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哲学思想日記 2023-W35 — 中島敦, レポートの意義, 他

2023-08-28/09-03


哲學

どうやら私は骨の髄まで獨我論者であるようだ. 物心ついたときからずっとそう. まだ物心ついていないということかもしれないが, むしろ物心ついていなかった頃の方が非獨我論的だった氣もする.

だから獨我論と區別した意味での永井均氏の獨在論も, 頭では理解しているつもりだが, 直觀としてはあまり體得できていない.

私の世界は, 幼稚園くらいの最初の記憶ときからずっと, 比喩的に言えば, 落とし穴の中から空を眺めていて, 時々果物やイバラが落ちてくるような,そんな見え方なのだ. 世界が1つの圓の中に入り, そのフチから快樂と苦痛が到來するような感覺.

それを思い出したのは, 『なぜ人を殺してはいけないのか』(河出書房新社, 永井均, 小泉義之, 2010) を讀んだから.


Image by Rajesh Balouria from Pixabay

倫理

もし六法全書が無色透明のインクで書いてあったらどうなるのであろう ? フグのどこに毒があるかを無數の犠牲を出して確かめた歷史があるように, 何したら捕まるかを經驗則で確かめることになるのであろうか ? そもそも, Ludwig Wittgenstein が « 言語の生命は使用である » と述べたように, 法律の生命も行政と司法 (さらに文書に無色透明のインクを使わないという規範を持つ立法) なのであろう.

小4くらいのとき, 担任の先生が, 村人が村長に謝意のワインを送る譬え話をよくした. 謝意のワインを送るために各家1軒ずつ樽にワインを入れていったのだが, いざ集まって村長が樽を開けるときになると, あらまあびっくり, それは水だったではないか. なぜそうなったかといえば, みんながみんな « 自分だけはワインの代わりに水を入れてもバレないのでは » と考えたからだった. おしまい.

それを聞いたとき, 樽をガラス製にすれば良いのにと思った.

なぜ今この話をしたかといえば, たしかに人を殺したい人にとっても殺人罪等の社會契約は得かもしれない (殺されたら殺せないから) が, 何か殺人豫防の政策をする社會契約は損になってしまい, そのとき嘘はバレてしまうのではないかと思ったから. 刑罰も含めた司法面の社會契約ではバレない嘘が, 立法面の社會契約ではバレる.

批評

« 哲学思想日記 2023-W35 » で書いた, 小田嶋隆氏と敎育學部の關係の補足.

もともとは, “平川克美×小田嶋隆「復路の哲学」対談” というものを讀んだから, 敎育學部について書こうと思ったのだ. 書いている間にそれを忘れてしまっていた. この對談で, 平川氏は思想的發想を, 小田嶋氏は社會科學的發想を體現しているように見えた. 前者はどうあるべきかを, 後者はどうしてこうなっているのかを問うているということ.

藝術

最近, 青空文庫にある中島敦の作品を全て讀んだ. 最高だった. « 作者の死 » の概念が生まれて久しいが, どうしても中島敦本人が李徴みたいな人なんだと思ってしまった. 文學批評の主流學說としては教科書作品としての “山月記” が « 李徴みたいに好き勝手やってると破滅しますよ, 袁傪みたいに真面目になりましょう » という教訓だとされているらしいが, 敎室での使われ方はともかく, 中島敦の主旨はむしろ李徴への同情と (臆病な自尊心と尊大な羞恥心を克服した上での) 詩作人生の肯定だったのではあるまいか ? むしろ李徴が初めから詩作を目指さずに世間の評価を気にして袁傪のように官僚になったことこそ臆病な自尊心と尊大な羞恥心だったとも解釋できるはずである.

青空文庫にある中島敦の小說はどれも良い作品だったが, 特に興味深いと思ったのは “狼疾記”. 主人公が臆病な自尊心を持っているし, 哲學寄りの話題も出てきて面白い. これの前日譚として “斗南先生” には李徴のように狷介な登場人物が出てくる. また, “狼疾記” と内容的に關聯する “かめれおん日記” も好きだ. 非常に短いけれどよくまとまっているのは “セトナ皇子 (仮題)”. 迫力があるのはやはり遺作の “悟浄出世” “悟浄歎異”.

あと中島敦の作品には度々 « 美少年 » が出てくることも注目に値する. ついには男色という言葉まで出てくるし. クィア批評的研究史とかあるんだろうか ?

