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攻め/受け、タチ/ネコ、男/女、BDSMの関係

はじめに

本稿では、BL等で用いられる「攻め」と「受け」という概念を「タチ/ネコ」「男/女」「BDSM」という概念との関係において考察する。


Image by Aimee Valentine from Pixabay

「タチ/ネコ」と攻受

はじめに断っておくことは、ここにおける「攻め/受け」は、いわゆる「タチ/ネコ」とは異なるということである。なお、ネコは「ウケ」と呼ばれることも多いが、「ウケ」と表記するとここで扱いたい「受け」概念とまぎらわしいので、「ネコ」と表記する。

本稿での「タチ/ネコ」の定義は、大ざっぱであるが、「挿入する方/挿入される方」だと定める。たとえば、バニラはタチでもネコでもない。また、あくまで本稿の定義では、たとえば双方が身体的に女性であるレズビアンにも「タチ/ネコ」概念は適用されない。これは「タチ/ネコ」という用語圏からある人たちを排斥するような差別的言説であると思われるかもしれない。しかし、あくまでこれは本稿の定義における「タチ/ネコ」であるから、日常言語としてはどんな意味で「タチ/ネコ」を使ってもかまわない。むしろ日常言語における「タチ/ネコ」概念の意味の「豊かさ」をあえて分解し、そのカケラの中から私の定義における「意味の貧しいタチ/ネコ」という新概念をある種でっち上げたわけである。

さて、少なくとも本稿が用いる概念としての「攻め/受け」とは、たんなる2つの肉体の空間的位置としての「タチ/ネコ」ではなく、いわば「心理的」な特性である。表現が難しいが、たとえば「攻めている一方」「主導している一方」「かわいがっている一方」が攻めであり、他方が受けである。もちろんこの心理学的な特性も、行動主義的には、振る舞いに還元することができる。

「攻め/受け」概念と「タチ/ネコ」概念は互いに独立であるから、挿入される側が攻めであってもよいし、挿入する側が受けであってもよい。ただし、前段落と同様に、この「攻め/受け」概念もたんなる本稿の中でのみ通用する貧しい概念であるのであって、日常言語における「タチ/ネコ」と「攻め/受け」は多くの意味を含んで重複しうる豊かな概念である。

男女と攻受

『日本国語大辞典』で「たち」を引くと、「女性どうしの同性愛で、男性の役をする人。」という語義が出てくる。用例として引用された1976年においてどうだったのかは知らないが、現代においてはなんだか変な解説ではなかろうか。そもそも「女性どうしの同性愛」なのに「男性の役」って必要なのだろうか。レズビアンが男装したりゲイが女装することもあるとしても、それは「役」ではなかろう。もちろんロールプレイはあるかもしれないが、レズビアンのロールプレイでたまたま男性だった場合 (男性教師、男性医師 etc.) を1976年においては「たち」と呼んだのであろうか。

いずれにせよ、前節で述べたように、本稿の特殊用語としての「タチ/ネコ」は「挿入する方/挿入される方」を意味したのであった。ならば、典型的なシスヘテロカップルの性行為において、彼氏はタチであり、彼女はネコである。なお、典型的ではないシスヘテロカップルの性行為としては、彼女がペニスバンドをつける場合などが挙げられよう。「典型的なシスヘテロカップルの性行為」という主語概念が「彼氏がタチであり、彼女はネコである行為」という述語概念をあらかじめ含んでいるとするならば、これはアプリオリに真である分析判断であるといえる。この仕方においては、異性愛概念が同性愛概念によって基礎づけられる。

✻ まったくの余談であるが、昨日『ウィトゲンシュタイン・セレクション』(黒田亘編, 平凡社, 2000年) を読んで思ったものの1つの記事を立てるほどではない関連情報を書き留めておくと、カントの「アプリオリな分析判断」と形式論理学の「トートロジー」は混同してはならない。というのも、カントはアリストテレス的な名辞論理のパラダイム — 通約不可能かどうかはさておき — を生きていたのであるから、カントが「分析判断」と言ったときには「主語概念が述語概念を含む」という「名辞と名辞の関係」を念頭に置いていたはずである。他方、現代論理学におけるトートロジーとは恒真式というたんなる形式に過ぎない。フレーゲの革命の意義とは【名辞論理から命題論理・述語論理へ】【論理学の最小単位を名辞から命題へ】という転換を果たしたところにあった (野家啓一『科学哲学への招待』筑摩書房, 2015年, 145-6頁) 。よく「PかつQ」の例として「ギリシア人かつ哲学者」などのようにPとQに単語を入れてしまう人がいるが、これは誤りであろう。PとQは原子式であり、原子式は命題であり、命題とは真偽のある文であるが、「ギリシア人」や「哲学者」はそもそも文ではないから。論理式のたんなる形式におけるトートロジー (たとえば排中律や無矛盾律や同一律や二重否定律) はアプリオリではあるが、分析判断、すなわち何かある主語概念に含まれる述語概念から導出できる事柄であろうか。まだ証明はできないが、私の予想では、アプリオリな総合判断である気がする。

