2022年10月28日

電気が首を縦に流れ落ちた。あまりにも突然だった。あまりにも突然だったから、その時の事をあまり覚えていない。ゼミに参加して、先輩の小難しい話を振り落とされないように必死に首を縦に振りながら聞いていた。一瞬気を抜いて伸びをしたのか、そうでもなかったのか、それさえ分からないが、気がついた時には首後ろに感じたことのない痛みを憶えていた。寝違えた時の筋が伸びるあの痛みとは全く違い、首の後ろ側中央がバリっと痛んだ。真っ直ぐ前を向いている間は大丈夫だが、目の前の資料を見るために首を下に傾けようとすると声が出そうな程に痛い。前のプレゼンターに、僕の右側に座る先輩や教授が指摘や質疑を入れていく。普通なら首を軽く横に捻って目だけをそっちに向けるのだろうが、律儀なことに身体ごと傾けて、一見熱心に話を聞いている真面目な後輩を演じてしまった。その実痛みを我慢しているだけで話などほとんど入ってきていないのだ。結局仕方がないから、小難しい話を理解するのは諦めてしまった。
その後、ゼミを途中退席して授業に出席した。この授業はそんなに難しくない(と僕が勝手に認識している)から、いかに首に負担を書けないように目を落とし、板書を取る作業ができるかということを試行錯誤した。痛いものは痛いが、紙を遠くに置いて俯角を小さくすれば負担を減らせるのではないか、と珍しく数学が実生活に役立てながらその場を乗り切ってみせた。長らくsin、cos、tanに触れていないことを思い出した。苦手とする人が多かったが、数学の中ではかなり実用的な分野だと思う。
今日のバイトは4時間ほどあり、作業量が多い締め作業も含んでいる。さすがにそれを耐え切れる気はしないからと店長に泣き言を言おうと思ったが、電話が繋がらなかった。腹を括らなければならないらしい。困った……。


バイト先の人に開口一番、「どうしたの?何か変だけど。」と言われてしまった。大学が終わってから、真っ直ぐ前を向いている間はそれほど痛くなかった首が、前を向いていてもジリジリと痛むようになってきた。歩けば足から伝わる微々たる振動が首まで到達して、弱気なビートを刻みながら痛みに変換されていった。おかげでいかにソロソロと、それでいて速く歩けるかということを求められ、自覚はなかったが相当変な歩き方をしていたらしい。事情を説明するとシフトを代わってくれて、2時間で帰れることになった。これほど人の優しさに触れたのは久々だと思った。
前々から感じてはいたが、バイト先のカウンターテーブルは立って作業をするにはやたらと背が低い。講義を受ける時に役に立った俯角を小さくする方法も、背の低いレジ相手には通用しなかった。出来るだけ体を遠ざけ手を伸ばすことで何とか操作をすることは出来たが、人前でこれをやるのはかなり恥ずかしい。恥ずかしいというか店の人間として印象に関わる。そんなことも言ってられないほどの体たらくだったので、2, 3人相手ではあったがそんな醜態を晒すことになった。わざとらしく釣り銭を眼前に持ってきて数えてから、視界の外にあるプレートに乗せてお返しするという今後一切使えそうにないスキルを身につけた。「帰りに湿布を買って帰ること」と強く念を押され、2時間の労働を終えた僕は帰路に着いた。


薬剤師さんの助言を頼りながら、塗るタイプの痛み止めを購入した。運動しないで育ってきてしまったから、塗る痛み止めがあることさえ知らなかった。乾いてしまえば湿布のように剥がれてくることを心配しなくて良いし塗り薬なので患部に必要最低限の処置を施せるということらしく、軽く感動した。
痛みを堪えながら帰宅し、意気揚々と塗り薬を塗布した。これで謎の痛みとはおさらば出来て俺はもう普通の生活に戻れる。塗った瞬間から、何やらビリビリと痺れるような熱を感じた。「効いてるんだな」などとあまりにも根拠の薄い非科学的なことを思いながら、家事作業を始めた。

いや、痛いんだが。

確かに何もしないよりはずっと良かったが、それでも可動域が広がっただけでまだまだ痛みは残っていた。考えが甘かったようだ。仕方がないから、作業量を最低限に抑えて今日はもう終わりにしよう。

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