見出し画像

【創作】BL書簡【フィクション】

たまたま見つけたペルシア人の手紙に書いてあった思想. 以下はその怪文書の転載. なぜか7500字ある.

BL高齢化問題?

なんとなく感じたけど最近のBL界って俳優モノ流行ってる? 昔からこんな俳優キャラばっかだったっけ? それとBL登場人物の平均年齢ももしかして上がりつつない? BはBでも中高が減って学生社会人増えてない? Porn界のmilf的な高齢化社会の現象 + ペド忌避PCなんでしょうか. いや全部個人の印象ですが.

——ペルシア人の手紙の一部をツイートした. 「俳優」というのはそれに類似した声優とかモデルとかの職業も含むらしい.

Image by sun jib from Pixabay


BLのノンケ主人公はなぜ不寛容の問題になるのか

参考: 小宮友根「表象はなぜフェミニズムの問題になるのか

本節は単なる私のお気持ち表明だが, 主人公がノンケであり, 恋をする相手もノンケであるような BL にはもううんざりだということを言いたい.

主人公がノンケであることが非常に多いという点は, 何か「ふつうの男の子」を主人公にしたい, ゲイは「ふつうの男の子」ではないという隠れた偏見を感じる. しかし, 同性愛者と異性愛者の違いなんてただ同性を好きになるか否かではないか. 両性愛ならもっと差異は希薄になる. そんな些細な違いなのに, なぜかノンケ主人公という設定がBL漫画業界に非常に多い点は注目に値するし, すでに同性を好きになっているのにノンケの語義との矛盾をあえて犯してまで頑なにノンケ設定にこだわるという点は正直に言って驚きだ.

主人公が同性に恋して悩む描写というものがある. 私にはなんだかそれが「同性愛というものは悩むべき悪癖である」という固定観念をなぞっているように見える. ノンケが同性を好きになったらそれはノンケという identity が崩れることになるのだから悩んで当然であるという反論もあるかもしれない. しかし, たとえば今の日本では外国人と恋に落ちてもそこまで深刻に悩む人はいないだろう. もし作品内世界の規範が同性愛等に寛容であるなら, ノンケ主人公が悩む理由というものはほぼないのではないか?

「君だけは男だけど特別に好きなんだ」みたいな描写についても以下同様.

これは個人的好みかもしれないが, 私はストレスフリーな漫画の方が好きだ. 作品内世界における不寛容を示唆する描写は喉に刺さった魚の小骨のように痛い. 同性を好きになることを特に特別視しないような世界観でいいのではないか. もちろん不寛容な社会を生き抜く系の設定を活かすこともできるのかもしれないが, 先述のノンケ主人公の諸事例は主人公の側がそのような社会規範を内面化してしまっているし, BLという分野において社会の不寛容などの深刻な設定もそこまで必要ではないと思う.

表象を批判することはいかにして正当化されうるか? たとえば, 侮辱や名誉毀損は違法であるし, 隣人を言葉で傷つけることや非礼で気分を害させることも一般的に倫理にもとる行いだろう. ところで, 侮辱や非礼はある種の表象である. よって, これらは端的に非難しうる表象である. ゆえに, 表象は, それが侮辱や非礼等々である場合には, 端的な悪として正当に非難できる.

——以下はペルシア人の手紙を読んだ筆者の感想. BLについてはともかく, 私もストレスフリーな漫画の方が好きである. Aristotelēs は カタルシスの概念で悲劇の存在意義を解釈したが, 本来『詩学』の後半部として用意されていたという喜劇分析の章 (朴一功「『詩学』解説」『アリストテレス全集18』岩波書店, 2018年, 637-8頁) もいつかどこかで発掘されないだろうかと思わないではいられない.

BLとしての『ギルガメシュ叙事詩』(含ネタバレ)





生物は本性的に永遠を欲する. Aristotelēs のいうとおり, 形相が形相を生むことで生物は永遠を実現するとする (De Generatione et Corruptione, 338a-b) . したがって青年の男女は愛し合い, 生殖を行う. 他方, Platōn『饗宴』の問いは「少年愛における妊娠・出産とは何か」であった (Symposium, 208E-209A等).

さて, 『ギルガメシュ叙事詩』がギルガメシュとエンキドゥのBL物語であるということは周知の事実であり, 検索すれば論文が出てくるほどである.

