「多様性という言葉が嫌いだ:価値観の境界とその限界」
多様性という言葉が嫌いだ。
最近はLGBTなど、多様性を認めようという動きが広がっている。
多様性ってなんだろう。定義を見ると「いろいろな種類や傾向のものがあること。変化に富むこと。「生物の—を保つ」とある。
この多様性はどこまで認めるべきなのか。殺人を行った犯罪者や小児愛者のの持つ価値観を許容できるのか。出来ないだろう。
じゃあ、どこまで?倫理的に認められる部分?社会通念上?
殺人を行った人も戦争のある時代や戦国時代であれば全く問題なかった。
結局、多様性は「自分が理解できる価値観」という範囲まで狭まっていく。最近は働き方改革で出社したくない、出世したくない、飲み会参加したくない、体罰はもちろん強い表現での叱責も不可である。
逆の価値観を持った昭和的な考えを持った人はなぜ認められないのだろうか。多様性を認めるというのであれば、自分と異なった旧態依然の考えや行動する人も認めて尊重する必要があるのではないだろうか。
だが、実際は、新しい価値観を認めろという文脈で語られていることが多い。結局多様性という言葉を使って自分の価値観を押し付けているに過ぎない人が多いように見受けられる。
だから、多様性を声高に主張している人が嫌いだ。
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