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オーロラの夜(1)/小説

〈あらすじ〉

 同じような毎日の繰り返しが、ある日、突然変わる。東京で働く瀬野渚は、ある日、会社の都合で無期限の休暇を取るよう通告される。休暇を使って渚は冬の北欧へ旅立つ。
 北極圏の小さな街に滞在し、オーロラの出現を待つ。旅行会社の社員の涼平に誘われ、渚は彼が暮らす下宿に移る。そこには不思議な雰囲気の日本人女性、百合子とカンナという姉妹がいた。
 慌ただしい都会と違ってゆっくりと時が流れていく。初対面の彼らと過ごす中で、不思議に渚はくつろいだ気分になっていく。ついに待ちかねたオーロラが出現する。そして、渚の休暇も終わろうとしていた。

オーロラの夜(1)

 渋谷へ向かう東横線のつり革にぶらさがるようにつかまりながら、渚はふと、窓に目をやった。
 生気のない顔つきでこちらを見ている男。
これは、誰だ。
 目の下の深い隈、どんよりとした目。
 これはオレなのか?
 電車の揺れが体に伝わる。こめかみから冷たい汗がにじむ。
 次の駅で降りなければならない。地下鉄に乗り換えて会社まで。もう何年と通い続けた通勤ルートだ。
 このまま降りずに乗り過ごしたら。そんな考えが頭に浮かんだ。
 たとえば、このまま遠くへ。スマートフォンもつながらないようなどこか遠い場所へ行ってしまったら。いつ、誰が、彼の行方を捜し始めるだろうか。隣の席の同期か、パソコンの画面越しにちらちらと部下を観察している部長か、それとも?
 渋谷に着いた。人々がどっと扉の向こうになだれこんでいく。あの波に乗らなくては。流れに乗らなくては。
 人波の一番後ろから、ホームに降り立つ。入れ替わりにホームから電車へと人々が乗り込んでいく。渚は額の汗を手の甲でぬぐい、人の流れに乗って歩き始めた。

 渚は窓辺に近寄り、カーテンをたくしあげた。どうやら雪が降っているようだ。外はひっそりと静まりかえり、木々が黒い影のように浮かび上がっている。東京のような光の渦はここにはない。
 成田を飛び立って、まだ一日も経っていないのに、ずいぶん遠い昔のことのように感じる。同じ時間に起き、決まった電車に乗り、会社へ通う毎日と、180度違う世界。電車に揺られていた毎日が、遠く感じる。
空港に降り立った時のことを思い出す。
 近代的な空港ビルディングは、たった今掃除を終えたばかりのように、チリ一つ落ちていない。無機質なデザインは、どこか近未来の世界を思わせる。人の姿も少なく、室内は暖かいはずなのに、なぜか肌寒さを覚えた。
 入国手続きで、係官はパスポート写真を眺め、渚の顔を確認し、ついでに長旅でシワの寄ったコートに目をやり、もう一度パスポートに目を落とし、無言で入国許可のスタンプを押した。拍子抜けするようなあっさりとした審査だった。
 バッグパック一つでロビーへ出る。そのまま、窓に近寄り、暗い外の様子に目を凝らした。ライトに照らされて雪が斜めに降っているのが見える。
 乗り換えの国内線の飛行機まではバスでの移動だった。バスを降りた瞬間、渚の足はすくんだ。冷え冷えとした空気が肌を刺し、雪が髪に肩に降りかかる。
 とんでもないところへ来てしまった…。
 それが、渚の正直な感想だった。
 北へ行こうが南へ行こうが、海でも山でも、どこへ行ってもよかったはずなのに。なぜ、こんな所へ来てしまったのだろう…。どうせなら遠くへ。普段の生活では行けそうにないところへ。そう思って決めたのだが。
 雪まじりの向かい風の中、タラップを登り、飛行機に乗り込む。機内の黄色みを帯びた明るい光に、渚はほっとして息をついた。髪から、溶けかけた雪のかけらがぽとりと落ちた。
 
