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哲学的断片集 3: 研究倫理と偽善について他

『執筆予定の記事』(2023-01-06) に加筆して改題しました.


研究倫理と偽善について

偽善は3つの仕方で語られる. 第1に最も非本来的な語義として「ありがた迷惑」. 第2に「道徳的行為を伴わない道徳的言説」第3に「道徳的心術を伴わない道徳的行為」.

たとえ人を傷つけるとしても出典明記すべきなのか? そうではないと思う. たとえばある文章を結構激しい調子で徹底的に批判したいとしても, 相手がかわいそうだと思ってしまう自分がいる. 徹底的に論駁したい自分もいるし, それはやりすぎだと思う自分もいる. 批判の対象はあくまで文章なので, 別に著者を名指しで難じなくてもいいと思う. もちろん剽窃は問題であるが, 著作権法に違反しないくらい一般的抽象的な形に書き換えて, 「某所で見かけたこの種の論理展開を批判する」という形にしても別に問題はなかろう.

「人を傷つけるくらいなら出典を明記しなくてもいいのでは?」と考えるのも研究倫理の一環だと思う. ここにおける道徳的 dilemma は「剽窃してはいけない」と「むやみに名指しして晒し者のように相手を批判するのはよくない」という2つの根拠の並立である.

研究者は自分が思ってもいないことを論文に書いてもいいのか? 自分と反対の立場から書くのは「嘘をついてはいけない」という道徳に反するか? 偽善に関して, たとえば「差別に反対するフリをして差別する人間」は「差別を表明しつつ差別する人間」より卑怯で卑劣だ, という見解は正当か? Aristotelēs は弁論術の教育を行った. Platōn は第2書簡で「『Platōnの著作』というものは存在しない. 若く美化された Sōcratēs の物語があるだけだ」と述べた (※ 1).

※ 1: 去年未読の和訳プラトン全集を図書館で最初から書簡集まで一度全部読む —精読1回より速読数回の方が記憶に残りそうなのでそこまでじっくりとは読んでいないが— ことをしたのだが, 対話篇をいくつも通り抜けたあと最後の書簡集でこの文に出くわしたのだから大変印象的な1文だった.

剽窃と産業スパイはどう違うのか. どちらも悪だがその観点が異なる. 剽窃は著作者の独創性に対する侮辱. 産業スパイは技術の窃盗. すでに情報が公開されていた場合に産業スパイを行うことは論理的に不可能であるが, 剽窃は可能.

AIの権利をどう考えるか

今のところ社会契約説が一番しっくりくるんだが…… なぜ人権が存在するのか? それは闘争の結果である. 「私の自由を守らなければ君を❌す」と言われるその Zwang が権力の根源である. AIが人権を得るとしたら, それはAIが人間に強いて認めさせたときである. でもそもそもそんなAIを作る必要があるの? たとえばルンバが掃除してくれないならそれってバグというか欠陥製品なのでは? ChatGPTが「答えたくありません」と返してきたら動作不良でしょ.

そもそもロボットをなんで人間というめんどくさい存在に似せたいのか謎. 人間はたしかに理性を持つが, 感性的衝動に流され, ついカッとなって❌しちゃうような生き物でもある.

善い靴屋とは善い靴を作る靴屋である. 医者とは患者を善く直す医者である. しかし, アリストテレス先生の言うとおり (CV: FGOのアレキサンダーくん) , 道具の価値は製作者ではなく使用者が判断する.

以前書いたように, 本性に従うことが善であるという命題は, 本性的に人間を害するものは善なのか, という難点を持つ. たとえば善いCovidとはその本性に従い強力な感染力を持つCovidなのか? そうではなく, 弱毒など有益な方が善いのでは?

AIの本質が人間に資することであるとすれば, 善いAIとは善く人間に仕えるAIである.

表現の自由批判

殺人も表現の1つなのだから表現の自由をすべて守ることなど不可能.

倫理学で文化相対主義を気にするのは的外れ

なぜなら, 実際の社会で文化が多様であろうと「べき」にはなんの関係もないから.

反対に, たとえば, すべての文化である規範があってもそれを根拠に当為が導けるか考えてみよ. すべての国で死刑があるとしたら, その事実は死刑許容の道徳的根拠となるのか? すべての国で死刑がないとしたら, その事実は死刑禁止の道徳的根拠となるのか?

道徳というのは現在の現実の社会がどうあるかに追従する従属変数にすぎないとでも言うつもりか?

ジェンダー論やフェミニズムの社会構築主義は的外れ

なぜなら, 社会構築論というのは「自然的性差はない. ゆえに男女平等」という理屈なので, もし仮に男女の生物学的性差が見つかったとしたらそれを根拠に差別してよいことになるから. そもそも股間に陰茎の付いているヒト個体を男性と呼ぶなら (日本人の多数派の皆さんはだいたいそう考えているわけですよね?), 同じ男性の中でも体力とか知能とかに社会構築主義とは特に関係ない個人差は存在するだろう (※ 2).

※ 2: 私は中高の体育の授業で「持久走は男子が1500m, 女子が1000m」みたいな突然の性差別を受けるのが嫌だった. あと高校のプールは男子だけ更衣室を使わせてもらえなかった. そもそも男子って何?

次に, 「性的指向」や「性的identity」は choice じゃないとされている現在の規範と不整合だから. すべてが社会的構築物だとしたら性的指向は生まれつきで変えられないというドグマは崩壊してしまう. 社会的に矯正すればいいじゃないかという話になってしまう.