男女とタチ/ネコの関係は以上の通りであるが、男女と攻受の関係はどうであろうか。もちろん男や女をどう定義するかにもよるが、一般的には相互に独立と言ってよいと思われる。

たとえば「おねショタ」と「ショタおね」の違いを考えてみよ。仮に双方ともに「ショタ」がタチで「おね」がネコだとしても、主導権や態度等の「心理学的」な違いにおいては反対である。すなわち、おねショタにおいてはおねが攻め、ショタが受けであり、ショタおねにおいてはショタが攻め、おねが受けである。

また、そもそもBLにおいて攻受があるのであるから、性別が同一であっても攻受が異なることはふつうにありえる。

こうして見れば、男女概念と攻受概念は独立であることは一目瞭然である。ついでに言えば、「男らしくて頼りになる感じ」などはどちらかと言えば男概念よりも攻め概念において語られる評価であろう。攻め概念を捨象したあとで残存する男概念としては — もちろんこれも日常言語というよりここでの私の用語法においてであるが — おそらく「肉体的な形質」ではなかろうか。事実、たとえば「中性的な見た目だがドS」みたいな言い方においては、男概念の特徴はあまりないが攻め概念の特徴は甚だしい人間を指すというのはわかりやすい事例であると思われる。

男女の恋愛においても、男女とは別に「攻め/受け/その他」という差異が可能であることになる。これは、今から述べるように日本語の「S/M」と同義ではない。

BDSMと攻受

2つ前の段落で「ドS」という語を用いたが、精確を期すならばBDSMの語彙と攻受概念の関係についても明確にせねばならない。

まずBDSMについて解説する。ソースは英語版Wikipediaであるが、BDSMとは「bondage/discipline」「domination/submission」「sadomasochism」の頭文字かばん語である。日本の日本語では「SMプレイ」や、先ほどのように「ドS/ドM」などの言い方をするが、BDSMの用語体系の中では「sadism/masochism」(S/M) は苦痛や恥辱を与える/受けること (嗜虐/被虐) に焦点を当てており、「domination/submission」(D/s) は心理的な支配/服従に焦点を当てている。Bondageは緊縛、Disciplineは躾。行為の主体者をtop、受動者をbottomと呼ぶらしい。たとえば心理的服従は伴わず気晴らしで鞭に打たれる場合や (bottomかつ非sub)、ロールプレイで奴隷役がマッサージを命じられた場合 (subかつtop) という例がWikipediaにある。今日思いついたBDSM類内の種差として「理不尽/お仕置き」というものがあったのだが、これはそれぞれ大まかにbondageとdisciplineに対応しているように見える。

さて、本題に戻ると、すでにお察しであろうが、S/M、D/s、top/bottomと、攻め/受けの概念は似ている。一般的に見て攻/受概念の外延が一番広いと思われる。

top/bottomの場合、音楽と類比的に語るならばMotivとThemaの差異があろう。つまり、top/bottomとは能動/受動の関係であったが、瞬間的にどちらが主体的に行為を担っているかを見る場合にはMotivとしてのtop/bottomであり、Spiel全体を貫いてどちらが主体的であるかがThemaとしてのtop/bottomである。

S/Mは苦痛に着目したものであり、D/sは支配/服従に着目したものであるとすると、「攻め」に含まれるある性質を抽出して強くしたものがそれぞれSとDであり、同様に受けのある性質を抽出濃縮したものがMとsであるといえると思われる。

S/Mを応用的にとらえれば、苦痛だけではなく「くすぐり」や「冗談」や「気づかい」も、topがbottomになんからの感覚や情動を与えるという点で同一線上にとらえられる。D/sも「あーんして」と甘えることも広義では「支配に服従させること」に含まれるのではなかろうか。また、Bondageとしては抱きしめることも緊縛・拘束の一種である。

BDSMについての考察はこれで以上とする。そもそもBDSMじたいB/D、D/s、S/Mという3語の複合語であるし、さらにB/DはD/sとS/Mとは違い対になっていないという不規則性があり、Sadomasochismも単純にSadismとMasochismに分けられるのかという問題があるため、BDSM概念を前提とした分析はやや難しいからである。

おわりに

この記事では「攻め/受け」を「心理的」なものとして扱い、生物学的体位としての「タチ/ネコ」と区別した。次に、ジェンダーとしての男/女と攻め/受けが独立の概念であることを明らかにした。最後にBDSMにおける用語体系と比較する方向性を示した。

当然のことながら、本稿で扱った内容を推奨しているわけではない。私がここで何かを推奨しているとしたら、それは道徳を推奨している。たとえ悪についての研究であっても、なんらか善に役立つことはありうるはずである。どうかこの記事が道徳のために役立つことを願っている。

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