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『カミノフデ』感想

映画『カミノフデ ~怪獣たちのいる島~』を観てきた。

◆【前文】気持ちの整理のため

 なんとも評価に困る作品だった。絶賛されてたら文句の一つも付けたくなり、酷評されてたら「そんなに悪く言わないでよ!」と言いたくなる。映画レビューサイトでは酷評されてて、Twitterでは褒めの意見が多い。その理由もなんとなくわかる。そして、Twitterでこの映画を褒めてる人も、「じゃあ5点満点で☆いくつ?」とかきかれたら、やっぱり☆2~3辺りを付けてしまう気もする(「あえての☆5」とかは有るかもしれないけど)。酷評レビューを読むと、個々の要素については同意する点が多かった。一方で、褒めている投稿にも共感できるところがあった。
 でも、そういうレビューを見ていると「褒められて欲しくないけど、貶されて欲しくもない!」というワガママな自分が出てきてしまう。自分でもこれがどういう感情なのか掴みかねている。
 そこで、映画を観てから思ったこと、ずっと考えてる事を、そのまま書き残しておきたくなった。良いと思ったところも、これはアカンと思ったところも、勝手な想像も、全部。あとで「やっぱり違ったよ」となることもあるかもしれないけど、今、自分が「観て、こう思った」という事を、なるべくそのまま残しておきたい。なので、特に調べたり、裏を取ったりはしていません(役者さんと役名だけは調べた)。パンフレットも買えてないです。あと、途中でめちゃくちゃ話が逸れます。
 正解を知りたいわけでも、答え合わせをしたいわけでもなく、この『カミノフデ』という映画に対する自分の気持ちを整理するために、感想を書きます。

■映画を観た感想

 まず、映画を観た時に思ったことや感じたことを、正直に書きます。

◆母校の学際みたいな映画

 映画が始まって数分で、これは”アナログ特撮怪獣映画が大好きな人たちのお祭り”だと思った。いわゆる”映画好き”、もっと言うとシネフィルの皆さんが満足するようなものではないし、そもそもそこを目指していない。そういう意味では、内輪向けの映画になっている(”ターゲットを絞った”と言い換えるには輪が狭すぎる)。一方、その内向きの輪の中には、自分もしっかり入っている。だから、大前提として楽しかった。
 関係者だけで内向きに楽しんでる映画を観たときに、”他校の学際みたいな映画だった”と例える事があるんだけど、それで言うとこの映画は”母校の学際みたいな映画”だったな。
 冒頭の見事すぎる空撮で、一瞬「お、これは人にも勧められる作品になっているのでは?」と勘違いしかけたけど、そのあとの会話劇で適度にハードルを下げる事ができました。今思うと、あの空撮はドローンパイロットの手腕だったね。

◆人には勧めにくい……

 ストーリーは、それだけ取り出すとイマイチなところの方が目立った。特に序盤。設定を説明するだけの鈍重な会話と、ご都合主義な展開が続く。正直、ここは見ていて結構しんどかった。話の進行自体、なんだか最後までぎこちなかった。「それをテーマに入れたいなら、劇中に必要な描写があっただろ」「その説明、今やらなくてよくない?」「いいからはやく怪獣出てきてくれ」って思うところが、結構あった。最後、急に「俳優を目指す!」とか言い出した時は、あまりに強引すぎて「え!?そんな話したかったの!?」って思った。
 端的に言うと、ストーリーに穴が多い。だから観客がそれぞれ能動的に迎えに行って、描写の不足や、つながりの不自然さを補完しないといけない。人に勧めるにしても、ちょっと相手を選ぶ映画だと思った。個々のアイディアは良かっただけに(ワイン城でのヤマタノオロチとの戦いとか)、もう少し話の道案内というか、段取りをうまくやって欲しかった。
 ドラマパートに関しては、演出面でも気になる点が多かった。人物のカットは顔アップか棒立ちがほとんど。各カットに無駄な数秒があって、なんだか間延びしている。声を掛けられる前にすでに立ち止まっているカットとかも、大きなスクリーンで見ると目立ってしまう。

 もちろん、個人的には充分に楽しんでいた(何しろ”母校の学際”なのだから)。上映後、一緒に観ていた友人に聞いたら「スタジオのLEDスクリーンはだいぶ狭かったんだろう」「大物俳優の拘束時間は半日ぐらいしかなさそうなのに、よく全員の見せ場を作れた」とか言ってたし、私は私で「撮りなおす時間もあんまり無いから、編集で対応できるように顔アップが多いのかな~」と妄想していた。
 不足分を補完して楽しめるなら、積極的に補完していった方が、個人の体験としては得だと思う。そうするべきとは思わないけど。世の中には、汲み取ったり迎えに行っても、全てが徒労に終わる映画もたくさんあるので……。

