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オーロラの夜(2)/小説

 この町へ来て3日目の朝。渚はいつものように窓辺に近寄り、カーテンを開け、外を眺めた。今朝も空には灰色の雲がかかり、雪に覆われた辺りの景色と一体になっている。
 この分では、今夜もオーロラにはお目にかかれないかもしれない。
 ホテルの朝食はビュッフェスタイルだった。黒っぽいパンに、サーモンと穴のあいたスライスチーズをのせ、頬張っていると、「渚さん」と呼びかけられた。顔を上げると涼平が立っていた。にこにこと笑いながら、渚の前に座る。
 「よく眠れましたか?」
 ビュッフェから持ってきたオレンジジュースを飲む。ホテルのスタッフとも顔見知りらしい。英語によく分からない言語を織り交ぜながら、スタッフが何か軽口を言う。涼平もそれに答えてなにごとか言っている。
 「ここの言葉、しゃべれるの?」
 渚の問いに「まさか!」と涼平は首を振り、「挨拶程度ですよ。でも、なんとなくニュアンスは分かったりするんです」と言った。
 「挨拶でもすごいな」
 「それを言うならすごいのは百合子さんです」
 オレンジジュースを飲み干し、涼平は言った。
 「あの人は、すべて日本語で通してるんです。英語すら使わず」
 テーブルに身を乗り出し、涼平は言う。
 「買い物するときも、近所の人に挨拶するときも。あらおはようございます、とか、それちょうだい、とか、それいくら、とか。そしてなぜか通じてるから不思議なんです」
 「それはすごい」
 渚は苦笑いした。
 「信じてないでしょう? 本当なんですから」
 涼平は力強く言うと、立ち上がって今度はコーヒーを持ってきた。
 「今日は来月のツアー客の部屋割り確認をしてきたんです。そろそろ学生の卒業旅行が増えてくるんで」
 「卒業旅行か。懐かしいな」
 パンを食べ終えた渚は、コーヒーカップに手を伸ばした。
 「知ってます? この国はコーヒーの消費量がすごく多くて、1人あたりの消費量は世界で3位以内に入るくらいなんですよ」
 ガイドをやっているだけに、時々ちょっとした情報を教えてくれるので、うっかり聞き逃してばかりもいられない。
 「オーロラ、昨日もだめでしたね。今日も微妙な天気だなあ」
 窓の外に目をやり、涼平は言った。
 「普段はこんなに雪や曇りの日は続かないんだけど、たまにこういうこともあるんですよねえ」
 「でも、もし今夜もオーロラがだめだったら、滞在をのばすしかないかな」
 コーヒーカップを置き、渚は窓に目をやった。どうやら雪が降り始めたようだ。
 「宿泊、今日まででしたっけ? まあ、ホテルはあいてそうだけど…そうだ!」
 涼平は顔を上げた。
 「渚さんもオーロラの家に泊まったらどうです?」
 「オーロラの家?」
 「オレの下宿のことをみんなでそう呼んでるんです。オーロラ観測する人たちが泊まりにくる施設だったから。最近はオレみたいに旅行関係の人間とか、旅行客が泊まったりすることも多いですけどね。今はオレ以外に部屋を借りてる人間いないから、きっと大丈夫ですよ」
 「でも、そんな急には。まずホテルに聞いてみるよ。せっかくだからオーロラは見て帰りたいしね」
 「そんな遠慮なんてしなくていいですよ。それに渚さんが来てくれたら、オレも飲み仲間ができてうれしいです」
 まるで自分の家のような気安さで言うと、涼平はさっさとスマートフォンを取り出し、その場で電話をかけ始めた。
 「あ、カンナさんですか? オレです、涼平です。あの、明日から泊まりたいって人がいるんですけど、いいですか? こないだ一緒にカレー食べた渚さんです。そうそう、まだオーロラ見れてないんですよ。ええ、ここに来てオーロラ見ないで帰すわけにはいかないですからね。はい、分かりました。じゃあ、明日から、よろしくです」
