哲学における私の問題意識
1 もう倫理学の « り » の字も見たくない
1.1 倫理学の謎が解決したから
1.1.1 倫理的善は存在しない.
1.1.2 第1に倫理的に正しい道徳像がまったくわからないという問題があり, 第2に倫理的に正しい道徳像に従わなければいけない理由も (仮言命法を除いて) まったくわからないという問題がある.
1.1.3 大多数の人々, あるいは人類全員ですらいいが, « 人々が道徳をこう考えている » という主張は単なる事実に過ぎない. « その倫理観に従わなければこうなる » という予測も単なる事実に過ぎない.
1.1.4 事実から価値は導けない.
1.1.5 « なぜこれは善いのか » という問いに答える術 (すべ) を知らないから. « これはあれにとって善い » と答えることはできるが, « なぜあれは善いのか » と無限後退に陥る.
1.1.6 幸福は最高善ではない. « 幸福になるべきか » と問うことができるので, « 幸福になるのは善くないのではないか » と問うことができ, « 幸福が善ではない (こともありうる) » という表現は矛盾ではなくなる.
1.1.7 たとえば « そんなこと倫理的に許されない » と言われたとして, 倫理的に許されなかったらどうなるのであろうか ? « こうなる » というと説明されても, なぜそうなってはいけないのかがわからないし, もしわかったとしても, « こうなりたくないなら倫理に従う » というのは仮言命法である.
1.1.8 価値は語り得ない.
1.1.9 « 道徳的に生きるべき » という文を否定することはできるであろうか ? なるほど « 義務を守る義務 » は一見絶対的に思われる. その上, « それでもなお, 義務を破ってでも為すべきことがあるのではないか » という問いは « それとて高次の義務に従った決断なのだ » と反論できる. しかし, それでは, どの義務を守るべきなのか ? 格率が普遍的かわからない例なんて枚挙に暇がない. さらに, « 普遍化できない格率も道徳的なのだ » と語る余地は残されているであろう (たとえば宗教原理主義など). とはいえ, それはあくまで道徳という語が多義的であることに由来するだけであって, 啓典や戒律や慣習法等の道徳は本来的意味における道徳とは異なるのだ, と言い返すことができるかもしれない. けれども, ならば, なぜ道徳という語の諸々の用法の中でたとえばカント的義務論だけが優越するのかという根拠がわからない. 別に義務論に限らず, たとえば功利主義なんかもっと苦しくて, « 最大多数の最大幸福を実現すべき » という神聖な法則を導入するためには功利主義の外から定言的な根拠を持ち込まざるを得ないと思われる.
1.1.10 応用倫理学が, ある事例における倫理的に正しい行為について研究する学問であるとしたら, それって不可能なのではないか ? なぜなら, せいぜい « これこれの格率に合致する行為はこれである » としか言えないのではないかとの疑惑, いや, むしろ確信があるから.
1.2 倫理学の真理が語りづらいから
1.2.1 道徳が実在しないなんてことを実名で学術誌で発表したら炎上しそうだし, 倫理的善の不在を主張する研究者を雇いたい大学なんて存在しないと思うから.
1.2.2 メタ倫理をやるためには今更分析哲学とメタ倫理学史の勉強をしないといけないであろうし, 所詮メタ倫理をしたところで « それは倫理的直観に反する » などと言われてはやってけないから.
1.2.3 倫理学者から « でもそんなこと言ってどうするんですか ? » « 現実の問題の解決に資するんですか ? » などと批判されるのがもう目に浮かぶから.
2 哲学を辞めるという選択肢
2.1 就職する
2.1.1 とにかく倫理学が嫌いだから.
2.1.2 倫理学に限らずこのままこの学問を続けていても, 誰にも価値を認めてもらえないとしたらやる気がなくなるから. 特に家族など近親者から高学歴ニート扱いされるのが嫌だから.
2.1.3 道徳が最高の価値であると仮定したとき, 哲学において価値ある研究は倫理学しかないが, 倫理学を研究したくないから.
2.1.4 哲学は自分の役にしか立たないが, 労働は自分以外の人の役にも立つから.
2.1.5 研究の社会的意義が説明しづらいから.