ここでの主眼はBLと永遠性の関係である. 『ギルガメシュ叙事詩』において, エンキドゥが死に, 永遠の命を求めて旅に出たギルガメシュは, 第十書版において, 居酒屋の女将に「あなたの手に捕まる子供たちをかわいがり/あなたの胸に抱かれた妻を喜ばせなさい/それが [人間の] なすべきことだからです」と言われて憤る (矢島文夫訳『ギルガメシュ叙事詩』筑摩書房, 1998年, 112-3頁). 『ニコマコス倫理学』においても, 必滅の者 (ὁ θνητός) は必滅のこと (τὰ θνητά) だけ考えればよいという考え方を Aristotelēs は批判している (1177b31-34).

先述したように, 雌雄が性交して生殖することによって生物は永遠を達成するということになっているが, ギルガメシュの求めた永遠の命はそのような空虚な自然の運動ではなく, 個人としての魂の不滅であった. ギルガメシュは世間の性的規範に適合して普通に礼儀正しく生きていけるような王子ではなかった. ギルガメシュはウルク中のあらゆる家に初夜権を行使した.

なぜギルガメシュは永遠の命を得ることに失敗したのか? たぶん, 死ななければエンキドゥに永遠に会えないからだと思う. 独りで不死を手に入れても, 愛する人と永遠に別れるならば, 生に価値はない.

『ギルガメシュ叙事詩』においては霊草を食べることで永遠の命が手に入るとされていた.

ところで, 「おねショタ」とBLには似たところがある. どちらも「受けとしての男性」を描いているし, おねショタの方は当然同性愛ではないとはいえ, 伝統的なジェンダーロール規範から乖離した関係性を描いている. つまり, 伝統的に「かわいい」が女性的・幼年的な性質を指し, 「かっこいい」が男性的・壮年的な性質を指してきたとするならば, ショタに「かわいい」を述語づけ, 姉に「かっこいい」を帰属させている. また, 象徴的な表現で親密な関係を暗喩する技法も類似点である.

私はメソポタミア神話のイシュタル × タンムーズをある種の「おねショタ」として理解している. タンムーズは語源的に「真水から生じるもの」という意味で, 植物神であった (矢島文夫「タンムーズ」ニッポニカ, JapanKnowledge). 冬の間は地下で暮らすが, 春になると地上に現れるとされており, シリアでは春にタンムーズの再来を願って女たちが涙を流す儀式があった (同前). 『イシュタルの冥界下り』は冥界の女王エレシュキガルからタンムーズを連れ戻すためにイシュタルが降下し, 帰還する場面を描いたものだという (中島訳, 228-31頁). イシュタルとタンムーズは姉弟あるいは夫婦だとされる (矢島訳, 226頁) し, 力強いイシュタルが冥府までタンムーズを連れ戻しに行くという姉の能動性がおねショタ的だと思う.

(ちなみに ちくま文庫 の矢島文夫訳『ギルガメシュ叙事詩』には『イシュタルの冥界下り』も同時収録されているのでお得である)

イシュタル × タンムーズはギリシア神話に伝わり, アプロディーテー × アドニスのカップリングになり, アドニスの血からアネモネが生えたとされた (同, 228-9頁).

この草が生える系の神話で最も有名な人物はヒュアキントスであろう. こちらはアポッローン × ヒュアキントスのBLである. 英語版 Wikiepdia の記述をまとめるだけで恐縮であるが, 太陽神アポッローンと必滅の少年ヒュアキントスは付き合って, 白鳥の車に乗ったりスポーツを楽しんだりするが, ある日アポッローンの投げた円盤が頭に当たって (嫉妬した西風の神ゼピュロスのせいか) ヒュアキントスは死んでしまう. アポッローンはヒュアキントスの流した血からヒヤシンスの花を作り, ΑΙ, αι… という悲痛の間投詞を文字として刻んだ. ヒヤシンスのどこにそんな文字があるんだという点については諸説ある.

アミュークライ人とドーリア人が祝った祭典ヒュアキンティアについての A Dictionary of Greek and Roman Antiquities (William Smith, LLD, William Wayte, G. E. Marindin, Ed., 1890) の「Hyacinthia」の記事 では, アポッローンの太陽円盤は夏の猛暑の象徴であり, ヒュアキントスはそのせいで枯れる植物の象徴である. 中学や高校地理で習う Köppen の気候区分でギリシアは地中海性気候 (Cs) だったことに留意せよ. 鬱陶しいくらい生命の躍動する日本のモンスーン型 Cfa 気候の夏とは違うのである.