 電話を切ると、満面の笑みを浮かべ、右手の親指と人差し指でまるをつくると、「オーケーです」と涼平は力強く言った。
 その日の午後は、雪模様で、渚はスパに行き、プールで泳ぎサウナに入り、を繰り返し、のんびりと過ごした。そして、肝心な夜。空は雲で覆われたままだった。

 荷物はバッグパック一つのまま増えてもいないので、ホテルを出ると、そのまま朝のほの明るい道を、まっすぐ「オーロラの家」へ向かって歩いた。雪はやんでいたが、空にはまだ雲がかかったままだった。
 「おはようございます」
 玄関のドアを開けてくれたのはカンナだった。渚の挨拶に、にこりと微笑む。
 「どうぞ。部屋は涼くんの隣よ」
 百合子も顔を出した。
 「今日からお世話になります。すみません、無理言いまして」
 「私たちは大歓迎ですよ。今年はまだ泊まりにくる人が少なくて、涼くんも私たちもさびしい思いをしてたから、人が増えるのはうれしいの。さあ、荷物を置いたら、紅茶でも飲みましょう」
 部屋はこじんまりとしていたが、清潔で、ベッドのほかに小さなクローゼット、机と椅子なども備えられていた。小型の冷蔵庫や洗面台もついている。
 「ずいぶんいい部屋をありがとうございます」
 リビングに下りて渚が言うと、百合子はにこにこと微笑んだ。
 「気に入ってもらえてよかったわ。さ、紅茶をどうぞ」
 「何か宿泊の手続きはいりますか?」
 「そうね、宿泊名簿に記入しておいてもらいましょうか。カンナさん、お願い」
 カンナが持ってきた宿泊者カードに名前や住所、パスポートナンバーを書き込む。5~6年前のパスポートの写真と渚の顔を見比べ、カンナは少し笑った。
 「けっこう昔の写真なんで。表情硬いですよね」
 「そんなことないわ、よく撮れてる。でもこうやって見ると若いわね」
 百合子が紅茶を運んできた。
 「さあ、どうぞ。涼くんが仕事で残念ね」
 すっきりと香り高い紅茶だ。
 「オーロラ見れるといいわね」
 カンナが言った。
 「大丈夫ですよ」と百合子が落ち着いた声で言った。
 
 「渚さんて、雪男ですね、きっと」
 その日、仕事を終えて帰ってきた涼平は、夕食の席で渚の顔を見据えて言った。
 「雪男?」
 世界の七不思議、というようなたぐいの本に載っているけむくじゃらの男のイラストが思い浮かぶ。
 「こんなに雪が続くのは久しぶりです」
 「ああ、雨男みたいな意味か」
 百合子は眼鏡の奥の目を細めながら言った。
 「それなら、カンナさんも雪女ですよ」
 「あらいやだ、姉さんったら。でも、そうねえ、確かに何かあると雪が降ったり、雨が降ったり。その点、姉さんは文句なく晴れ女よね。というか、降ってほしいな、と思う時には降り、晴れてほしい時には晴れるような」
 「さすが百合子さん」
 しみじみ感心したように涼平が言う。百合子はすました顔で、夕食のクリームシチューをスプーンですくった。
 「オーロラって昔の人には恐れられたり、反対に信仰の対象だったりもしたみたいですよ」
 「さすが名ガイド」渚が口を挟むと、涼平はまんざらでもないような顔になり、続けた。
 「赤いオーロラは不吉な印だとか、何か悪いことや珍しいことの前兆だと思われたり」
 「赤いオーロラ? そんな色もあるんだ」
 渚がパンフレットなどで目にしたのは、ほとんどが緑色だった気がする。
 「赤いオーロラは珍しいの」と、カンナが口を挟んだ。
 「オーロラの発生は太陽の活動に関係していると言われてるんだけど、太陽の活動が活発な時には赤いオーロラが見られるらしいの。私もあまり詳しくは分からないんだけど。十年単位くらいで活動に波があって、赤いオーロラが出るのはそんな太陽の活動が活発な時、らしいわ」
 カンナの言葉に百合子が黙ってうなずく。
 「オーロラは、実は夜だけでなく昼間も出ていることがあるんです。明るくて、人の目に見えないだけで」