2.1.6 経済的に苦しいから.
2.2 なぜ哲学系研究者になりたかったのか
2.2.1 コロナ禍を受けて, « 所詮この世って諸行無常か » と感じ, 永遠的真理を知りたいと思ったので, 哲学に興味を持った. 元々歴史学のゼミに入ってナショナリズムの研究をしようと思っていたが, nation も諸行無常か, と感じた.
2.2.2 幼稚園がキリスト教 (プロテスタント) だったので, 小学生のころ青木雄二の本を読んで, 無神論の衝撃を受けた. 唯物論と観念論どちらが正しいのかずっと考えていた. また, 中学生の頃, ある現象学系の人の本を読み, « 在るから見えるのではなく見えるから在るのか ! » と驚愕した. そういう経験が哲学へ接近するきっかけだったのかもしれない.
2.2.3 加えて, 私は研究者という職業に憧れていた. 研究者はインターネットなどで結構実名で自由に様々な発言ができて, 場合によっては人気者になれるのが羨ましかった.
2.2.4 もっと上手く行けば歴史に名を残せるかもしれないという点でも研究者が羨ましかった. Eleanor Rigby になりたくなかった.
2.2.5 それに, 研究者には専門性という権威があるのも羨ましい. 第1に自分は何者かという identity になるし, 第2に少なくともその専門領域においては一般人を凌駕する知性を発揮できるから.
2.2.6 企業の中で働ける気がしなかった. 昔から集団行動が大嫌いだったから.
2.2.7 小学生のころ, 学校の壁に福沢諭吉の « 学問のすゝめ » の冒頭が飾ってあった. 私はキリスト教 (プロテスタント) の幼稚園に通っていて, それまで人間って全員平等だと思っていたのに, そこには頭脳労働者が尊くて肉体労働者が卑しいと書いてあったので驚いた. しかし, 私はこれを読んだためにある種ニーチェ主義的になり, 勉強をすればこの世の支配階級に就くことができるのだと思い, 頑張って勉強した. 成績さえ良ければ良い仕事に就けると信じていたのに, 裏切られた.
2.2.8 高校教師も偏差値の高い大学に行けば人生の選択肢が増えると言っていたが, 今の私はまったく人生に希望が持てていない. もちろん全体的傾向としては正しいのかもしれないが, 私の人生は1つしかないから困る. 仮に家庭教師などになったとして, 教え子に勉強のやる気を出させようとしたとき, « でも先生勉強して有名大学に入ったのに就活失敗して研究の価値も認められず人生に絶望してるじゃん » と言われたらどうすれば良いのか. 教師という職業にとって大事なのは意外にも, 人生に成功したとの実感ということか.
2.2.9 実践的生において幸福はほとんど運次第だということがわかったし, 観想的生においてはもう « 倫理学の謎 » という最大の課題は解消した. あとの私の人生は余生と言ってもよい.
3 修士論文どうするのか問題
3.1 倫理学を取り上げる案
3.1.1 この案の長所は, 現在の研究環境と適合していること.
3.1.2 この案の短所の第1は, 私が倫理学を嫌っており, 精神的苦痛が見込まれること.
3.1.3 この案の長所の第2は, 研究の社会的意義を説明しやすいこと.
3.2 倫理学を取り上げない案
3.2.1 この案の長所は精神的苦痛が少ないこと.
3.2.2 この案の短所の第1は, 現在の研究環境とあまり適合していないこと.
3.2.3 この案の短所の第2は, 研究の社会的意義を説明しにくいこと. 研究倫理の冊子にも研究の社会的意義を説明するように書いてあったし, 社会的意義のない研究は反倫理的なのであろう.
3.2.4 この案を採用する際, 倫理学以外の哲学の領域における私の問題意識を整理する必要がある.
4 本題 : 問題意識と研究主題
4.1 学問についての哲学
4.1.1 « 諸学はどのように分類できるか » という問題意識が良いと思われる.
4.1.2 様々な学問をどのように分類できるか ? 諸学の方法論をどのように分類できるか ? 諸学の対象をどのように分類できるか ?
