、それを受け入れる勇気を持った人こそが、真の強さを持っているのではないだろうか。
なぜなら、弱さを共有できる人は、他者の痛みにも深く共感できるからだ。 鎧を脱ぐことは、確かに勇気のいる選択だ。 でも、その先には思いがけない出会いや、温かな絆が待っているかもしれない。
私たちの心の中にある「vulnerability=壊れやすいもの」を、もう少し大切に扱ってあげよう。 そして時には、その傷を誰かと分かち合う勇気を持とう。
金継ぎの技が傷を輝きに変えるように、私たちの弱さも、いつか人生を彩る大切な一部になると私は信じている。