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イギリスとかつら。流行と終焉

 かつら或いはウィッグは古代から絶えずあり、メアリー一世やエリザベス一世などテューダー朝の女王達も豪華なウィッグを幾つも持っていたけども、イギリスで本格的に流行したのはステュアート朝のチャールズ2世からだった。

チャールズ2世。豊かな黒髪はかつら。美男子のチャールズ2世は当時の流行に大きな影響があった。

 清教徒革命の最中、イギリスから追放されていたチャールズ2世はフランスに亡命しており、フランスの文化や流行に影響を受ける。かつらもその一つだった。フランスでは若禿を気にしていたルイ13世以降かつらが流行しており、満足に髪を洗う事が出来ない時代であるがゆえ、シラミの発生を予防するために寧ろ自毛は短く刈り上げ、帽子のように凝ったデザインのかつらを被るのが合理的でお洒落と思われていた。

チャールズ二世の同時代人、ルイ十四世は若い頃は自毛で通したものの、やがて抜け毛に悩まされるとかつらを着用するようになった。当時薄毛は梅毒と結び付けられており、数多の愛人を抱えたチャールズ二世とルイ十四世は身に覚えが山ほどあるだけに、抜け毛や髪の脱色に敏感にならざるを得なかった。

 こうしてイギリスの上流階級でかつらが流行する。豪奢なかつらは富の象徴であり、貴族達はかつらで伊達を競った。英語で『大物』の事をbig wigと言うけど、これは正にかつらにいわれがあり、かつら一つに800シリング(130万円)以上を費やす洒落者に由来する。

 17世紀から18世紀にかけてのイギリスの主要な人物の殆どが豊かな長髪をしているけど、やがて長髪ブームは衰退する。長髪かつらは重く、暑く、また蒸れて不便だった。事情はフランスでも同じで、男性用かつらは機能性を重視して小型化する。またヘアカラーの流行も黒やブロンドから白に変化し、側面をカールさせるのが流行した。また中国の弁髪に影響を受けたおさげ髪のかつらも登場し、こちらは軍隊でよく使われる。

イギリスではラミリーズヘア(ラミイの戦いに由来)と呼ばれた弁髪は軍隊行動の邪魔にならない事から19世紀始めまで各国軍で流行した。

 一方でフランスの女性用かつらは巨大化の一途を辿り、かつらに色とりどりの花をあしらったり、それらを枯らさぬよう花瓶を仕込んだり、戦艦をかつらに乗せたりと奇抜化するも、イギリスではこうした巨大な女性用かつらが流行る事はなかった。

海戦の勝利を記念してかつらに戦艦を乗せる女性の衣装。

 かつらは大陸ではフォーマルなファッションとして上流階級は勿論、彼らに仕える商人や音楽家の間でも普及したものの、18世紀に入ると徐々にイギリスとその影響下の植民地では退潮する。アメリカ黎明期の大統領達はかつらを着用したものの、初代となるワシントン自身は自毛でかつら風に髪をカールさせた。小型化したかつらですら重たくて暑くて虫が湧いているというのが理由で、見栄えより実用重視な人達にかつらは徐々に嫌われ出す。また高価である事も嫌厭され、こんなものにお金をかけるのは非道徳的であるとも見做された。

 1760年にジョージ三世が即位すると、その戴冠式に精緻を凝らした芸術品のようなかつらを被った廷臣たちが出席するも、庶民目線では最早それらは感銘を覚えるどころか無駄な出費と肥大化した自我の発露に思え、寧ろ揶揄の対象となる。

風刺画家ホガースの『5つの男性用かつらのオーダー』。儀式用とは言え複雑極まるかつらはこの頃にはお洒落とは全く見做されていなかった。

 当のジョージ三世自身も真面目で倹約を旨としたのでかつらに未練などなく、即位したその年にかつらをかぶる事を放棄して自毛をパウダーで白く染めるだけに留めた。危機感を覚えたかつら業者は国王にフォーマルな場ではかつらを被る事を義務付ける法律を定めるよう請願したものの、取り合われず、イギリスにおいてかつらの流行は終わる。ただしこの頃までに白いヘアカラーでカールしたかつらは権威性を帯びており、法曹関係者や使用人、或いは御者に前時代的な制服と共に需要があり、現代まで命脈を保っている。