本當にこの才能で若くして亡くなってしまったのが惜しい.

學門

匿名の分際で實名の方を批判するのはダメであろうから名指しはしないが, 疑似科學・研究ごっこを批判する際に, “學問は藝事” と (インターネットで) 仰っている方がいた. 自然科學ならば素人が1回の發想で大發見をすることもありうるが, その方の專門領域である古代東アジア史・古代東アジア文學では, ちょうど板前やスポーツ選手のように, 修行が大切であり, そのプロの息遣いに習い, そのルールと評價軸の中で論文が判斷されるのだという. 學門のルールに則らずに通說を批判するのはサッカー選手になりたい人がサッカーのルールに則らずに評價を求めるのと同じだという.

しかし, 學問は藝事に過ぎないのであろうか ? 眞理は藝事と獨立には實在しないのであろうか ? 眞僞は藝事のお約束によって決まるのであろうか ? その點が一番引っかかった. 別に « 研究ごっこ » を擁護したいわけではない. むしろ反對に, 確實明證な眞實は社會文化のお約束から離在するはずなのではないのかという强い實在論を唱えているわけ.

スポーツ選手はその努力と卓越性が賞賛されるのに學者は修行しても « 象牙の塔に引きこもって人格も歪むんだろう » と罵られる嘆息には共感したが. あと, 漢文やってる人の, ササっと號を作っちゃうあたりはほんとにシビれる.

ふと思ったが, 大學のレポート課題って何の爲にあるんだろう ? レポートの書き方を學ぶ授業でレポート課題があるのはよくわかるが, たとえば大敎室の講義みたいな授業でレポート書けって言われて, 學生が書けたとしても, その課題の出来を科目の成績として使うのは, 授業習得度という評價基準とレポートという評價方法との間に何かズレがあるように感じる.

それに, たとえば心理學の概論的な授業を受けたとして, 實驗しておらず實驗のやり方も知らないような非心理學科も受講する學生のレポートなんか讀むほうだってくだらないのではと思ってしまう. 社會調査のやり方を知らない學生の書いた社會學のレポートや史料の讀み方を知らない學生の書いた歷史學のレポートも同樣.

もちろん學說史・研究史のまとめも立派な學門領域だし, それを專門とせずともどんな論文を書くときにも基本的に研究史は大切だから, その練習と評價という位置付けなら納得できる. けれども, その研究史のまとめ方は授業で敎えたんですかという問題は發生してしまうのではないか ? まあ敎えれば濟む話ですが.

この點, 最近讀んだ “流れを読む心理学史 (補訂版, サトウタツヤ, 高砂美樹著, 有斐閣, 2022)” は科學史的問題も扱っていて面白かった.

哲學科についても, 事實上思想史であるにもかかわらず歷史學の専門知識は學べないことへの不滿はある.

就活

私はいつまでも « 學生氣分が抜けない » ようだ. 會社に入らないでずっと勉强し続けられる身分でいたい.

二宮金次郎は少年時代, 薪を担いだり菜種油で一儲けしたりして學資自辨したらしい. 偉いですね.

就職先として屢々安定した仕事であることが好まれるが, 必ずしも經濟的安定だけが安定ではないだろう. 私の場合, Erik Erikson 的なアイデンティティの安定が精神的安定に繋がるように思う.

學門, 特に哲學をしているときにはあまり自分の人生のことを惱まなくてよくなる. 沒我の境地と言ってもいい. Bertrand Russell の “幸福論” の有名なソーセージ機械の比喩に似た話. ソーセージ製造機が2臺あり, そのうち一方は豚肉への熱意を持ち無數のソーセージを製造したが, 他方は自分自身の仕掛けの方が豚なんかより面白いと考えて自己內部の研究を始めた. しかし研究すればするほど內部は空っぽで馬鹿げた物に見えてしまい, ソーセージ製造装置もすでに止まってしまい, もはや自分が何のためにあるのかわからなくなってしまったという話 (ラッセル幸福論, 安藤貞雄譯, 岩波書店, 1991).

人生

パソコンの畫面が壊れて, 豫備の iPad でこの文章もレポートも書くことになってしまった. やりづらい.


2023-09-01
今日の一曲: Go Crazy (YMG, feat. WILYWNKA, Farmhouse, 唾奇)

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