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ハンサムキャブ。ヴィクトリア時代の象徴とツイてない天才

 ヘイタクシー! 2〜3人乗りの一頭引き馬車をハンサムキャブと言い、ほぼ現代のタクシーに相当する。ホームズを読んでる人にとってはお馴染みかもね。割とよく呼びつける印象があるし、御者に急ぐよう指示したりもしたと思う。

展示中のハンサムキャブ。詰めて3人がやっとの座席でしかない分、渋滞をすり抜けるのに役立った。

 特徴は機動力で、それまで同じ用途で使われていたハックニーコーチが6人乗りの二頭引きなのに比べると、格段に小回りが利いたし、馬も一頭で済むから維持費が有利で料金も安くついた。ハックニーコーチが渋滞する中、ハンサムキャブは都市交通の足として重用され、やがてロンドンから各都市に拡散し、更にニューヨークなど他の大都市でもお馴染みの光景となり、やがてタクシーメーターが取り付けられた『タクシーキャブ』が普及して、自動車に代替されるまで使われた。今でもイギリスではタクシーの事をキャブと呼ぶ。19世紀の世界観を再現したいなら欠かせない馬車と言えるでしょう。

 ところでキャブ自身はよく知られているし、よく普及したけど、その発明者はあまり知られていない。悲しい事に発明者は努力と功績に相応しい対価を得る事なく世を去った。

19世紀のタクシー生みの親、ハンサム

 ジョセフ・ハンサムは19世紀初頭、ヨークに生まれた。当初、父に従って建具屋として修行を積むも、やがて建築、設計に才がある事が判明し、父の元を辞して建築家に弟子入りし、二十歳まで修行を積むと、建築家としてのキャリアを始める。彼は生涯で200以上の建築物を作る事になり、そのうちのかなりがまだ残存していたり、国家指定建造物として高い評価を受けている。非常に優秀な才能の持ち主ね。

 しかし、とにかくツキがなかった。

バーミンガム市庁舎。指定建築物グレードⅠ

  28歳の時、ハンサムはバーミンガム市庁舎の建造コンペディションに応募する。激しい競争となり、67のデザインが争った。バーミンガム市は当然少しでも安くて見栄えがいいのを選択したい。ハンサムのデザインは採用されるも、見積もりを安くし過ぎたため、工賃オーバーとなる。その分は建築家が保証する契約になっていたので、歴史に残る建造物を作ったのに破産してしまうと言う踏んだり蹴ったりな事態となった。

「キャリアがボロボロだ……。会社も、パートナーシップを結んでいた業者も消滅してしまった……」

 それでも手に職はあるし、才能もある。ハンサムは気を取り直して取り敢えずひと時の職を得る事にした。バーミンガムにいる間、広大な土地を持つ地主のヘミングと友達になっていたハンサムは土地の管理人としてなんとか再就職する。この間、雇用主からの依頼で幾つかの建築の仕事を手掛けるも、最大の仕事こそがハンサムキャブだった。

「フランスで流行ってるこの二輪の馬車を知ってるかい? キャブリオレと言って、小回りが利いてなかなかご機嫌なんだが、見ての通り後ろに立つ従者が危険で疲労が大きく、席も揺れが激しく転倒しやすい。改良できないものかね?」

カブリオレ。ハンサムキャブはこれを元に改良した。

 ハンサムはキャブリオレの重心を下げて安定性を持たせる他、従者が立っていた位置に安全な運転席を作る。速さと安全性を兼ね備えたこの馬車はハンサム・セーフティ・キャブリオレと称され、やがてハンサムキャブと略称された。

 冒頭でも述べた通り、画期的な発明だったキャブはたちまち都市部のどこででも見かける普遍的な存在となる。しかしハンサムはここでもツイてなかった。彼はこのアイデアを自ら形にするだけの資本がなく、やむなく会社に10000ポンドで売ったものの、その会社が財政難に陥ったため、支払を受けることはなく、街中を自分の発明品が絶えず行き来するのに自分は一銭も支払いを受けないと言うこれまた踏んだり蹴ったりな事となる。

「バーミンガム市庁舎といい、私の人生こんなんばっかだな……」

 それでも腐らず、土地の管理人を真面目に続けてきたハンサムは名士である地主の影響もあってか、人脈を回復させ、建築の仕事に復帰する。1843年、ハンサムはまたしても歴史に残る大仕事を成し遂げた。イギリスで最も古い業界誌の一つである『ビルディング』の前身となる『ザ・ビルダー』を発刊し、建築家、建築業者、労働者を対象として専門的な知見を提供した。

イギリス最古の業界誌の一つ。ビルディング

 しかしここでも彼は運に恵まれない。商売が下手くそな彼はこの雑誌から利益を得る事ができず、僅かなお金でタイトルを手放す事になった。ビルダーは今日まで見事生き延びている。またしてもハンサムの歴史に残る大仕事は彼に利益をもたらさなかった。

「本当にこんなのばっかだな……。まぁ、腐っても仕方あるまい!」

 気合いを入れるとハンサムは仕事に打ち込んだ。何せまだ40歳。体力と経験と才能がバランスを取る働き盛り。次の四半世紀をハンサムは建設に費やし、イギリス全土、南アメリカ、オーストラリアに彼の手になる建物が次々と建つ。

 彼の最後の大仕事は辛い時にも共にいてくれた奥さんと金婚式を挙げ、引退してから3年後、79歳で家族に囲まれて大往生を遂げた事だった。しかし実は成し遂げようとして、果たせなかった大仕事が一つだけある。

「建築大学を作り、この手で教鞭を執りたかった。ああ、バーミンガムの市庁舎、街を行き来するキャブ、ビルダー……。どれか一つでも私に利益を齎してくれていたら」

 とは言え、ハンサムの事だから、もし成し遂げていたとしても、きっと経営破綻か何かの不運で放り出されてしまった事でしょう。

 幸運の女神にはあまり愛されなかったかもしれないけれど、天才建築家は後世に数多の模範を残し、そして彼が残したキャブは今日でもビクトリア朝の生活の重要な象徴として記憶されている。


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