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「神との対話」の周辺で残念に感じること

何度も私のNoteの記事で書いていますが、私はニール・ドナルド・ウォルシュ氏の「神との対話」というシリーズの愛読者です。

この書籍は、著者のウォルシュさんが人生の苛立ちを神に向けて手紙を書こうとしたら、手が自動的に動いて口述筆記のような状態になり、神様が返事を書いてきた、という出来事から始まり、それ以来、口述筆記を通して神様と会話した内容をシリーズ本にしたものです。

この本では、神というものがユダヤ教やキリスト教でいうような「罰する神」「恐ろしい神」ではなく「友人のような存在として考えて良い」という新たな神のイメージを世間にもたらしました。また、どうして私たち人間の人生の目的や、宇宙の構造などについて、独特の世界観で説明を提供しています。

私がこの本を信じるようになったのは、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教(いわゆるアブラハムの宗教)は結局は人間の知恵の範囲内で書かれた神学に過ぎないと感じたのに対し、この「神との対話」の世界観は、おおよそ通常の人間の構想力・想像力では描ききれないスケールと発想に支えられている、と感じたためです。
詳しくは、読んでください、としか言いようがないのですが……。

一方で、「神との対話」そのものではないのですが、その周辺で残念に感じることもあります。

特に日本で言えることなのですが、「神との対話」に対する読み解き方、接し方がいわゆる「スピリチュアル」すぎることです

「神との対話」の本場である米国ではキリスト教神学に対するアンチテーゼという読み解き方があります。しかし、日本ではもちろん、キリスト教はマイナーですから、そうした読み解き方をしている方はほとんどいません。自然と、スピリチュアルな観点からの読み方になるのだと思います。

しかし、スピリチュアル勢の人たちの良くないところって(あまりディスりたくはないのですが)、疑うことを知らないところなんですよね。

「神との対話」の日本語版の表紙を飾っている方の一人に、さとうみつろう氏がいます。このさとう氏なのですが、最近は残念ながら信憑性が低い情報を発信している傾向にあります。詳しくは以下の記事をご覧ください。実用レベルに達しているか怪しい人工石油を過剰に取り上げたり、その他様々な話題で、陰謀論めいた自説を主張されています。

また、有名どころではれいわ新選組党首の山本太郎氏がいます。山本太郎氏、実は「神との対話」第3巻の巻末に寄稿されてるんですよね。その内容的には別に問題ないのですが、問題なのはむしろ現在の政治活動の方です。反ワクチンだったりMMT信奉者だったり、国会での問題行動だったりと、「神との対話」から何を学ばれたのかよくわかりませんが、いくらなんでも、悪い意味で吹っ切れ過ぎです。

私は「神との対話」の内容は非常に良いものだと思っていますが、このお二人に限らず、「神との対話」の日本のファンの方は、良くも悪くもスピリチュアル界隈の信憑性の薄い内容を安易に信じすぎるきらいがあると感じます。

正直言って、私はスピリチュアル系が嫌いです。大抵の情報はエビデンスに乏しく、再現性もなく、検証のしようがないからです。でも、言っていることはなんとなく素晴らしそうに見える、だから、なんとなく信じてしまう。それが危ないのです。

私は、「神との対話」の内容をそのまま全て信じているわけではありません。「過去に人類は遥かに進んだ文明を持っていたが、技術によって滅んだ」という超古代文明説なども出てきますが、エビデンスが全く示されません。具体的に紀元前何年のどのあたりだったのか、ヒントがあれば文献を追って確かめることもできるのですが。

こういうことを言うと、眉をひそめる人がいそうです。スピリチュアルの世界では「疑うことは野暮」という雰囲気があります。下手したら「やたらエビデンスを求める人は霊性が低い」とか言われそうです。いいよ低くて(笑)

しかし、科学的・論理的に見ていくことはなんら悪いことではありません。科学はそうやって進歩してきたし、長い歴史をかけて数々の偉人たちが毅然とした科学を進めてきたからこそ、人類はあの偏狭なキリスト教的価値観が支配した、暗黒の中世を乗り越えることができたのです。

他の皆さんが「神との対話」にどう取り組まれているか、私は興味があります。私みたいな非スピリチュアルな、批判的な読み方をしている人は珍しいかもしれません。でも、自分で言うのもなんですが、こういう読み方は貴重だと思います。

「神との対話」の神も言っていました。「いいね。あなたは言われたことを鵜呑みにしていない。遠慮なく疑うといい」ってね。

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