 涼平が続ける。
 「オーロラは、この世とあの世をつなぐ道だと思われたりもしています」
 「へーえ。確かに空と大地をつなぐ梯子のように見える写真もあったなあ」
 カシャン、と物音がして、振り返ると、「ごめんなさい」と言いながら、カンナが皿の上に取り落としたスプーンを、慌てて拾い上げていた。
 「おかわりはいかが?」急に百合子が言った。
 「ありがとうございます、でもまだ入っているので」渚が言うと、今度は涼平に顔を向け、にっこり笑う。
 「涼平くん、おかわりいるわよね」百合子は涼平が返事をする前に皿をとると、キッチンに向かい、たっぷりシチューを盛り付けて戻ってきた。
 「わー、百合子さんありがとう。今日はスキーガイドで腹減ってて」
 百合子はにこにこと笑い、今度は渚のグラスにビールを注いでくれた。
 「どうも」
  持ち上げたグラス越しに、カンナの横顔が見えた。少し青ざめ、こわばっているようにも見える。
 「さあ、渚くんもどんどん食べて」
 百合子にうながされ、渚はスプーンを握りなおした。
 
 透明なとろりとした液体を口に含むと、喉の奥がじわっと熱くなる。ウオツカは北国にふさわしく、強い酒だ。
「百合子さんとカンナさんはきょうだいで、百合子さんが姉です」
言われなくてもどちらが姉か分かるけれど、と思いながら、渚は黙ってうなずく。食後、「飲みましょう」と涼平に誘われ、彼の部屋で酒を飲んでいる。既にワインのボトルが一本あらかた空になっていた。
「オレは今年からこの町の担当になったんですけど、前の担当も、この家に下宿させてもらってたらしいです。元々はオーロラ観測をする研究者のための施設だったらしいんで、今も時々学者や学生が長期滞在してるみたいです」
「どうして二人はここに住んでるんだろう」
 涼平は小首をかしげた。
「さあ、詳しく聞いたわけじゃないけど。元々百合子さんたちのお父さんが学者で、ここで研究している時に二人も日本からやってきたらしいんですけど、なんかの理由でここを管理してた人がやめちゃって、で、お父さんのツテで二人が今引き継いでるとかいう話です。お父さんは引退して日本に帰ったみたいですけどね」
「へえ。暮らすとなるといろいろ大変だろうな」
日本から遠く離れた雪深い異国の地。英語圏でもない。
「女の人だけだから、力仕事とか大変だと思うんですけど、宿泊する人が手伝ったりするんで、なんとかうまくいってるみたいですよ。オレも薪割ったりしますから」
「薪?」
「リビングに暖炉があったでしょう?」
そういえば、小さな暖炉があったと渚は思い出した。小さなグラスに注いだ酒を、くいっとあおって、涼平は渚を見据えた。
 「いいですか、渚さん。女は魔女なんです」
 酔いが回ったな、と渚は思った。これだけの強い酒だ。酔っ払って当然だ。
 「だーかーらー、ここの女の人たちは魔法を使うんです」
 「ここの人たちって?」
 「カンナさんと百合子さんです。オレ、見たことあるんです。暗い夜中のキッチンで、電気もろくにつけず、鍋の中でぐつぐつと何か煮ていたり」
渚はグラスの酒をなめるように少しずつ飲みながら、小首をかしげた。
 「カレーでも作ってたんじゃないの?」
 「違います、ぐつぐつです。きっと、ヤモリの黒焼きや蛙の目玉、ミミズのしっぽを加えて、ぐるぐるとかき混ぜて……」
 「ミミズにしっぽなんてあるかな?」
 「渚さん! 問題はそこじゃないです」
 酔いで赤くなった目を向け、涼平は渚を指差し言った。
「魔女を怒らせちゃいけません」
 「オレはべつに怒らせるようなことはしないよ。君と違って」
 「悲しませてもいけません」
 言いながら涼平はもう一杯ウオツカをあおった。
 「女は魔女、か」
 床の上にごろりと横になったと思った後には、涼平は寝息を立てていた。若いころはこんな無茶な飲み方もしたっけな。相変わらず、ちびちびと酒をなめながら、渚は苦笑いした。