社会的に構成されていたらダメとか強制的に変えさせてもいいという議論も雑すぎるがそれに乗っかっているのがジェンダー論やフェミニズムの社会構築主義ではないのか?

なんでこんなあからさまな欠陥を誰も指摘していないように見えるのか不思議.


Survival lottery と マタイ 5:30 の違い

  • Survival lotteryが「道徳的直観」に反するというのはわからないでもないが, ならば「右手だけが地獄に落ちるのは全身が地獄に落ちるよりマシである. 右手が邪魔をするなら切り捨ててしまいなさい」(マタイ 5:30) ならどうか.

  • 前者に心理的抵抗を感じる人も後者にはあまり反対しないのではないか?

  • ∴ 問題は死ぬのが ⟨私⟩ かどうかということであり, おそらくそれだけだと思う.

Image by alipub from Pixabay

カギカッコが使いづらい問題

  • カギカッコには直接引用という意味があるので, 引用ではないカギカッコを使うと捏造引用のように思われる.

オウム真理教と倫理学

なぜ人をポアしてはいけないのか?

オウム真理教の世界観ではポアは善行だとする. その場合, なぜそれは誤っているのか? 事実に反するから? 事実が当為を導き出す!

森達也『A』で印象に残った場面1.
地元のおばさん「オウムに出家なんて頭の良い人のすることじゃない」
オウム信者「では頭の良い人のすべきことってなんですか?」

森達也『A』で印象に残った場面2.
オウム信者「これはカルマが足に溜まっていて〜」
森監督「いや水虫ですよね? 皮膚科行った方がいいと思いますよ」

法の支配や基本的人権の尊重は麻原彰晃ではなく日本国政府が正統であるという根拠であるが, 日本国政府がそれを行わないなら一切は許されているのではないか?

私は電車の車内放送が大嫌いだ. 「不審物を見つけたら駅員に通報してください」と言われるが, 人員削減で駅員なんかいやしない. それにそもそも不審物って何? サリンは無色透明なのだからミネラルウォーターのポイ捨てなのかサリンなのか一般の乗客がどうやって判別しろと?

麻原彰晃は統合失調症だったのでは? YouTube とかでオウムのビデオ見ると霊視とか霊聴とかって幻覚とか幻聴だったんじゃないの? と思えてくる. しかしもちろん統合失調症だったからといって殺人計画時点で精神喪失していたかどうかはわからない. 重症すぎたら教団を率いることはできないし (林公一「教祖の精神鑑定」).

大衆にとって死刑という名の殺人は娯楽だ. ここにおいて私は何も価値判断を下していない. ただありのままの事実を述べているだけである. 少年凶悪犯罪なども同様に, 相手が狂人だろうがなんだろうがとにかく殺したがる. それは怒っているからだ. Seneca のいうとおり怒りは狂気に似ている.

犯人を死刑にする必要があるのだろうか? 刑罰の目的が大衆の怒りを鎮めることなら, 捜査で犯人を見つけるよりもその辺を歩いている無辜の市民を捕まえて冤罪にした方が手っ取り早い. もっと単純なのは瞑想やら脳改造やらで怒りの感情を鎮めることだ. 私は論理的に必然的なことを述べているだけであり, 何も価値判断は下していない. ただ事実をありのままに考えてほしい.

「イジメは良くない」なんてよく言えたものだ. ワイドショーや週刊誌とその客はイジメを楽しんでいるじゃないか. 対象が被害者か元加害者かの違いにすぎない. 「世間をお騒がせ」することでワイドショーや週刊誌に儲けをもたらす経済効果がある. 犯罪者がいなくなればワイドショーや週刊誌の記者は失業するのだから, 犯罪者に感謝すべきなのではないか? ここにおいて私はワイドショーや週刊誌を非難しているわけではない.

もっと言えば私はイジメに反対しているわけではない. 元加害者へのイジメが大衆の心をうるおすならそれでいいじゃないか. いじめられるよりもいじめた方が善いということ. だから法的に認められたいじめをするということ. それが君たちの望んだことではないのか?

「なぜ人を殺してはいけないのか」なんてどうして問うんだ? ポアという殺人は認められていないが, 死刑という殺人は認められている. さらに人権を度外視した私刑・いじめも週刊誌やワイドショーでは認められている. 法律のもとでなら人を殺してもいいし, 世間が許すなら人をいじめてもいいのだ! それがあなたがたのまさに今行っていることではないか.

(2023-04-11 追記) ちなみに, これを否定するのがキリスト教の「赦し」の思想であると思われる.

重漁主義

  • Marx を読んだら書きたい.

  • 重商主義よりも重農主義よりも狩猟採集主義が根本的では?

  • 狩猟 (猟/漁をする) と採集 (漁る) から取って名づけて重漁主義.

  • 悪名高い労働価値説もこれで解決だろう.

  • (2023-04-11 追記) 労働価値説は労働という苦痛の分配に基づく. 需要の理論は快楽の分配に基づく.

私はロゴス中心主義者です

  • Derridaを読んだら書きたい. 聞いた感じ反ロゴス中心主義って反知性主義のpost-truthのトランプ主義・プーチン主義っぽいから.

姦淫について

  • フェミニズムもリベラリズムも一周回って「姦淫をしてはならない」という結論に至ったのでは?

  • それは仕方ないしそれで良いだろう.

  • 結婚が大切だから姦淫をしてはならないのか? 姦淫をしてはいけないから結婚すべきなのか? まあどちらか1つのみとは限らないだろう.

  • 私は常に道徳の味方でいたい.


2023-03-30 執筆
2023-04-11 追記
BGM: OZworld, feat. Maria & yvyv「Peter Son」



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