 でも、やっぱり見てる側が汲み取らなきゃいけない映画は、ちょっと人には勧めにくいよね。そもそも娯楽作なんだから、前提として、観客側が汲み取らなくてもいいように作るべきだとは思うし。

◆目的は怪獣

 ただ、ドラマパートが見やすくなるように時間や予算を使うなら、その分で怪獣を出してくれた方が嬉しい。観る側もそのほうが嬉しいし、作り手だってそっちの方が楽しいんだと思う。観客と制作陣には、そういう共犯関係がある。だから、この映画はこれが正解なんじゃないかな。
 『モータルコンバット(2021)』の感想でも同じようなことを書いたけど、「ストーリーが整ってる代わりに怪獣があんまり出てこない『カミノフデ』と、今の『カミノフデ』だったら、どっちが観たいか」って考えると、間違いなく今の方が観たいもん。だって、怪獣がたくさん出てくるんだよ?サイコーじゃん。

 ”いい脚本”というと、ストーリーに穴が無くて、驚かせるような意外な展開や、見事な複線があるものをイメージする。でも、作品によっては ”(多少の穴があっても)事情や制約をクリアしつつ、観客の観たいもの・作り手の見せたいものをしっかり描き、関係者の顔を立て、完成までこぎつけられる脚本” が求められる場合もある。評論家や映画ファンにとって、ベストではないかもしれないけど、それもまた”いい脚本”(言い換えるなら”いい仕事”)だと思う。

◆『サプライズ怪獣理論』

 それで言うと、「とにかく怪獣がたくさん出てきて大暴れするところが観たい!」という観客の要求は充分に果たしている。その結果、展開が行き詰まると怪獣が出てきてそれどころじゃなくなるという、”サプライズ怪獣理論”が実践されている。

 怪獣が出てくると、本当にそれまでの展開がどうでもよくなる。というより、それでどうでもよくなるような事しか起きない。普通に考えたらそれってどうなの?ってなる。だけど、この映画では、製作者も観客も「怪獣が出てきて暴れる事より面白い事なんて無いだろ」と確信しているので、全く問題ない。
 そういえば以前、脚本の中沢さんは「映画に怪獣が出ると、それだけで30点は取る(だから、絶対赤点にはならない)」と言っていた。この映画は怪獣の出番だけで、少なく見積もって120点ぐらいは取っているのではないかしら。
 怪獣が暴れている間は、怪獣に集中したい。そう考えると、このサプライズ怪獣理論はピッタリ。「そういえば本筋の方はどうなってるんだ?」などと、余計な情報で気が散ることなく、目の前の怪獣に没頭できる。むしろドラマパートがイマイチなことで、怪獣が出てきた時の喜びが倍増する。スイカに塩付けるとより甘くなるような感じだ。子供のころ、怪獣映画のドラマパートで「ゴジラ、まだ出てこないの?」と思っていた感覚を、久々に味わえた。

◆出てくる怪獣、全部好き!

 じらされたこともあり、怪獣のシーンに関しては全編言う事無しだった。最高。CGを多用した怪獣映画も凄く楽しんでいたけど、久々に本格的なアナログ特撮を見て「やっぱり、こういうのがずっと見たかったんだなぁ」って気づかされた。
 特にヤマタノオロチの登場シーンは、どれも素晴らしい!最初は闇の中で人間と戦い、次に昼間の市街地で大暴れして、最後は……と、毎回バリエーションがあった。これだけ出ていて、似たようなシーンが一個もなくて、どの戦いも印象的だった。
 ゴランザも好き。ネッシーみたいに湖から登場するシーンは、本当にワクワクした!しかし、キノコの音(キノコの音って何?)が苦手という設定は何だったんだろう。てっきりラストに向けた複線だと思ったら、別にそんなことも無かった。単に巨大キノコが作りたかっただけかな。
 怪魔人は、だれが見ても大魔神のセルフオマージュだった。埴輪モチーフの大魔神よりは日本神話にイメージが近くて、ヤマタノオロチと並んだ時の相性が良かったな。あと、人の想いでヒーローが具現化するっていう概念が『ティガ&ダイナ』のティガっぽくて好きだ。こっちは筆から飛び出てジャジャジャジャーンって感じだけど。
 ムグムグルスは、あの微妙な可愛くなさが、まさに平成特撮怪獣映画だった。今だと、絶対もっと愛らしいデザインになるはずだもんね。でもそれが逆に「孫娘が可愛いと思うに違いない」っていう”ジジイ感覚”のズレが出ていて良かった。多分作ってる側はムグムグルスの可愛さに一切の疑問が無いと思う。そこも含めて味わい深いキャラだ。
 ツノゼミっぽいヤツは……まあアイツはそうでもないな。デカいツノゼミだった。