 階下のリビングへ降りていくと、キッチンのほうで物音がした。「イモリの黒焼き、蛙の目玉、ミミズのしっぽ・・・・・」涼平の言葉が甦る。そのせいか、薄暗いキッチンから人の顔が覗いた時には、すぐには声が出なかった。
 「あら、渚くん」
 顔を出したのはカンナだった。渚は手探りでリビングの電気をつけた。
 「そんな暗いところで何してるんですか」
 「驚かせちゃった? ごめんなさいね」
 首をすくめて、カンナはキッチンから出てきた。「手元が見えればいいからと思って、小さな電気しかつけてなかったの。冷凍庫から出しておいたジャムを、煮詰めなおしてたのよ」
 確かに、ベリーの甘い香りが漂っていた。イモリの黒焼き。と、渚は口の中で呟いた。
 「ねえ、渚くん。アイスクリーム食べない?」カンナは、まるで重大な秘密を打ち明けるように、囁いた。
 「今煮詰めたばかりのジャムをかけて」
 「それは素敵ですね」と、渚は答えた。なんだかとってつけたような口調に聞こえたが、カンナは気にもとめていないようだった。
 バニラアイスの上に、とろりと熱いベリージャムがかけられ、さらに上からベリーのリキュールが振られた。
 「うまい!」渚の言葉にうれしそうにカンナはうなずいた。
 「わたし、冬に食べるアイスクリームって好きなの」
バニラアイスとジャムを一緒にスプーンですくいとり、赤紫色とクリーム色が混ざり合う様を横から眺めながら、カンナは言った。
「外はすごく寒いのに、部屋の中は暖かくて。ストーブの前に座って、ちょっと溶け始めたアイスを食べるの。子どものころは、ものすごい贅沢のような気がした」
暖炉の火に照らされて、カンナの横顔は赤く輝いている。
「アイスクリームで作ったデコレーションケーキ、知ってる?」
「ええ」渚はうなずいた。「クリスマスケーキのアイス版みたいな」
「あれをいつか、一人で全部食べるのが子どものころの夢だったの。実際そんなことしたら、お腹をこわしたかもしれないけどね」
首をすくめて笑う表情は少女のようにも見えた。
「でもね、百合子姉さんはやったらしいの」
「えっ! 一人で全部?」
「そう、直径15センチくらいのアイスケーキを、おこづかいで買ってきて、私や両親が寝てしまった後に、一人でこっそり」
「どうして分かったんですか?」
「夜中にトイレに起きた私が見つけたの。姉さん、仕方なく私にもひとさじなめさせてくれたわ」
クスクス笑うカンナの顔が、思ったよりも近くにあることに渚は気づいた。
「それで、百合子さんのお腹の具合は?」
「そうね、そういえばなんともなかったみたい。百合子さんは鉄の胃袋の持ち主なのよ」
鉄の胃袋。だからきっと、魔法の液体を飲んでも腹をこわさないのだ。ヤモリの黒焼き、カエルにミミズ。
「カンナさん、ミミズにしっぽはあるんでしょうか?」
「ミミズのしっぽ?」カンナは小首をかしげたが、次の瞬間、力強く言った。
「ええ、あるわよ」
今ごろになって、酔いが回ってきたみたいだ。それともアイスにかけたリキュールの量が思ったよりも多かったのか。いや、もしかしたらあのジャムこそ、魔女の秘密のレシピの産物なのかもしれない。ああ、オレは酔っている。こんな馬鹿げたことを考えるなんて。
「渚くん、こんなとこで眠っちゃだめよ。風邪をひくわよ」
カンナさんの声も、遠くに聞こえる。
少しずつ、瞼が重くなってきた。スプーンを持ったままの手が、だらりと下に下がってくる。そのまま、渚の体は動きを止めてしまった。

流しにアイスが入っていた器を置き、水を張るとそのままカンナはキッチンを出た。洗い物は明日にしよう。
ソファーに横たわる渚の姿に、やれやれ、とため息をつく。もう一枚、毛布を持ってきておこう。明け方に冷えるかもしれない。
