哲学的断片集1 第2版: 「功利主義と時間論」「場の徳」ほか
第1版の『かわいいことはなぜ悪なのか』を『性と道徳 (仮)』に移動し, あいた箇所に別の断片を挿入する.
参考文献等が集まったら続きを加筆してそれぞれ1本の記事にしたい.
ひろゆき等の詭弁全反駁
「それってあなたの感想ですよね?」ってあなたの感想ですよね.
「なんかそういうデータあるんですか」という質問に答える義務を導くデータはあるんですか?
「他人に考えを押し付けてはならない」という考えを押し付けないでください.
「過去を現代の価値観で裁いてはならない」という現代の価値観で私を裁かないでください.
「それは何の役に立つのか」という質問は何の役に立つんですか?
むしろ私がソフィストみたいですね.
功利主義と時間論
教科書的には功利主義は「帰結のみ」を考慮するらしいが, それは不可能なのでは? 帰結は行為よりも時間において後に生まれる. つまり, 行為する前と行為している最中にはまだ帰結は存在していない. 帰結が存在しないときに帰結のみを考えることはできない.
なぜ悪いことをした後に善いことをすると「更生した」と褒められ, 善いことをした後に悪いことをすると「グレた」とけなされるのか?
1人の人間における功利計算における時間. 功利主義は「帰結のみ」を考慮するという. 結果を得るために何かを行うなら, その成果が帰結であろう. しかし, そうすると, 楽に成果を得る場合と苦労して成果を得る場合で帰結が等しくなり, どちらも功利計算上同じことになる.
いや, 前提が間違っており, 行為の中で生まれる苦楽も功利計算に含めるべきだったのであろうか? しかしそうすると, 帰結だけではなく行為そのものも功利計算に必要になってしまう.
いやしかしその場合も功利計算に入るのは「行為そのもの」ではなく「行為そのものに由来する苦楽」である.
功利計算は総和になるが, 時間的範囲を決めるのが大変ではないか?
場の徳 (ἡ τῆς χώρας ἀρετή)
『法律』におけるPlatōnの飲酒論は間違っている. 酒を飲むと人の真の姿が明らかになると考える必要はない. 酒のある状況とない状況で「場の徳」が異なると考えればよい.
ある1人の人物の行動は, おおまかに, 性格と状況の2要因が決定する. 徳とは性格の卓越性である. では状況の卓越性は?
私はここに場の徳 (ἡ τῆς χώρας ἀρετή) という概念を導入する.
たとえば, ある人間が集中して勉強するとき, その要因を性格と状況に分類するとしよう. 性格という側面は, たとえば「集中力」という卓越性が勉強の要因であると考えられる. しかし, 同じ1人の人間が, 誘惑の多い自宅では勉強がはかどらず, 自習室では集中して勉強できるという事例もしばしばある. この場合, 自習室という環境が人を集中させる徳を持っているのである.
「場の徳」という概念の意義は何か? 徳倫理学における徳の概念の利便性・有用性を高めることである. たしかに, たとえば教育で犯罪を防ぐ場合など, 性格を変えることで行為を善くすることもできる. それはもちろん重要なことであるが, 他方で, 警察官の人数を増やすなど, 状況を変えることによっても人々の行為を善くすることができる.
藤沢令夫の著作を参照したいのだが入手やや困難. 『性格とはなんだったのか』(渡邊 芳之, 新曜社, 2010年) も参照したい.
(2023-04-10 追記) しかし場に徳を認める立場は徳倫理学そのものを瓦解させうる. というのも, そもそも徳とは倫理的結果の原因を個人に帰属させるための道具であるから. 場の徳を認める立場とは, 比喩を用いるなら, 十字架に掛けられたキリストではなくゴルゴタの丘に徳を認めるようなものである.
親父の怒りは地震や雷や火事と同じく自然災害である
なぜ人が人を殺したら裁判になるのに地震が人を殺しても裁判にならないのか?
熊沢英昭が熊沢英一郎を殺したのも自然災害である. というのも, もし殺意が脳神経の特定の状態に過ぎないなら, それは雷という物理現象によって被災するのと何も変わらないから.
親を含めて他者など所詮物質に過ぎない.
悪事をなそうと意志するが善悪の基準を知らないため誤ってすべて善行になってしまった人は悪人なのか善人なのか?
義務論なら悪人だろう.
帰結主義に依拠する場合「善い帰結がある」とまでは言えるだろうが, 「善人」という概念が通用するのかはわからない.
運動が停止しても時間が流れるのはなぜか
記憶が更新されるから.
時点t1と時点t2においてすべての物理的運動が静止していた場合, t1とt2を記憶によって比較できなければ「静止していた」と理解することができない.
もし記憶の更新を運動に含めるならば記憶更新を含めて運動が停止したとき時間が動いていると言えるかは難しい.
聴き手のいない言語は可能か
言語行為論などでは発話の本質を相手とのコミュニケーションに置く傾向があると思うが, たとえば発話はしないネコですら「あ, おいしそう」とか「楽しい」とか「冷たい」とか「机の上に別のネコがいる」という「気持ち」, 事実上の独り言を言うことは可能なのでは?
というのも, 西洋哲学では伝統的に認識には言語が深く関わるとされてきたのであるから, 声を出して会話をしない動物でも, 仮に外界認識を行っていると仮定するなら (そしてそれは行動の観察からして非常にもっともらしい), 内語を持っていると考えることができるのではないか. 「机の上にリンゴがある」とか, たしかに何かを認識したならそれを言語的形式で表せるはずである.
つまり私の言いたいことは, 前期 Wittgenstein 的に「言語は世界の像である」としたら音声という質量でできていなくともいい, 「言語は絵でもいい」ということなのであるとしたら, 反対に考えればたとえばネコが猫じゃらしを認識しているときそれは外界を必然的に言語的構造においても把握しているといえるのではないかという仮説である.
言語行為論は発話を扱っているが, ここで忘れてはならないことは, 発話と言語は独立に扱うことが可能であるという点である. Ferdinand de Saussure の用語を使うならば言語は langue に対応し, 発話は parole に対応する.
2023-03-18 : 第1版
2023-04-10 : 第2版
2023-08-01 : 今日の一曲を追加
今日の一曲: ちゃんみな「I’m a Pop」
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