オーロラの夜(3)/小説
部屋の窓から外を覗いても、オーロラが出ているかどうかは分からない。やはり、外へ出て空を仰がなくてはならない。
ここへ来てから、毎晩、一度は外へ出て空を見上げることにしている。渚は上着を着て、マフラーを首に巻きつけ、ニット帽をかぶり、外へ出た。空は暗く、星もほとんど見えない。今夜もまた、空振りに終わりそうだ。それどころかまた、ちらほらと雪が落ちてくる。
「雪を見るのは好きだけれど、オーロラが見れないんじゃ困るな」呟いて、渚は室内へ戻った。
「今夜もだめみたいね」
リビングから、カンナが顔をのぞかせた。
「渚くん、冷えたでしょう。ホットワインどうぞ」
「百合子さんのホットワイン、うまいですよ」と涼平が呼びかける。渚はマフラーを取り、帽子を脱ぎ、上着も脱いで、リビングへ入った。中はほかほかと暖かい。
「さ、どうぞ」
百合子がマグカップを差し出してくれた。
「あー、あったまりますね」
スパイスが香る甘いワインは、体の奥まで温めてくれる。
「寒い冬はこれに限ります」そう言いながら、涼平は既に2杯目を飲んでいる。
「明日、犬ぞりでも行きませんか」と涼平が言う。
「オプションで?」と渚は笑いを含んだ声で返す。
「そう、オプションで!」と涼平も笑う。
「犬ぞり、楽しいわよ」とカンナが言った。マグカップを手の中で揺らしながら、中のワインを覗き込む。
「けっこうスピードが出て、なかなかスリルがあるの」
「カンナさんも一緒にどうです?」涼平が言った。
「えっ、わたし?」
「あら、いいわね。いってらっしゃい」百合子が口を添える。
「そうですよ。犬ぞり、二人乗りだし、ちょうどいいです。割り引きしときますよ」
「まあ、私も客にするのね」カンナは笑いながら、少し考える素振りを見せた。
「どうせ明日の予定もないし、オレは犬ぞり、頼むよ」
渚は言った。
「ご利用ありがとうございます」と、涼平は殊勝に頭を下げる。
「そうね、私も久しぶりに乗ってみようかな」とカンナが言った。
10頭近い犬たちが連なり、猛スピードで駆け出す。想像していたよりもずっと速いスピードに、渚は面くらったが、しっかりと目の前の綱を握り締めた。隣ではカンナが同じようにソリにつながれた綱を握り締め、少し硬い表情で前を見据えている。二人の前では、手綱を握った男が、自在にソリを操り、駆け抜けていく。
細い道をソリは傾きながら駆け抜け、カンナが歓声を上げた。
「すごいスピードですね」
渚の声も風にかきけされそうだ。
ふと、カンナの視線が宙に向けられた。空を仰ぎ見る。今朝は久しぶりに晴れている。何日ぶりかで青い空が見える。
「あぶない」
カンナの体がぐらりと揺れ、渚は思わず彼女の肩をつかんだ。ハッと我に返り、カンナは綱を握り締めた。
「ありがとう」
ソリはさらにスピードを増していく。昨夜のように、カンナの顔は少し青い。
「だいじょうぶですか? 止めてもらいましょうか」
と言っても、言葉はほとんど分からないのだが。まあ、ストップ、くらいなら通じるだろう。
「だいじょうぶ、ちょっとよそ見してしまっただけだから。わっ、カーブ!」
再び歓声を上げ、カンナは笑顔を見せた。頭上の木の枝から、バサッと音を立てて雪が落ちかかる。「うわっ」渚は思わず頭を抱えた。
犬たちが動きを止めた時には、二人の頭や肩には雪が白く残っていた。犬ぞりを操っていた男性が、にこにこと笑いながら、何事が話しかける。到着地点で待っていた女性が、二人にマグカップを差し出す。カップからは湯気が立ち上り、甘い香りが漂う。
「これ、なんですか?」
甘酸っぱく温かい液体が、喉をすべっていく。
「ベリージュースよ。冬は温めて飲むの。あったまるのよ」
カンナは両手でカップを抱え、言った。
「まだまだ知らないことがありますね」
「当たり前よ。まだ1週間も経ってないんだから」