「男の人って、困ったもんだわ」おそらく部屋で寝そべっている涼平の姿を思い浮かべる。今までこの家に泊まった学生たちも、女子の多くが酒を飲んでもきちんと部屋へ戻るのに、男子の多くはリビングや床や、廊下などで酔いつぶれて寝入ってしまう。
渚の体にもう一枚毛布を重ねると、カンナはキッチンへ戻った。少しアルコールが欲しくなってしまった。戸棚の奥にポートワインが入っていたはずだ。ショットグラスに注いで、ダイニングテーブルの端で、グラスを口へ運ぶ。視界の端で、渚が寝返りを打つ。なんだか不思議な人。ふらりと氷点下の世界へやってきた男。
寝顔は少年のようにも見えるけれど、それなりの年を重ねているように思える。結婚は―、恐らくしてないのだろう。していたら、いくら休みとはいえ、こんな気まぐれを起こすことはできないはずだ。
寝返りを打った渚の手が、額に触れ、やがて、じわりと上体が起こされた。
「アイスを食べながら寝ちゃったのよ」
カンナは自分から先に声をかけた。毛布に目をやり、「すみません」と渚は頭を下げた。
冷蔵庫から水を出し、グラスに注ぐと、カンナはテーブルに置いた。「どうぞ」渚は頭を下げ、カンナの向かい側に座った。
「涼くんとウオツカを飲んだんでしょ。あれは火がつくほど強いお酒なんだから」
渚は額を指の背でこつこつと叩き、きまり悪そうに笑った。
「普段はこんな無茶な飲み方はしないんですけど」
「休暇中ですからね」
渚はもう一度水を飲み、視線をグラスの中に落としたまま言った。
「このところ、いつもの自分ではしないようなことばかりしてます」
「そう?」
「普段は自分の中で決めたルールに従って、毎日を生きてるんです。たとえば、朝の電車は、必ず6号車の2番ドアから乗って、乗り換えた地下鉄では5号車の3番ドアから中へ入る、とか」
「面白い。ラッキーナンバーとか? 乗り換えに便利だから?」
「まあ、それもあるんですけど。なんというか、いつのまにか自分の中で決めたルールなんです。そんな、自分の中の小さなルールに従っていれば、毎日は大差なく過ぎていく。これといって、大きな問題もなく。でも、あの日、ルールを破ったんです」
渚は再び水を飲んだ。喉仏がゆっくりと動くのをカンナは無言で見ていた。
「もし、電車を降りず、どこか遠い所へ行ってしまったらどうなるだろう。そんな想像が、時々頭の中に浮かんで。でも、想像していただけでした。それまでは。ある日、乗り換え駅で、降りそびれた。気づいた時には、乗り込んできた人の波に押され、目の前のドアは閉ざされてしまった」
そこで息をつき、渚は暗い部屋の壁を見据えた。
「ぼんやりしていて乗り過ごしてしまった、と思ったけれど、目をつぶっていても歩けるくらいのいつもと同じルートです。無意識のようで実は意識的に降りないことを選んだのかもしれません。とにかく、毎日の小さなルールは破られたわけです」
「それでどうしたの?」
「そのまま終点まで行きました。なぜか、次の駅では降りなかった。降りることができなかった。そして、折り返しの電車に乗り、降りるはずだった駅へ戻り、会社へ行ったんです。遠くへ行ってしまうほどの度胸もなく、でもすぐに引き返すこともできず」
「会社は大丈夫だったの?」
「普段なら問題なかったんです。実際には始業時間から十分も遅れていなくて、ホント中途半端なんですけど。部長が待ち構えていて、何やってたんだ、と怒鳴られ、そのままほかの部員全員と一緒に会議室に入るよう言われました」

「我が部は、明日から休暇に入る」
そう、部長は宣言した。
「有給もたまっているだろう。休暇の期間は未定だが、1カ月程度と思ってもらっていい。これは業務命令だ」
不況の影響で、仕事量は激減しており、業務調整が必要だった。いろいろな噂は飛び交っていた。だから、このことは、ずっと前から決まっていたことのはずだ。
