今思う、高校でのことを

私の出身高校はM山市にある「M山中央高校」といいます。

M山中央高校は、M山東・M山南・M山西・M山北の東西南北が出そろった後で創立されました。
なのですが、「中央高校」は決してそれらの中央に地理的に位置しているわけではありません。
南校よりも南側の、M山市の南端にあります。

これは想像ですが。
名前を検討している時に「M山中央高校」がよいなと候補に挙がったものの、ちと待てぃ、中央じゃないぞ、と。
その時、眺めていた地図に見えてきた「M山平野」。
そこの「中央」に位置しているではないか!と、誰かが発見したのでしょう。
晴れて、堂々と「M山中央高校」を名乗る理由ができました。
と、勝手に想像しています。

M山平野の中央に位置するからという理由は本当ことです。

M山市の南端のS川沿いに中央高校はあります。
一級河川の大きな川の土手には電線がないため、結構な規模の凧揚げ大会があったり、土手をひたすら走るマラソン大会があったり、バードウォッチング部があったり。

S川は伏流水といって川床の下を水が流れる川のために、たびたび水の流れがなくなり干上がります。
そのたびに、生物部が魚を救出に行っていました。
ですが、水が戻ってくると魚も戻ってくる、不思議な川です。

山からの吹きおろしの風が厳しい中、生徒のほとんどが自転車通学で、学生鞄を前かごにおシャレに入れるなんてとんでもない、後ろの荷台にしっかりとしばりつけて、向かい風に負けず自転車をこぎます。
そういえば、「向かい風で」といって遅刻をしたクラスメイトがいました。

私の家から高校まで、自転車で15分くらいでした。
家と高校の間には何もなく、寄るところといえば書店が一店舗だけ。
ゲーセンもカフェもパフェもなし、女子高生的なものとは一切無縁でした。

中央高校なだけに、マラソン大会の名前はセントラルマラソンといいました。
男子が21kmのハーフマラソン、女子が10km。
年が明けて3学期が始まると体育の授業が全てマラソンに、2時間続きの家庭科の授業もマラソンに変わります。
ひたすらひたすら走ります。
体調不良などで授業を休むと、その日走るはずだった距離が溜まっていき、後日そのすべてを消化しなければなりません。
マラソン大会は、ちょうどバレンタインデーのあたり、2月の中旬あたり。
1か月半ほど、ずっとマラソンばかりです。
季節柄、行きは追い風で帰りは向かい風。
どちらも強風です。
当日ゴールした時には、サイコロキャラメルと、何か暖かい甘い飲み物をもらえたような記憶があります。
達成感と満足感に浸り感動している同級生を横目に、「あなたはは歩かなければいいから」と言われ上位走者の倍ほど時間をかけてゴールする私には、そんな感動はカケラもありませんでした。

私が高校生だった頃、M山市には予備校なるものがありませんでした。
大学受験のすべてを高校の先生たちが見てくれました。
担任だったり教科を担当してもらっていたことなど関係なく、相性の良い先生を見つけては、放課後や授業の前に分からないところを教えてもらっていました。
今考えても、先生方にはとても恵まれていました。
個性も実力も情熱も半端ない先生方が集まっていたように思います。

その先生方の中に、私の人生を変えた先生がいます。
高校1年の時の「倫理・哲学」の社会の先生です。
1学年450人いるうち、私だけがその授業に反応しインド哲学に進んでしまいました。

その先生が担当していた「国際理解」という授業がありました。
1年生の間、1週間に1時間あったように思います。
授業の内容は多岐にわたっていました。
異文化・日本の伝統文化・心理学などなど。
もう内容は細かく覚えていませんが、今でも鮮明に覚えている授業があります。
モンゴルに住む遊牧民族のドキュメンタリー映像を見ていた時、羊の解体シーンがありました。
目をそらす生徒に「ちゃんと見なさい。人間はこうやって食べ物を得ているのだから。」と。

この授業のおかげで、M山市の南端の家から15分の高校にいながらも、世界には多種多様な文化があって、それらには優劣はないのだ、私に理解できないことも確かに存在するのだと教わりました。

学ぶことが楽しいことだと教わったのは、高校で出会った先生たちと、一緒にワイワイと勉強していた友達のおかげです。
勉強ができることはカッコいいとかカッコ悪いとかそいうことではなくて、学びは一種の快感や欲望であって、それだけの価値があるんだと。

マラソン大会で得たことは、それ以降の人生で「マラソン大会以上に辛いことはない」という一種のなぐさめでしかありません。
それを差し引いても高校で得たことは、私の原点だなと40代半ばに近づいて、最近強く感じます。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?