そうだ。それに、まだオーロラも見ていない。
「今日は久しぶりに晴れたから、期待できるかもよ」
とカンナは空を仰いだ。長く顔を見せなかった太陽が、雪をキラキラと照らしている。雲の切れ間から、青い空が広がり始めていた。
その日の夕方には、赤い夕焼けが辺りを染め、雪の色もほんのりとピンクに変えていった。
「これはいいですよ、渚さん」
仕事を終えて帰ってきた涼平が言った。
「久しぶりの夕焼けだ。今夜は期待できるかもしれません」
そういわれると、渚の気持ちも高まる。
「オーロラが出るのはたぶん、もっと遅くなってからです」という涼平の言葉に従い、夕食の後、リビングで酒を飲みながら待つことにした。おなじみのウオツカをちびちびと飲んでいると、「これはベリーのリキュール」と涼平が黄色い木苺のような絵が描かれたボトルを取り出した。
「冬の間、ビタミン不足を防ぐために、ベリーのリキュールに、さらに冷凍しておいたベリーを入れて飲んだりするんです」
涼平が黄色いベリーをグラスに落とす。
「すっぱい!」ベリーの味は、きゅっと強い酸味を運ぶ。
「そんなに飲んでるとまた寝ちゃうわよ」とキッチンのほうからカンナの声が聞こえてくる。
「ちょっと見てきます」
と言って、涼平は上着を着込み外へ出たが、しばらくして「まだです」と首を振りながら戻ってきた。
だんだん、瞼が重くなってくる。
「渚さん」
涼平に呼びかけられる。少し、目を閉じてしまっていたようだ。その時、リビングに入ってきた百合子が、厳かな声で言った。
「来た!」
「えっ? 姉さん何が?」
「百合子さん、来ましたか」涼平が声を上げる。
渚の顔をまっすぐに見据え、百合子は天に向かって指を向けた。渚はソファーから飛び起き、マフラーを巻いた。
「見てきます」
「渚さん、大丈夫ですか」
涼平の声にも振り返らず、渚は手袋をはめ、ドアを開けた。空に目を向け、渚は息を呑んだ。緑色の光の帯が、闇の中に浮かび上がり、ゆらゆらと揺れ動く。庭を歩き、少し開けた場所まで歩く。光の帯は次々に生まれ、やがて空全体を覆いはじめる。
「これが、オーロラ」
緑の中にうすい黄色や青が混じっているようにも見える。星のちらばる夜空が、光の帯に覆われていく。
渚は、雪の中をずぶずぶと足を動かし、道の真ん中で空を仰いだ。やっと見れた。オーロラだ。
渚は雪の中に足をつっこみながら、小高い丘のような場所に登った。さっき飲んだウオツカのせいか、体がふわふわとして、手足に力が入らない。夢の中にいるような気持ちだ。本当に夢なのかもしれない。
ゆっくりと地面に膝をつき、空を見上げる。顎を反らし、体を反らす。そのまま地面に仰向けに倒れた。手足を広げ、体全体で空を仰ぐ。体に地面から少しずつ冷たさが伝わる。吐いた息が冷たい氷のカケラを作る。
この世ではない世界につながる道。そんな言葉もまんざらではないように思える神秘的な眺めだった。どこからか、耳鳴りのように、音にならない音が聞こえる気がする。酔いのせいなのか、それとも、オーロラが聞かせる幻聴なのか。瞳の中で光の帯が踊る。少しだけ、目を閉じた。
「ちょっと」
誰かの声が聞こえた気がした。
「ちょっとあなた、起きなさい」
「ナギサくん!」
目を開けると(正確には誰かの手で目をこじ開けられた)、二つの顔が上から覗き込んでいた。
「あなた、いくら防寒着着ていても、こんなところで眠ってしまったら凍えちゃうわよ」
「そうですよ」
のんびりとした声が相づちをうつ。
「渚さん、飲みすぎですよ」もう一つの顔が覗き込む。
渚はゆっくりと身を起こした。
「あらいやだ、ニヤニヤしちゃって、頭でも打ったんじゃないでしょうね」
渚が起き上がると、二人の女性が両脇から彼の体を支えた。
「私たちはカヨワイ女性ですからね、あなたみたいな大の男を背負えませんよ」