Stith Thompson の 「民間文芸のモチーフ索引」Α193 に「神の復活」が収録されているように, 季節の循環, 春の到来を告げる草木の芽吹きは蘇生と結びついてこのような神話が広く浸透していた.

もちろん神話はただの物語であるが, 生殖や永遠性や復活の問題を考える際に, 象徴的な比喩表現として古代人の文学作品を調査することは絶対的な悪ではないだろう. 上述した朴一功氏の解説に従えば, 誰にでも起こりうる避けられない運命の責任を負わされることが悲劇であり, それに対する共感が, 快い魂の浄化としてのカタルシスである. 『オイディプス王』によってカタルシスを得ることは父殺しを称揚することを含意しない. BLやおねショタによってカタルシスを得ることも, それらを称揚することを含意しない.

——以下, ペルシア人の手紙を読んだ筆者の感想. イラン革命の指導者ホメイニも大学で Aristotelēs と Platōn を学んだらしいから, ペルシア人がギリシア哲学に親近感を覚えていてもおかしくはないだろう.

BLに適した芸術形式は何か

「やおい」の語源は「ヤマもオチも意味もない」である. この点は重大である.

芸術形式論という分野がある. 絵画・彫刻・音楽などのそれぞれの芸術形式に適した表現は何かという問題を扱うものである.

BL には通常の物語展開のある漫画形式よりも, 4コマ漫画のような, 統一的な時間の流れを感じさせない形式が適していると感じる. すなわち, 何か人生上の物語が進行していくのではなく, 4コマ漫画のような, いわゆる「サザエさん時空」のような, 抽象的な時間軸をたゆたう形式の方がBLの持つ永遠性にふさわしい.

好きになるきっかけとか, 2人の距離がだんだん近づいていく過程とか, もちろんそういうのもトキメキを生じさせる良い物語ではあるのだが, 距離の接近は過程であり, 過程には有限性がつきまとう. 2点間の線分の両端から点が移動していくなら, いつか両点が接触し, 心を次第に通わせていく物語が終わってしまうことは必然である.

しかし, 愛は変化 (cīnēsis) ではなく活動 (energeia) である (『ニコマコス倫理学』や『形而上学』を各自参照してください).

なぜ人は絵を描くのか? 月下界は有限的な直線運動が支配している. 天界は永遠的な円運動が支配している. 現実には我々は諸行無常・万物流転の娑婆世界で生まれて老いて死んでいくわけであるが, それでもなお, まさに少年の美に象徴されるようなつかの間の はかない (ἐφήμερος = ephemeral) 輝きを残したいと思い, 地上にたまたま出てきたイデア界の再現を残すべきだとして筆を執るのではなかろうか.

終わりのあるものはイデア界にふさわしくない. となれば, 順不同の永遠のイチャイチャを表現するためには, 数コマの漫画か, あるいは1枚絵が最も扱いやすいように思われる.

BL芸術の目的がイデアの想起であるならば, 過程を楽しむBLはなぜ存在するのか? それは悲劇と似ている. 悲劇もある種の過程を脚本として半永続的に残す試みであるから. 悲劇が描くのは常に月下界である. なぜなら天に苦しみがあるのは矛盾であるから. それでも人間が悲劇を好むのは, 第1に地上において登場人物の苦しみに共感するためであり, 第2に天上において観想を楽しむためであると思われる. 古代ギリシアから現代に至るまで, 人類は平和に幸せに暮らしているときでも劇場 (theātron) で劇 (drāma) を鑑賞 (theōrein) してきたではないか.

ヤマもオチも意味もない無時間的なイチャイチャは確かに「やおい」としてのBLの元型であり, その上, 本性的に快い永遠性を前提としている点で美において優れている. けれども, 老人が過去の思い出話を想起し語ることを楽しむように, 天使のようになって天上で戯れる者たちも記憶として有限の時間系列上にあった歴史を振り返り, 懐かしみ, 劇の上演のように再現することはできる.

歴史的物語と無時間的短編を対比させるための具体例として, たとえば, プラトーンの『パイドーン』と『饗宴』を比べてみよ. 前者は死刑執行前夜と当日という歴史的時間軸の上に舞台が置かれており, 後者は特にソークラテースの生涯のここに起こらなくてはならないというような必然性のある出来事ではない.

ま, BLはどんな形式でもいいよね, というのが結論である.

