橘エリーの「優しさ」論

前提として「私は存在しないほうがよい」と確信している。私に「居(てもいい)場所」は存在しない。



共有している物を開け渡すときは最初の状態にしてから(カラオケのデンモクやシャーペン等)
   「来た時よりも美しく」という言葉(山の学習(林間学校)のときに初めて出会った概念)
   あの言葉の美しさと正論性を忘れられない。
   五七調だから、口にしやすい。

相手(対象)を否定しないように気をつけている  なるべく傷つけないように
  傷つけたくて傷つけるときは「刺し違える覚悟で臨むべき」と思う。
  そんな覚悟、今はないけど、私が本気で嫌う(憎むor恨む)対象には、容赦しないだろう
    自分を犠牲にする覚悟で、刺し違える覚悟で。
    有川浩さん「ストーリー・セラー」を読んで、心に決めたことがらのひとつ。
    (「ストーリー・セラー」はいいお話です。物騒ではないです。)

一緒にいる人が「心地よい」と思えるものを提供したい(努力目標)
  せめて「一緒にいる人だけでも、気分良くいてもらえたらいいよね」
  だって私は「存在が迷惑」だもん。
  友人知人に「橘エリーに会ってやってもいいかな」と思ってもらえるように
  たぶん、平均よりは「気をつかう」側の存在。

  赤子やペットなど、意思疎通の難易度が高い相手にはあまり関わりたがらない。
  人への距離感は近いのにね(橘エリー七不思議)

話す人の目を見れないのに。


人はどうしても

「自分の言動を'常識'だと考える」傾向にあるみたいだ。
私は、父や祖母が「自分の感じ方を絶対視して」物事を考える、その神経がわからない。
 自分と他人は違うだろうが。
なぜそれを受け入れられない?

加齢とともに「変化しにくくなっていっている」のは理解している。
でも、私が言語化できなかった頃は、今よりずっと若かっただろう?
20年以上過去のことだからね、今よりも若かったはずだよ。
変わる必要性を感じなかった、ってことよね?

「正論を言うのみで寄り添おうとしない私」は好きではないけれど、
傷つけられた者(幼少期の橘エリー)を想うと、憂うと、
傷つけるために刺々しい言い方を選ばなければならない。
  私は「過去の橘エリー」の味方でありたい。

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