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ビネガーバレンタイン


 19世紀、社会が豊かになり識字率が向上すると共にクリスマス同様バレンタインも商業化した。贈り物もかつては手作りだったものが、既製品に置き換わって行く。

 バレンタインにはしばしば「あなたの秘密の崇拝者」からカードが届けられた。普通は愛のメッセージだったり、可愛いイラストに添えて細やかな詩が書かれているんだけど、中にはとんでもないのも相当数含まれていた。それが、ビネガーバレンタイン。

禿げを揶揄うビネガーバレンタインカード

 バレンタインカードを送り合う習慣が流行するのとほぼ同時期に嘲笑的で意地悪なビネガーバレンタインの流行は始まったとされる。送り主は匿名で、しかも当時郵便物は受け取った方が払う仕組みだったので、お金を払って侮蔑的なカードを受け取った方はたまったものではない。

「残念ながらあなたはノーチャンス! 私は他に好きな人がいるの」

「これがクールなおもてなしよ。水をどうぞ!」

 ヴィクトリア朝時代、バレンタインは熱狂的な人気を誇ったイベントで、郵便配達物の量は激増し、配達員達は特別手当を与えられた。メッセージカードの量も膨大なものになったけれど、その半分がビネガーバレンタインだったとも言われている。料金授受の場でトラブルがあった事は想像に難くない。わたしなら受け取りを拒否する。

 ビネガーバレンタインはバレンタインの商業化以前からあったと言われているけど、その頃は少なくとも手書きで嫌味や皮肉を書いていた。しかし安価な印刷やファンシーペーパーの生産、イラストの大量生産、高度な郵便システムの開発によって、わずか1ペニーで買えるビネガーバレンタインのカードが流通すると、ありとあらゆる人達を馬鹿にしたり皮肉ったり侮辱するカードが次々と考案されては送られて行った。バリエーションは通常のバレンタインカードを凌駕する程だったとか。恋愛よりも悪意の方がそりゃ表現は豊かでしょう。

 標的とされたのはいわゆる悪目立ちしている人達で、酔っ払い、浮気者、ナルシスト、ケチ、威張りん坊、居丈高な家主、高圧的な雇用者、あまり良く思われていない仕事の従事者、禿頭、短躯、未婚者と多岐にわたる。


 女性も勿論例外ではない。身なりに気遣わなかったり、大声で話したり、政治に関心があったり、学がある者は容赦なく皮肉られた。ヴィクトリア朝時代の女性は淑やかで、まるでお人形のようであるべきだと考えられていたため、その枠から出た者は悪目立ちする。後に女性参政権運動が加熱すると、中でも最も過激な抗議運動を繰り広げたサフラジェット達が標的とされ、侮蔑的なカードが頻繁と届けられた。

 こうしたカードの殆どは現在残っていない。普通に考えて受け取った側もこんなものに残す価値はないと考えるでしょう。殆どは破り捨てて屑籠行きになったと思われる。匿名の誰かの悪意に過剰に反応するのは現代と同じで、別居中の妻が送りつけてきたに違いないと激怒して奥さんを撃ち殺した男もいるし、悪意に悲観して自殺した人もいる。

 面と向かって人を侮蔑するのは難しい。反撃が飛んでくる。しかし反撃されないと思えば悪意はどんどん苛烈になるもの。

 100年以上前の人達も、今とあんまり変わらんわね。

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