「自分を信じる」

この記事に縁あって辿り着いた「あなた」は、
自分を信じる」ことができますか?
すなわち「自信がある」状態、でしょうか?

(敬体(〜です、〜ます)ではなく、常体(〜だ、〜である)に戻しますね)

「自分を信じる」とか

私は「自分を信じる」ことができない。
「自分を信じる」という言葉の意味はわかるが、それをする意味がわからない。どうして「自分を信じ」られるの? だって根拠がないじゃないか。
幼少期から多大なる世話焼きと詮索を受け続け、今ではすっかり「自分が今生きていること」に対して疑問に思う… どころか「自分はよ死ねや」と思っています。

↑この思いに対し
「言い訳はいいわけ?自分の人生くらい自分で舵取りしろよ」と第三者みたく俯瞰して思わなくもないが、
「'健全な育ち'を得られなかった'かわいそうな子'」と、橘エリーを被害者的に思う自分もいる。
今から健全な育ちを得られるのであれば、対価として臓器をいくつ提供してもかまわない。私に生きる価値はない。本人から必要とされない命ならば、せめて社会に貢献させてください。


卒業論文の指導のとき、指導の先生に
「もっと自信を持ちなさい」「自信とは自分を信じること」と言われたことがある。


私のことだからそのときも反発しただろう。
だが改めて言う。
自分を信じることなど、できるはずがないのだ。


「自分」は「自分」、良くも悪くも

だって、自分だよ?
自分ひとりで決めてきたことなんてない、自分だよ?
他人の意見を聞き入れて(=他人の考えを教えてもらって真似して)ばかりで、
でも自分の意見を大事だと思っており変なところで譲らない、
そんな「人間の悪いとこ詰め合わせセット」みたいな私だよ?
  信じるに値しないんだって。信じても裏切られるだけなんだって。
私は自分が嫌いだ。憎んですらいる。


 人は私をどう思っているのだろう。私は「どう」思われているのだろう…



入院治療を経て「性格が悪くなった」のかなって疑ったこともあった。
『我慢することが苦手になった』のはつまり、
よく言えば『自分の心に嘘をつけなくなった』ってことだよね?
入院治療前は「自分の心に噓をついていた」ってこと、だよね?
…自覚がないということは、常態化していた(’嘘をつくこと’が’いつものこと’になっていた)、ということか?

「入院前の私」と「退院後の私」は違う。
なにかしら変わったから(「なにかしら」である… 自分でもうまく言葉にできない、悔しい)
「生きやすく」なった。でも「以前の私が暮らしていたところでは通用しづらくなった」
「私は変わった」のに元いた社会に戻ったもん、生きづらいんだよね。

「入院前の私」は難なく(難はあったかもしれないが、少なくとも「顔色を変えず」に) やり過ごせていたことが、
「退院後の私」には難しい。イラっとしてしまう。
自分を偽らないと言ったら聞こえはいいが、
その実「人間を許容するストライクゾーンが狭まった」だけのこと。
笑って済ませることか苦手になった。
細かな言い回しは忘れたが、私は仲の良い人たちに傷つけられた(正確に言えば、一方的に傷ついただけ)
ゆるさない、とすら思った。傷ついた。
咄嗟に声を荒げなかった自分を褒めたい。「咄嗟に反応できない」ことは、悪いことばかりではない。  ※くやしい。ストレスがたまる

何人たりとも私を侮辱させやしない。
私は傷つけられていい存在ではない。私は簡単に傷ついていい存在ではない。


思えば、私は何度も「他者の言葉」に傷ついてきた。
傷つき傷つけられ、傷を傷として触らずにいることができず触ったり悪化させたり。

でも「自分の言葉」のほうが、より的確に言われたくない言葉を発してくるんだよね。
「他者の言葉」は他者が発するから、予測できない方向から切先が来るけど、
自分の言葉は容赦なく抉る。手加減をしない。
自分の心は、自分の弱点をよく知っている──



『私にだって強さがあれば』

傘村トータさん『15歳の主張』より


私にだって「強さ」があれば──

なんだってできるだろう。なんだって「できた」だろう。
発達期は過ぎた。 私はもう、新たな挑戦をするのがこわい。
「今が人生で一番若い時」と言われても、「はいそうですか、では挑戦します」と言える人がどのくらいいるだろうか。

20歳を越えたら人生終わり、などと言うつもりはない。
それでも、越えたとき、何かが終わった音が聞こえた気がした。
アルコール煙草類の自由と引き換えに、僕は何を失ったのだろう。

(一人称が揺れるときは「わりと疲れているとき」だと思うので、この辺りでしめておきます。)

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