ムグムグルス。かわいいのか可愛くないのか微妙な造形が嬉しい。
ヤマタノオロチの首!すごい迫力。

■勝手に受け取ったメッセージ

 ここからは、完全に妄想というか(ここまでも充分に妄想なのだけど)、こういう事なんじゃないかな?と思った事を書きます。

◆感謝を伝えるための”生前葬”

 まず、怪獣が好きな人、村瀬継蔵さんが好きな人が、これだけ集まって映画ができた。そのことにジーンと来ちゃった。本当に、特撮怪獣映画への、そして村瀬さんへの愛を伝えたくてしょうがない!という気持ちが、スクリーンからドバドバとあふれてくる。多幸感がハンパなかった!
 と、同時に、すでに亡くなった方への”感謝を伝えきれなかった”という思いも感じた。正確なセリフはうろ覚えだけど、樋口真嗣が「なんで先に逝っちまったんだ!お前には、もっと作って欲しいものがたくさんあったんだよ!」と慟哭するシーンは、(演技はともかく)不覚にもグッと来てしまった。やっぱり、この言葉を聞いたときに、自然と頭に浮かぶ顔がいくつもある。そんなセリフを樋口真嗣に言わせるのはズルい(まあ、こういうのを「内輪ノリだ」と言われれば、それはそうなんだけど)。
 この映画は、”生前葬”みたいなところがある。劇中で疑似的な葬儀をすることで、翻って、今生きている人たちに、それぞれが感謝を伝えあえる。そこがこの映画の一番の意義ではないかと感じた。

◆中沢さんの弔辞

 この映画が生前葬だとすると、中沢さんの脚本は弔辞だったと思った。
 赤塚不二夫さんの葬儀で、タモリさんが「私もあなたの数多くの作品のひとつです。」って弔辞を述べていた。『カミノフデ』の城戸卓也っていうキャラクターは、本質的にコレなんじゃないかな。だってどう考えても、卓也は中沢さん本人がモデルでしょう。「怪獣がでたら、自分だったら絶対逃げずに見に行く」みたいな事をご本人がポッドキャストで言ってたし。まあ「不老不死になりたい」が「長生きしなきゃ」になってたし、だいぶマイルドになっていた。
 マイルドとは言え、自分をモデルにしていながら、こんなに「煩わしくて見ていて恥ずかしくなるオタク」として描けるのは凄い(全力で演じた楢原嵩琉さんも凄い!)。こういう自虐・自罰的視点があるのは、中沢さんがジャンルを問わず幅広く愛されている理由の一つかもしれない。見ていて本当に恥ずかしかった。一緒に観た友達は共感性羞恥で死にかけていた。

◆思い出のエミュレーター

 この映画が嫌いになれない理由として「子供のころに夢中で観てたものを再現してくれた」という点は外せない。同世代の人で、平成モスラ三部作を思い出した人は、やっぱり多いみたい。
 主人公が中学生か高校生か(進路希望とかやってたから高校生?)で、内容がジュブナイル。「中高生にしては言動が幼稚すぎない?」と思われるかもしれない。けど、オタクは中高生どころか40歳50歳になってもこのぐらい幼稚だから、ここは本当にリアル。嘘だと思うならこの映画の客席をみてごらん。俺がいるから。
 話が逸れたけど、この映画は90年代の子供向けジュブナイル映画の持つ「空気」をかなり再現している。この空気を思い出させてくれただけでも、観に来てよかった。話の段取りが悪いところも含めて、子供のころに怪獣のソフビを戦わせて遊んでいた体験が、そのまま映画になったような感覚すらあった。
 ヒーローショーの司会進行悪役のような、”盗賊のアニキ”の存在も大きい。ああいうユーモラスな悪役、子供向け映画の定番だったよね。馴染みのある”昭和顔の悪役”が出てきたんで嬉しくなっちゃった。
 話はそれるけど、この盗賊役の町田政則さんは『大巨獣ガッパ』の子役や『ウルトラマンティガ』の怪人チャリジャ、『キリマンジャロは遠く』の怪しい男などを演じていたらしい。知ってる顔だ!と思ったのは過去に観た映画の刷り込みもあったのかも。
 このあたりで評価が甘くなるのは、単なるノスタルジーかもしれない。