4.2 « アリストテレスの科学観 »
4.2.1 « アリストテレスの科学観 » などはどうであろうか.
4.2.2 この主題は現在の研究環境にまあまあ適合している.
4.2.3 分析系などのガチの科学哲学は今更できない. そもそも最終的に日常言語における科学という語の用法を調べるという顛末になるならあまり面白そうに思えない.
4.2.4 もちろん哲学のキャリアを進むなら分析哲学の教養自体はどこかで身につけておく必要があると思う. 同様にカントも. しかし英米哲学研究者ではない人がせっかく一生懸命分析系の一次文献を読んでも結局は門外漢であるから論文などの成果にできないし, ドイツ哲学研究者ではない人が苦労してカントを読んでも結局カント学者ではないからカントで論文書けるわけがなく, 徒労感がある.
4.2.5 アリストテレスは万学の祖と称されるだけあって, 諸学の体系をどのように考えていたのかテクストから読み取れるのではないか ? なお, 日本西洋古典学会 によれば, アリストテレスを万学の祖と呼ぶことに関する確認可能な最初期の用例は
における
らしい.
4.2.6 なお, アリストテレスの科学観についての先行研究はまだ調べていない. というより, この « 4 本題 : 問題意識と研究主題 » は « 3.2 倫理学を取り上げない案 » を仮に前提としたらこうなるでしょうねという仮想であって, 修論で倫理学を取り上げないと断言したわけではない.
4.2.7 なぜ « 学問観 » ではなく « 科学観 » にしたのか. 理由の第1は, 学問より科学の方がウケが良さそうだということである. 理由の第2は, 学問観より科学観の方が一般的な日本語の単語であると思われることである. 理由の第3は, 日本では人文学も人文科学と呼ばれることがあるので, あるいはドイツ語では自然科学も人文学も Wissenschaft なので, いわゆる « 文系 » を含めた学問を包括的に科学と読んでも差し支えなかろうと考えたからである.
4.2.8 いや, しかし, 科学哲学の伝統があるから, 科学という語は慎重に使うべきかもしれない. « アリストテレスの学問観 » の方が適切かもしれない.
4.2.9 ノーベル賞の報道などを見るに, 科学 (自然科学) には社会的価値がある程度認められているのであろう. ならば, その科学の枠組み関連する研究は社会的意義の説明が比較的行いやすいと思われる.
4.3 理由 1 : 個性
4.3.1 やはり過去の既成の哲学問題集を解くだけの哲学はつまらなかろう.
4.3.2 自分で問題を世界から摘出して, これまで誰も考えてこなかった問題を勝手に考え始める哲学者に憧れる.
4.3.3 さらに, 同時代の哲学者の影響圏からもある程度脱したい. もちろん同時代の哲学者から哲学することを学ぶことは重要であるが, 元々の問題意識を見失ってしまうと, 結局思想史, 思想現代史を追っているだけになってしまう.
4.3.4 思想史は外的にも内的にも重要であるが, 思想史学者になる上でも独自の視点, 問題設定は求められるであろう. 思想史の外的重要性とは, 大学生に教養を教える際に役立つことである. 思想史の内的重要性とは, 自ら哲学する際, 先人の技法や着眼点を学ぶことが能力の陶冶に役立つということである.
4.4 理由 2 : 諸問題の結節点
4.4.1 学問分類論に関連する種々の問いは以下である.
4.4.2 私は « 哲学とは何か » という問題に関心がある.
4.4.3 私はすべてを知りたい. しかし, 私は何を知りうるか ? 知とは何か ? 絶対確実な知識はあるか ? 真理とは何か ?
4.4.4 « 科学と哲学はどう異なるか ?» « 科学に還元されない哲学は可能か ?» という問いを私はしばしば考える.
4.4.5 A priori な綜合判断はいかにして可能か ? A priori な綜合判断など果たして存在するのか ? 数学は綜合判断か ? 数学は a priori か ?
4.4.6 理由とは何か ? 原因とは何か ? それらの概念は諸々の学問でどのように扱われているか ?
4.4.7 小学生の頃ずっと考えていた唯物論と観念論の対立における本当の論点はどこにあったのか ? (2.2.2 参照) 存在とは何か ?