 飛行機が着いた地方空港は、最終便も飛び立った後で、ほとんどの店が既にシャッターを下ろし、がらんとして、薄暗かった。渚はこわばった首を軽く動かしながら、到着ロビーへ出た。
 「瀬野渚さん?」
 大きな声で呼びかけられ、渚は目を開けた。
 「どうも、ツアーガイドのリョウ…、佐野涼平です」
 目の前に差し出された手に、渚もポケットから手を出し、握手をした。
 「どうぞ、こっちです」
 斜めに降る細かい雪に前かがみになりながら、渚は歩いた。バリバリとジーンズの生地がこわばり始める。吹きつける風に目を伏せると睫に霜がつく。ほんの2~3分も歩いてないはずなのに、ひどく長い距離を歩いたような気分だった。駐車場へ着き、渚は初めて空を仰いだ。暗い頭上から、次々と白い雪が落ちてくる。
 「渚さーん、早く中、入んないと凍えますよ」
涼平が、助手席のドアの前に立ち、呼びかけた。ようやく車に乗り込んで、渚は細く息を吐いた。車の中でも、吐き出した息は白く浮かび上がった。
「えっ、じゃあ、3日前にチケットとったばかりなんですか?」
涼平は、助手席を振り返り、言った。おいおい、前をちゃんと見てくれよ、と渚は思ったが、対向車が来る気配は全くない。
 「マジっすか。たまに学生でなんも考えずにハワイ旅行みたいなノリでくる奴いますけど、サラリーマンでそんなノープランな人、初めてです。カッコイイっす」
 バカにしてるのか感心しているのか、つかみかねる口調でまくしたてると、涼平は言った。
 「オレ、この町に駐在してるんで、オプショナルツアーとかアクティビティーとか、なんでも相談してください。犬ぞり、トナカイぞり、スノーモービルにクロスカントリースキー。民族衣装体験とか。スパやら、サウナやら、小さい町だけど充実してるんですよ。もちろんオーロラも」
 「オーロラ」という言葉に渚はひかれた。
 「オーロラ、見てみたいな」
 「どれくらいここにいますか?」
 「3泊はホテルをとってるんだけど」
 「それなら大丈夫。きっと見られると思いますよ。だいたい、3日に1度くらいの確率で現れるものなんです。よっぽど運悪く、毎日雪だ、曇りだ、ってことがないかぎり、3日もいればどこかでチャンスがあるはずです。ただ、いつ現れるか分からないんで、肝心な時に眠り込んでないようにしないといけないですけどね」
 渚は窓の外に目をやった。相変わらず細かい雪が降り続けている。
 「今夜はどうも無理っぽいですねえ。まあ、今日は疲れてるだろうし、ゆっくり休んでください。明日、クロカンにでも行きませんか?」
 「オプションで?」
 「そう、オプションで」涼平は笑いながらうなずいた。
 「でも、ホント、おすすめですよ。森の中をスキーで歩く、というような感覚なんですけど。ちょっとしたハイキング気分で。ガイドの仕事がないときは、プライベートでいくほど気分いいんです」
 辺りは真っ暗で、ライトに照らされうっすらと木々の影が見えるだけだ。周囲は森なのかもしれない。こんなところをスキーで回るのだろうか。暖房は入っているはずなのだが、車内はまだ肌寒い。毎日が氷点下の世界、という日常を、うまく想像できない。渚の考えが分かったかのように、涼平は言った。
 「すごい寒さでビックリしたんじゃないですか? これでもあったかいほうなんですよ」
 「あったかい?」
 渚は思わず繰り返した。その言葉の使い方はまちがっていると思う。
 「これからまだまだ寒くなります。北海道出身のオレも、初めて来たときにはちょっと驚きましたねえ。渚さん、東京からでしたよね。出身も?」
 「出身は九州で、年に一度雪が積もるか積もらないかというような町だから、雪が降ってるだけで珍しいかな」
 「九州か。雪があまり降らないところからのお客さんが多いんですよね。やっぱり雪が珍しいからですかねえ。でも、雪の歩き方に慣れてないから、転ぶ人が多いんですよ。気をつけてくださいね」
 そう言われたのにもかかわらず、つい、いつもの感覚で車を降りてしまい、渚はバランスを崩し、あやうく転びそうになった。
 「ほらほら」涼平は笑いながら、渚に手を差し出した。渚はバランスを立て直し、苦笑いした。
 ホテルの中は、外の寒さが嘘のように暖かだった。
 「じゃ、明日よかったら、クロカンでも」
 フロントの手続きが終わると、涼平はネームカードを差し出し言った。
 「ここから歩いて5分もしないところに事務所があります。これはオレのスマホの番号。ほかに利用者がいないときは、道具持ってホテルに来ることもできます。じゃ、おやすみなさい」
 涼平と別れて、部屋へ入った。部屋の中も暖かく、すぐにコートを脱いだ。ベッドに腰掛けたとたん、重たい疲労感が体中に広がっていった。長い旅だった。
 渚は窓辺に立ち、外を見つめた。真っ暗な世界に、雪は静かに降り続けていた。