「でも、おかしな話ですが、もし、いつもどおりの電車に乗って、いつもどおり出勤していたら、こんないつもと違う出来事は起きなかったのではないか、そう思えるんです」
渚の言葉に、カンナはうなずいた。
「分かる気がする」
ルビーポートの甘い液体が、喉を滑っていく。カンナは唇をきゅっとつぐんでから、ゆっくりと開いた。
「よく、変化を求めるなら、同じ行動ばかりしていてはダメだ、なんて言うでしょう。いつもと違う行動をとることは、なんらかの変化を呼び込むことにつながるのかもしれない。それはよいものかもしれないし、悪いものの場合もあるのかもしれない」
カンナはグラスをくるりと回した。
「後で、元に戻したくても、もう戻せない。よい変化も悪い変化の場合でも」
しんとした夜だ。また雪が降りだしたのだろうか。
「ごくたまに、考えることがあるの。もし、人生をやりなおせるなら、何歳に戻りたいか、とか。今までの自分の行動を、すべてなかったことにできたら、リセットしてしまえたらいいのに、なんて、他愛もない想像だけど」
「もし戻れるなら、何歳に戻りたいんですか」
カンナは渚を振り返り微笑んだ。そうして小首をかしげ、少し考え込む。
「そうねえ、大学生のころかなあ」
「大学生?」
「あのころ、好きな先輩がいたのに、言えないまま終わったの。同じ方向だから一緒に帰ろうか、って誘ってくれたのに、なぜか私、変に意識しちゃって、遠回りになるのに、女友達と一緒に帰る、って言っちゃったの」
カンナは首をすくめ、笑った。
「もしあの時、一緒に帰っていたら、その後の生活は変わっていたかもしれない、とか。不思議ね、ずいぶん前のことなのに、こんなにスラスラしゃべっちゃって。よっぽど後悔してたのかしら、わたし」
その言葉に嘘はない。でも、カンナが戻りたいのは、本当は別の瞬間なのではないか。なぜか渚にはそう思えた。きっとそこには、カンナの後悔のポイントがあるのだ。
「ねえ渚くんは、オーロラを見たことあるの?」
「いいえ、ないです。オーロラは、ここへ来た一番の理由かもしれません」
そういえば、と渚は思い出す。あの電車を乗り過ごした日、駅の構内にある旅行代理店の前で、「北欧オーロラツアー」のパンフレットを、横目に見たのではなかったか。
「冬になると雪深くて、暮らすには不自由が多いけれど、あのオーロラを見ると、ここにいることができてよかった、と思えるのよね」
カンナは宙に目をやり言った。まるでそこにオーロラが浮かんでいるように。
「オーロラ、いつ見れますかね」
「心配しなくても、そのうち現れるわよ。しばらくここにいるんでしょう?」
「ええ、そのつもりです」
「今日は、無理そうだけど」
カンナは窓に近づき、カーテンの隙間から外をのぞいた。雪が降っているらしい。
「こんなに静かな夜は久しぶりです」
渚は水の入ったグラスに視線を落とし、言った。
「東京の家は、夜中でもどこからか車が走る音が聞こえてくるし、こんな暗闇なんて都会ではお目にかかれない」
「私も最初にここへ来た時には、少し戸惑ったわ。東京ほどの大都会じゃないけど、私が住んでいた町もそれなりに明るく、ここよりはうんとにぎやかだったから」
「雪が降る音まで聞こえそうですね」
渚はカーテンの隙間に目を向けた。
「聞こえるようになるわよ。そのうち」
カンナは目を伏せ、髪をかきあげ、耳を出した。すっとした、形のよい耳だ。小さな音でも聞き漏らさないような。渚も目を閉じ、耳を傾けた。何かの気配を感じることができるような気がした。
雪の振る音。それとも、闇がその濃さを増していく気配。
「そろそろ部屋へ戻ります」渚は立ち上がった。
「おやすみなさい」カンナが言った。
「おやすみなさい」渚も言った。そんな言葉を誰かと交わすのは、ずいぶん久しぶりのように思えた。

   (つづく)

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