◆ジャンル終焉に抗う

 ただ、単にノスタルジーだけで終わらないように作られた映画だとも思う。印象的だったのが、斎藤工さんが『大群獣ネズラ』のラッシュフィルムらしきものを観ているシーン。このシーンは、『ネズラ』だけではなく、その背景にある”動物を使った特撮というジャンル”を表しているんじゃないか?と思った。
 このジャンルは、動物虐待以外の何物でもないので、もう二度と作れない。ワンちゃんをそのままミニチュアセットで暴れさせた『むく犬ディグビー』も、今の時代に同じような映画を作ると、『でっかくなっちゃった赤い子犬 僕はクリフォード』になるわけで。そういえば”トカゲ特撮”ってジャンルもあったな。観たことないけど。
 「ジャンル自体が終焉を迎える事はある。私たちが見て育ったアナログ特撮も、いつかそこに加わるかもしれない。それをどうにかして次世代に紡いでいきたい。ノスタルジーで終わらせたくない。」このシーンには、そんな想いを感じた。
 映画館には、特撮オタクのお父さんが小さい子供を連れて観に来てたから、ごく狭い範囲ではあるけど、この想いは成就しているかもしれない。

 作者と作品の関係性を表すセリフもあり、この映画のなかでも特に重要なメッセージが込められているシーンだと思った。と同時に「斎藤工さんの説得力に頼るのも、限界はあるからな!」とも思った(まあ、斎藤工さんのシーンは、全体的にそう思う事が多かった)。

 話はそれるけど、映画館で上映中に喋ってるやつが居たらぶん殴りたくなるのに、映画の中の”映画館で会話するシーン”ってやたらいいのよね。『紅の豚』とか『パプリカ』とか。

◆「最後だから」と「最後なのに」

 大規模なアナログ特撮の単独怪獣映画って、ひょっとすると『カミノフデ』が最後の一作になるかもしれない。そのことを踏まえたうえで、「最後だから、好きなようにやってほしい!」って気持ちと「最後の作品として残るのに、映画としてどうなんだろう」って気持ちが、両方ある。
 本当に贅沢を言うなら、歴史に残る名作まではいかなくても、ファン以外の人にも「こういうのが好きなんだね~解るよ~」って納得してもらえるような作品であってほしかったかなぁ。そこが、この映画が絶賛されてたら水を差すようなことを言いたくなる部分かもしれないですね。

■まとめ。

◆レビューサイトなんかに書きたくない!

 さて、自分はこの映画が好きだし、楽しめた。それでも映画レビューサイトなんかに書くことになったら、良くて☆2.5とか付けてしまうと思う。というのも、レビューとなると”映画としての出来の良し悪し”を基準にしちゃうから。その基準で、この映画の出来が良いとは、少なくとも自分はちょっと言えない。誰が見ても面白い映画か?オススメか?と聞かれると、眉間にしわを寄せて苦い顔をしてしまうから。
 でも、好きか嫌いかで言えば、好き。レビューサイトの弱点として、この「でも好き」が反映しにくいんだよな。だからこの映画の感想は、レビューサイトじゃなくて(評価ボタンが”スキ”な)NOTEに書きたかった。

◆一番の感想

 冒頭にも書いたけど、この映画を絶賛している人を見ると、おせっかいにも「いや、もっといい映画を観た方が……」という気持ちになるし、あまりに酷評している人には「いやいや、もっとひどい映画はいくらでもあるぞ!」と言いたくなる。多分これは「良いところも悪いところも含めて、この映画の感想を自分だけのものにしたい」という独占欲の表れ。なので、この文章を書いていたら、他の人の感想が気にならなくなってきた。だいぶ自分の感想が整理できたので。
 誰にでも勧められる映画ではないけど、自分はこの映画を好きだし、楽しめる側に居た。子供のころ繰り返し観ていた映画の忘れていた部分を、この映画の中でいくつも追体験できた。そのことは、素直にうれしかったです。
 そして何より、この映画のおかげで「自分も、村瀬さんの作品に育ててもらった一人だったんだな」って、改めて気付いた。長々と考えてきたけど、自分にとっては、その点が一番重要だったんだと思います。

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