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美化せずにはいられない病。


 人間の脳は都合よくできていると思う。過ぎ去った出来事は、美化されやすい。というか、美化せずにはいられないのだろう、過去の自分を正当化するために。傷つけられて別れた昔の恋人も、退屈だった学生生活も。きょうはそんなお話。


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 小学生の頃の授業で、「富士山は遠くから見たらとても美しく、キレイに見えるけれど、実際に山に登るとごみで溢れている」という話を聞いた。

 Superflyさんの愛をこめて花束をの歌詞の中にも、「キレイなものは遠くにあるからキレイなの」という歌詞がある。キレイなものは近くにあっても、キレイであってほしい。願望。遠くにないとキレイに見えないものは、本当はキレイではないのだと思う。ごみで溢れた富士山も、ひどいことを言ってきた恋人も、退屈だった学生生活も、全てキレイなんかではないのだ。でも、きれいであってほしいという願望によって、美化されてきれいに見えてしまうのだ。

 わたしは人の身体にできた古傷を見るのが好きだ。どんな理由でそこに傷ができたのか、その人の歴史をひとつ知るきっかけになるから。そのとき、そばで見ていた人はどんな気持ちだったのか、さぞ心配だっただろうな、本人はひどく痛い思いをしただろうなと、その時のことを思って、本人は笑っていてもわたしはこれっぽっちも笑えないこともある。

 そして、身体的な傷は目に見えても、心の傷は見えない。知らないうちに傷つけられたそれを、自分ではない誰かに触れられて、初めて知るかもしれない。その傷は、近くにいる人でないと見つけられないものであることが、ほとんどだろう。ひどく醜い傷がそこにはあることで、その人までも醜く、ひどいものに見えてしまうかもしれない。その傷を、笑い飛ばせるほどの力を持つ人はそう多くはない。

 見せ合った傷の大きさが目に見えぬほど小さな傷でも、大きな刃物で刺されたかのように話す人はいるし、他人の傷に対しては大したことないねと、鼻で笑う人もいる。痛みの強さも人それぞれで、小さな傷に耐えられない人もいるし、誰が見ても痛いのに本人はケロリとしていることもある。自分と、他人で傷の大きさや形に見え方は違うということだ。

 どんな人も傷を抱えて生きているんだろう。大きさや、形はバラバラで、時間は経っても癒えない痛みを持つもの、ある出来事をきっかけにズキズキと痛む古傷、すっかり良くなって手術痕のようにぷっくりとそこに残る傷など、様々だろう。そんな傷の一つ一つを、ありのまま受け入れられるようになったとき、人は思い出を美化しなくても生きていけるようになるんだろう。


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 思い出を美化してしまう理由の中に、程度は違っても後悔が含まれていると思う。失ってからその大切さに気づくなんてのはよく聞く話だけれど、”大切なこと・もの・人”というのは、いつもそこにあって、そばにいて、日常に溶け込みすぎて、存在が当たり前になってしまっている場合が多いのだと、わたしは思う。これから先、思い出を美化して過去に戻りたくなったり、涙を流したりする日が来ないように、きょうを噛みしめて生きていこう。

 きょうも読んでくれてありがとうございました。またね。



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