1944年のクロスワードパニック
1913年にアメリカで誕生したクロスワードパズルは新聞紙の常連となり、1920年代には爆発的な流行を獲得した。余りの流行の加熱ぶりと、愛好者の中毒ぶりからクロスワードパズルは非道徳的だと思われ、そんなものしてる時間があればちゃんとした本を読んだり、隣人と会話したり、労働に精を出せとモラルパニックが懸念される。何だか何処かで聞いた話で、いつの時代も時間を奪う物と言うのは槍玉にあがりがち。
そんなクロスワードパズルが大騒動を起こした事がある。
第二次大戦中、戦況が気になって新聞、特に日刊紙はよく売れたけど、クロスワードパズルも相変わらず人気で、ちょっとした暇潰しや、防空壕に避難している間や、列車待ちの時間に子供から大人まで挑戦していた。当時全ての新聞紙にクロスワードパズルが掲載されていたと言うから、ほんの20年前に不道徳だと叩かれていた頃と比べると随分と定着したもんね。
さて1944年、連合軍はドイツに対する反攻作戦の狼煙を挙げる事を決定し、最大級の陸海空戦力を北フランス、ノルマンディーにぶつけようとしていた。 作戦名『オーバーロード』 ノルマンディーの海岸にはアメリカの地名にあやかって、『ユタ』、『オマハ』、『ジュノー』などコードネームが付けられる。
上陸支援を果たす海軍部隊は『ネプチューン』。そして切り札となる組み立て式の移動港は『マルベリー』と名付けられ、これら全てには最大級のプロテクトが掛けられた。反攻作戦の時期が迫っていることは誰の目にも明らかだったけど、それをドイツに掴まれれば、上陸部隊は苦戦することになる。宴席で作戦が開始される場所や日取りについて個人的な予想を口にしたアメリカ人少将は降格の上、帰国を命じられた。
作戦準備が整い、その日を待つイギリス軍。そんなある日のこと。
防諜機関、MI5に所属する職員の1人は何気なく日刊紙をパラ読みしながらクロスワードパズルを解いていた。
「ヒント、アメリカの地名のひとつ? Oから始まるな……。オ・マ・ハ……。マイナーなところ持ってくるな……」
暇そうにクロスワードパズルを解く職員だけど、次のワードを解いた時、少し表情が変わった。
「次は……ユタか。どっちも上陸地点のコードネームだな。……いかんいかん、職業病だ……。こんなもん偶然に決まってるだろ」
職員は馬鹿馬鹿しいと思って日刊紙を読み捨てた。ところがまた別の日のクロスワードパズルを解いていた時、彼の背筋に冷たいものが走る。
「お、オーバーロード……!?」
まさかと思って他の列も解いてみると、次々と見覚えのある言葉が浮かび上がった。
「ネプチューン、ジュノー、マルベリー!? 全部作戦に関連する極秘のコードネームじゃないか! 作戦が漏れてる!?」
職員は慌てて上司に報告し、MI5にアラートが鳴った。
「一般的な言葉だからと無視されていましたが、数ヶ月前のクロスワードパズルにも『ゴールド』や『ソード』が! 思い返せば二年前、ディエップ上陸作戦の前にも同じように『ディエップ』が同じくクロスワードパズルに!」
1942年8月18日、極秘の作戦だったディエップ上陸作戦の前日にデイリー・テレグラフは『フランスの港」と言うヒントでディエップをクロスワードパズルの回答に載せており、その時もMI5にアラームが鳴って徹底的な取り調べが為されたものの、結局は単なる偶然で片付けられていた。しかしこうも立て続けでは最早偶然では済ませられない。何せ同じデイリー・テレグラフから機密の筈のワードが出ているのだから。
「緊急事態! ドイツのスパイがクロスワードパズルを使って作戦を漏らしている可能性あり!」
直ちに職員2人がクロスワードパズルの出題者の元に派遣された。出題者はレナード・ドー氏と言うサリー地方のエフィンガムのグラマースクール(中学校に相当)に勤める54歳の真面目な校長で、厳格で高潔と周囲からは評価されており、スパイとは無縁に見えたけど、かなりの危機感を持つ職員達は質問攻めにする。ドー氏は訳が分からず混乱した。
「なぜその言葉を使ってはならないのですか?」
そう問われたら何も返せない。いやぁその言葉は極秘のコードネームでしてとは言える訳がない。
「……使ってはならない訳ではありません。しかし、どのような意図で使ったのですか!?」
「意図も何も…… ただのクロスワードパズルですよ!?」
戦時中なので疑わしきは罰せよとばかり、ドー氏は同じくデイリー・テレグラフのクロスワードパズルの出題者であるメルビル・ジョーンズと共に問答無用で逮捕され、長時間尋問される事になった。ドー氏は自分が使った言葉がどうやら意図せず軍の機密に触れていた事をなんとなく察し、MI5の職員達も納得はいかないものの結局スパイをしていた如何なる証拠も見つからず、どうやら本当に偶然らしいと認めるしかなくなる。悪評が立ったために職を失ったものの、ドー氏は無実という事で放免された。
しかしドー氏は納得できなかった。本当に偶然なのか。
彼はクロスワードパズルのワードを考える時、クラスの子供から知恵を借りる事がある。そして件のワードはどれも同じ子供、ロナルド・フレンチ少年から提供されたものだった。
ドー氏は密かにフレンチ少年を呼び出し、尋ねた。
「ウチの近所のアメリカ軍の人がヒソヒソ話してたんだよ。聞き慣れない言葉だからノートに書いてたんだ」
ドー氏は天を仰いだ。子供の前とはいえ、軍の不始末じゃないか。
「そのノートは燃やしなさい。それから、この事は誰にも言わない事。聖書に誓いなさい」
こうしてオーバーロード作戦はクロスワードパズルが発端であわや頓挫するところだったのが実行に移された。この件は公式では偶然の一致だと長い間信じられ、半ば忘れられていたものの、1984年、ノルマンディー上陸作戦から40年が迫る中、俄かに思い出される。
「そう言えば一昨年のフォークランド戦争の時にも、もしかしたら機密のワードがクロスワードパズルに載ってたりして?」
奇妙な偶然は続く物だと言うオカルトな信念からクロスワードパニックは再度話題になる。すっかり大人になっていたフレンチはもうそろそろいいだろうと種明かしをした。
「あれは自分が挿入したんです。ドー先生には迷惑をかけました……。でも多分あの頃、エフィンガムに住んでた子供達は大体、あのコードネームを知ってた筈ですよ」
人の口に戸板は立てられぬ。最大級のプロテクトをしても、運用してるのは結局、人間だからね。
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