 太陽の光に照らされた雪は、キラキラと光を放つ。普通のスキーなら経験はあったが、クロスカントリー用のスキーは、スキー板の形状も違えば、滑り降りるのではなく、歩くといった感覚で勝手が違い、コツをつかむまでに少し時間がかかった。だが、慣れてくると、周囲の風景に目をやる余裕ができてきた。すれ違うスキーヤーたちが笑顔で挨拶をしてくる。
 「渚さん、初めてにしてはうまいっすねえ」
 「雪なんてめったに降らない町で育ったから、スキーしたのも高校の時がが初めてで。でも、雪の中に行くのは昔から好きだったんだ」
 「へーえ。オレなんて北海道だから、雪の降らないところに行ってみたかったですけどね。あ、その先に山小屋があるんで、ちょっと休みましょう」
 氷点下の世界でも、日差しがあるとさすがに温かく感じる。動いていると服の中にはうっすらと汗をかいている。涼平は準備よく、ナップザックの中から魔法瓶とカップを取り出し、ホットコーヒーを入れる。湯気が立ち上るコーヒーは、しっかりと濃く、ほのかな苦みが疲れた体に心地よい。
 「これ、どうぞ」
 涼平は、チョコレートバーを取り出し、差し出した。なぜか、目元が笑っている。
 「GEISHA…ゲイシャチョコ? なんだ、これ」
 「こっちで売ってるんですよ。なんでゲイシャなのか謎ですけど」
 ピンク色の包み紙には、桜の花が描かれている。中身はごく普通のミルクチョコレートだったが。
 「そろそろ行きましょうか」
 先に立って外へ出た涼平が、「ひっ」というような声を上げて立ちすくんだ。
 「なんだ?」
 背中にぶつかりそうになって、渚は声を上げた。
 「今なんか、白いものが。おばけって昼間も出るんすか?」
 「まさか」
 涼平をよけて前へ足を踏み出し、渚は辺りを見回した。不意にガサガサっと茂みが揺れた。
 「わーっ」と涼平が頭を抱えてしゃがみこむ。渚が音のしたほうに目をやると、誰かがこちらへ向かって歩いてくるのが見えた。
 「なんだ、カンナさんか」
 涼平は口をとがらせ、服についた雪を払いながら立ち上がった。
 「あら、リョウくん。今日はお仕事?」
 ゴーグルを額に押し上げ、黒い瞳が向けられる。
 「ええ、クロカンです」
 「こちら、日本から?」
 黒いまっすぐな前髪が帽子の下からのぞく。
 「瀬野渚さん。昨日ついたばかりのお客さんです。こっちはカンナさん。オレの下宿先の管理人さん」
 「はじめまして」
 手袋をとり差し出された手を、渚もあわてて手袋をとり、握った。
 「カンナさん、何してたんですか」
 「お天気がいいから、ちょっと山歩きをしていたところ。雪が今どれくらい積もってるのかなあと思って、地面が見えるまで雪をよけてみようと思ったんだけど」
 「物好きですねえ。メートル単位で積もってるんだから、手でちょっと掘り返したって無理ですよ」
 「そのとおりね」
 首をすくめて彼女は笑い、ゴーグルをはめ、ストックを握りなおした。
 「そろそろ帰らなきゃ。今日は姉さんがカレーにしましょう、って」
 「やった! カレー、久しぶりだ」
 「そうだ、よかったら、ええと、セノナギサさん。あなたも一緒にいかが? まだ日本の味が恋しい時期じゃないでしょうけど」
 渚が答えるよりも早く、カンナは背を向け滑り始めていた。
 「じゃあ、楽しんで」
 後ろ手に手を振ると、そのまま去っていく。
 「行きましょうか」
 涼平は先に立って、斜面を登り始めた。歩くスキーといっても、やはり滑るほうが楽だ。登る時にはコツも時間もかかる。雲の切れ間から顔を出した太陽が、雪をまぶしく輝かせていた。
 「じゃ、夕方迎えに来ますんで」
 ホテルの前で別れる時、当然のように涼平はそう言った。
 「えっ?
 「えっ、て?」
 涼平は大げさに首を振り、言った。
 「カンナさんと約束したじゃないですか。カレー食べるって」
 あれは約束だったのか? 渚の言葉も待たず、涼平はそのままスキーで歩き出していた。
 「じゃあ、また後で」
 昼間会った女性、カンナの顔を、渚ははっきりと思い出せない。帽子を深くかぶっていたし、言葉を交わしたのも短い時間だ。正直、年齢の見当もつかないくらいだ。
 まあ、いいか。と、胸でつぶやく。何の予定も決まっていない日々を過ごすのは、一体いつ以来だろう。本当ならば会社のことや、自分の仕事の行く末など、不安になってもいいはずなのだが、思考回路がストップしたように、意識がそちらへ向かわない。まあ、いいか。もう一度、そう思う。日は、早くも陰りはじめていた。