——以下, 手紙を読んだ筆者の感想. アカデメイアにユスティニアヌス帝の閉鎖令が出たあと532年に学者たちはササン朝皇帝に謁見しに出発したという (水地宗明, 山口義久, 堀江聡『新プラトン主義を学ぶ人のために』世界思想社, 2014年, 229頁) から, ペルシア人が新プラトン主義に親近感を抱いていたとしてもおかしくはないだろう.

ヤマもオチも意味もない愛

生物は本性的に永遠を欲する. ノンケは生殖によって永遠を目指すが, BLは生殖と無縁である.

必滅の事柄しか考えないような人たちの人生にとっては生殖がヤマであり死がオチであるのかもしれないが, そうではない人たちにとって, 人生にはヤマもオチも意味もない. 人生はやおいである.

今時ゲイやレズビアンも代理出産や養子で子どもをもうけることはあるから, 出産とBLを対比させるのは偏見だ, 差別だ, という反論があるかもしれない. しかし, これは当たらない. というのも, 私は男性同性愛に言及したのではなく, BL に言及したからである. 男性であるためではなく, 年少であるがゆえに, 少年は出産と無縁である.

神が死んでいるならば, この世界はヤマなしオチなし意味なしである. ニヒリズムとはこのことを指す.

神が生きていても, 天国にはヤマもオチも意味もない. キリストの再臨はヤマであり最後の審判はオチであり救済史観は意味であるかもしれないが, 永遠の至福はそれらののちに来るはずであるから, やはり天国はやおいであるはずである (もちろん軽率に断言はできないが).

生物は死する存在であるために生殖を行う. しかしそれでは子どもとは永遠を達成するための手段・道具にすぎないではないか. それだけではなく, 愛する相手すら子どもを産むための機械扱いすることになるではないか! 明らかに, 相手を道具扱いする関係は愛ではない. 生産性を求めることは愛ではない. 少子化対策のために結婚し, 子作りすることは愛ではない.

復活の際には, 人々が娶ることも嫁ぐこともない. 人は天使のようになる (マタイ22:30). なぜか? おそらく, 永遠の命を得て, もはや死なないからであろう.

BLとは天界的な愛の月下界における再現 (re-presentation) である. 再現という言葉は, ふつう, 過去の事物を未来において再び実現させることを指す. しかし, 天空における愛は未来の出来事なのだから, それを過去に位置するBLが再現していることになる. イデア界の実現が来るべき世界でなされるならば, イデアの想起とは未来の想起である.

徳倫理学は簡単に多くの差別を正当化することができるが, 唯一正当化不可能なのは有徳者に対する差別である. ゆえに, BLが徳を比喩表現で描いた道徳的作品であることが証明されたならば, BLは絶対に徳倫理学によって否定されることはない.

BLは猥褻ではない. なぜなら「徒に性欲を興奮又は刺激せしめ、且つ普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義に反するもの」ではないから. BLによって興奮するのは正義感である. BLによって刺激せしめらるるは徳なり. 且つ普通人の正常な理性的魂を育むのはBLである. BLこそが善良な性的道義そのものである. なぜならそれは相手を生殖の道具とはしない純粋な愛なのであるから.

神は自らに似せて人間を作った. ならばたとえば人間の裸をいやらしいと感じるのはおかしいのではないか? もちろんいやらしいことは罪であり, 聖書には男色は罪だとも書いてある. しかし, あくまで比喩表現として純粋な芸術を道徳的に解釈することならできるはずである.

——以下, 手紙を読んだ感想. ネストリウス派キリスト教はペルシアを超えて遠く唐まで到達し, 大秦景教流行中国碑が建ったほどだと高校世界史で習ったから, ペルシア人がキリスト教に親近感を持っていてもおかしくはないだろう.

参考文献

  • Montesquieu, Charles de Secondat; 田口卓臣訳『ペルシア人の手紙』講談社, 2020年.

  • 久保勉訳『饗宴』岩波書店, 2008年改版.

  • 金山弥平訳「生成と消滅について」山田道夫, 金山弥平『アリストテレス全集5』岩波書店, 2013年.

  • 朴一功訳『ニコマコス倫理学』京都大学学術出版会, 2002年.

  • 矢島文夫訳『ギルガメシュ叙事詩』筑摩書房, 1998年.

その他は適宜本文中に示した.

BGM: Pierre de Maere « Un jour je marierai un ange »


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?