4.4.8 感情とは何か ? 知覚とは何か ? 諸学は « 心 » をどのように扱っているか ? なぜ事物には輪郭があるのか ?
4.4.9 価値とは何か ? 諸学は価値の問題をどのように扱っているか ?
4.4.10 歴史学とは何か ? 時間と運動の関係はいかなるものか ?
4.4.11 文系と理系という二分法は妥当か ? 人文科学, 社会科学, 自然科学という三分法は妥当か ? もちろん概念の境界は往々にして家族的類似性 (cf. Ludwig Wittgenstein『哲学探究』『青色本』) に過ぎないとしても, 諸学の眉毛や鼻や唇はどのように関連し合っているか ?
4.4.12 進歩とは何か ? 進歩はいかにして可能か ? 私には常々疑問なのだが, 永遠の経済成長はまだわかるとしても, なぜ科学は永遠の進歩がほぼ自明視されているのであろう ? 日光東照宮のどこかの建物は柱を1本逆さまに据えてあって, そのわけは完成したらあとは滅びるだけだから, と修学旅行のとき聞いた. « 甲が完成しているならば甲には進歩の余地がない » という命題の対偶は « 甲に進歩の余地があるならば甲は未完成である » になる. したがって, 科学が今なお進歩しているならば科学は未完成であるということになる. まさしくこの, « なんで科学ってまだ完成してないの ?» という問いが非常に気になっている. Homo Sapiens の歴史って20万年くらいあるらしいし, 先史時代や農耕以前の時代にも投擲具をはじめ技術の革新と進歩って緩やかだとしても確実にあったはずで, 新石器革命から1万年くらい経っているのに, どうしてまだ科学は終わってしまっていないのか ? どうしてまだ « すべてがわかった. もはや謎は残っていない » という段階に達していないのか ?
5 これまで人生を解釈してきたが, 人生を変えなければならない
5.1 修論で倫理学を主題とする場合
5.1.1 現在の研究環境に適合しており外的評価が得やすい.
5.1.2 倫理学が嫌で嫌で仕方ないので精神的苦痛が大きい.
5.1.3 ある程度何を取り上げられそうか目星はついているが, 構想を練ることすら苦痛が大きい.
5.1.4 なお, 5 はマルクスのパロディである.
5.2 修論で « アリストテレスの科学観 » を主題とする場合
5.2.1 現在の研究環境にあまり適合しておらず, 各所と調整が必要. 調整に精神的苦痛が伴いそう.
5.2.2 Aristotelēs はともかく, « アリストテレスの学問観 » という主題はこれまで深く触れていないので勉強が必要そう.
5.2.3 私は哲学というもの, あるいは学問というものが好きである. しかし, 哲学とは何か, 学知とは何かという問いへの答えを近頃見失いつつある. そこで, « アリストテレスの学問観 » を研究すれば, 私のこの個人的問題に, たとえ間接的だとしても, 役立ちそうである.
5.3 何を為すべきか
5.3.1 私は « 何をしたいか » ではなく « 何を為すべきか » を思料して行為すべきだと考えている.
5.3.2 というのも, 何をしたいかに従って行為すれば, 殺したい人は殺して良いことになってしまうから. また, 何をしたいかというのは傾向性で, 気分や脳の状態に左右されて当てにならないから.
5.3.3 幸福は運次第であるから. 偶然に左右される生など善き生ではないし, 偶然に左右される目的など最高善ではない.
5.3.4 何を為すべきかという基準は, どのような状況にあっても通用する.
5.3.5 為すべきことを為したとき, 後悔はない. したいことをしたとき, 未来の私の欲望と過去の私の欲望が一致しないとき, « ああしとけばよかった » と後悔することがあるが, 道徳法則が普遍的であると仮定したとき, 為すべきことを為して後悔することはあり得ない.
5.3.6 したいことをすることが善くない事態はあり得るが, 為すべきことを為すことが善くない事態はあり得ない.
5.3.7 倫理的善のみが価値を持つ.
2023-07-26 投稿
2023-08-06 誤植訂正
BGM: 神様、僕は気づいてしまった「Watch Dogs」
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