 涼平の下宿先は、渚が泊まるホテルからそれほど遠くなかったのだが、雪の中を歩いて行くため、思ったよりも時間がかかった。雪道を歩きなれない渚には、思うように足が運べない。ずぶり、ずぶりと雪に埋もれる足を引き上げ引き上げしながら、前へ進む。着いた時には、靴は雪にまみれ、ずいぶんと重くなっていた。涼平の足元を見ると、靴の上や周囲には雪はついていない。やはり、歩き方にコツがあるのかもしれない。
 「ただいまー」
 玄関を開けると、その奥にまたドアがある。寒さを防ぐため、二重になっているのだ。内側のドアを開け、涼平は奥に向かって声をかけた。
 「あー、カレーのにおいだ」
 目を閉じ、鼻から香りを吸い込むようにして、涼平はつぶやき、それから、渚を振り返った。
 「靴はここで脱いでください。日本式なんです」
 涼平の後に続いて歩くと、しだいにカレーの香りが強くなってくる。日本を離れてまだそれほど経っていないのに、なつかしく思えてくるから不思議だ。
 「おかえりなさい」
 テーブルの上に皿を並べていたカンナが、顔を上げて言った。
 「お言葉に甘えておじゃまします」
 「あら、ごていねいに」
 渚の言葉にカンナは目を細める。昼間は前髪しか見えなかった髪は、肩の辺りまでの長さで、まっすぐな黒髪だ。
 「これ、日本から持ってきたものです。よかったらどうぞ」
 渚が差し出した瓶を見て、カンナは笑顔になった。
 「まあ、うれしい。ありがとう。姉さん、日本酒いただいたわよ」
 「あら、珍しいものを。ありがとうございます」
 キッチンから顔を出したのは、まるいメガネをかけ、髪をひっつめにした女性だった。
 「百合子さん」と、涼平が紹介する。
 「瀬野渚です。今日はありがとうございます」
 「渚さん、ね。どうぞゆっくりしていってください」にこにこと笑みを浮かべて百合子は言った。
 「さあ、いただきましょう」百合子の言葉で、全員がテーブルについた。地元のビールがグラスに注がれる。
 「渚さん、ようこそ」
 勝手に乾杯の音頭をとったのは、涼平だった。


   (つづく)

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(Text:Shoko, Photo:Mihoko)©️elia


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