イギリスの法曹関係者はかつらが制服の一部で、なかなか馬鹿にならない出費である事から廃止の声もあるものの、依然として使われ続けている。

 こうしてイギリスにおけるかつらは流行のメインストリームから脱落するも、1760年代から70年代半ばにかけて若い貴族や地主の間で『マカロニ』と呼ばれる奇妙な流行が始まり、寧ろ大きな需要が生じる。

『息子トムよ、それは何なのだ』

 文化後進国を自認するイギリスは17世紀以来各家庭が家庭教師(『リヴァイアサン』のホッブズや、経済学の父アダム・スミスも随伴した事がある)をつけて子弟を大陸に送り、フランスからイタリアへ、そしてローマへと旅するグランド・ツアーをまるで遣唐使のようにやっていた。この旅行は場合によっては数年がかりにも及ぶ大規模なもので、当然、多額の費用をかけて派遣された若者達は大陸の文化の真奥を学び、母国にそれを齎す事を期待されたものの、殆どは女遊びに精を出したり、大陸流行のファッションを追いかけるのみで、やがて帰国するとグランド・ツアー帰りである事を強調するため、誇張された大陸のファッションを構築し始めた。

 当時イギリスではほぼ知られていなかったイタリアの食べ物であるマカロニに由来して、彼らはマカロニと呼ばれる。女物かと思うようなベルベットとシルクで出来た繊細な生地に、袖元にはレース、体型を強調するタイトなタイツと半ズボン、首元には大粒の宝石がずらりと並ぶ。最も特徴的なのはうず高く盛られた巨大なかつらと、その上にちょこんと載るニヴェルノワと呼ばれる小さな帽子で、これまでのどんなファッションとも異なるそれは世間からの顰蹙を大いに買った。

1770年頃にはフランスの影響を受けつつも一般的なジェントルマンのスタイルはやや地味なものに変化しつつあり、マカロニはそれに対する反発でもあった。

 マカロニ達は容易には真似できないよう、高価で手のかかった仕立ての服を発注し、個性を服装で誇示してインナーサークルで集まって伊達を競う。しかし1775年からアメリカ独立戦争が始まるとイギリスは戦費に難渋し、質素倹約が叫ばれる中、このような過剰なファッションは世間的非難に晒される。今で言う不良、ツッパリ、ワルが中核だったマカロニは素行も悪く、1773年にボクスホールガーデンを散策中の女性に不躾に絡んだマカロニが、女性に付き添っていた紳士に注意を受けた事をきっかけに決闘騒ぎとなり、最終的にボクシングでボコボコにされた事は世間的には愉快なニュースとして受け入れられた。マカロニはダサいと思われるようになり、やがてその過剰さへの反発としてボー・ブランメルらダンディーがシックで落ち着いた着こなしの中に個性を表現する術を提示すると、マカロニは一掃される。ダンディーはかつらを被るどころか髪を白く染めるためのヘアパウダーを使う事もなく、自毛のままで通したのでかつら産業は大打撃を受けた。

ブランメルは戦費調達のためのヘアパウダー課税前から髪を白く染める事なく、独自のスタイルで周囲を魅了した。

 やがて1795年、ウィリアム・ピット首相がヘアパウダー法を可決し、髪を白く染める者に課税し始めると、かつらは愚か、髪染めもほぼ消滅した。当時流行の中心だったジョージ皇太子はブランメルに倣って自毛で通し、かつらもヘアパウダーも使用者の減少に拍車がかかる。同時期にフランスで革命があり、かつらを被っていたフランス貴族達が次々と首を刎ねられた事もかつらを放棄させる一因だった。かつらやヘアパウダーは、無駄な奢侈贅沢や虚栄の象徴になり、流行から完全から脱落する。1865年にヘアパウダー法が廃止されたものの、法曹関係者を除いて誰も喜ぶ事はなかった。

 17世紀から18世紀まで隆盛を極め、優雅な貴族文化の象徴のようにカールした白いかつらは今もイメージされる。今では一見してすぐかつらと分かるような優雅なスタイルのかつらは舞台衣装か、儀礼的なものでしかない。とは言え流行とは繰り返すもの。いつかまた、大きな転換点があって、ファッションとしてのかつらも復活するかもね。


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