「そうそう、ちゃんと自分で歩いてちょうだい」
「大丈夫です、ちゃんと歩けますよ、カンナさん、ユリコさん」
「よかった、頭もしゃんとしてきたようね」
二人は渚を振り返り微笑んだ。雪にまみれた防寒着が、少し重く感じる。涼平が近づき、渚の腕を取り、立ち上がるのを手伝った。
「あれがオーロラなんですね」
立ち上がった渚は、もう一度空に目を向けた。
「ええ、そうよ。あれがオーロラです」
「せっかくだから、少し見ていきましょうよ。今夜のオーロラはなかなか大規模ですよ」涼平が言った。
四つの顔がゆっくりと、空に向けられる。
北極圏の、名前も知らなかった町で、つい数日前まで名前も知らなかった人たちと、一緒にオーロラを見ている。
渚はそっと両側に立つ3人の顔を眺めた。
空一面に広がった緑の光は、まるで意思を持ってでもいるかのように、ゆらりゆらりとその形を自在に変えながら、揺れ動き続けていた。
「オーロラ…」カンナが小さく呟いた。渚が振り返ると、その瞳はどこか遠い遠いところを見つめているように、頼りなく揺れていた。隣に立つ百合子が、そっとカンナの手を握るのが、視線の端に映った。
「さあ帰りましょう。ホットワインでも作りましょうね」百合子が言った。
なぜか突然、「シアワセ」という言葉が胸に浮かんだ。
それは、銀色の箱だった。
窓もない、扉もない。四角い、箱のような空間。鈍く光る銀色の世界。
誰かが中央に座り込んでいた。黒く長い髪が背中に広がる。
「カンナさん」
渚は呼びかけた。なぜか、その後姿はカンナだと、渚は確信していた。カンナはびくりと肩を震わせ、振り返った。
「どうしてここへ」
「え?」
渚はゆっくりとカンナの元へ近づいていく。
「なぜあなたが、ここにいるの?」
黒い瞳が揺れている。なぜカンナが驚いているのか、渚にはよく分からない。それにしても、不思議な空間だ。どこにも、出口が見えない。
「ここは、誰も知らない。ここへは、誰も入ってこれないはずなのに」
そういえば、と渚は考えた。自分はどこから来たのだったか。だってここには、扉がないのだ。渚は後ろを振り返ろうと思うが、なぜか体は前へ前へと進んでいく。首を動かすことができない。
「帰りましょう、カンナさん」
帰る? どこへ? 扉はないのに。
渚の口は、勝手に動く。
「帰りましょう」
カンナは目を伏せ、首を振った。
「帰らないわ」
「帰りましょう」
「私はここから出ないと決めたの」
渚はゆっくりと視線を動かし、頭をもたげた。窓には分厚いカーテンがかかっている。体を起こすと、首や脇に汗をかいていた。なんだかおかしな夢を見ていた気がする。
サイドテーブルにおいていたグラスの水を飲み干す。
急に目が冴えてしまい、渚はベッドに腰掛け、ぼんやりと壁に目をやった。目を閉じると、瞼の裏で、ちらちらと、今夜見たオーロラの光が揺れているような気がした。
カンナはカウンターの端に腰掛け、水をいれたグラスに口をつけた。まだ、胸がどきどきするような気がする。
あれは、なんだったのだろう。
小さなキッチンには、かすかに甘い香りが漂う。百合子がジャムを煮詰めなおしていたのかもしれない。
この家には、キッチンが二つある。リビングルームに続く大きなキッチンのほかに、百合子とカンナがプライベートで使うこの小さなキッチンの二つだ。宿泊客がいないときは、二人はもっぱらこのこじんまりとしたキッチンとリビングにいることを好む。二人で過ごすにはちょうどよい大きさだ。
「カンナちゃん」
いつのまにか、百合子が来ていた。
「どうしたの。眠れないの」
百合子はカンナの隣に座り、眼鏡の奥の瞳を細めた。
「いいえ、寝ていたんだけど目が覚めちゃったの」
「そう。ホットワイン、飲む?」
「飲みたい」
「ねえ、カンナちゃん、知ってた?」
百合子はスパイスと蜂蜜の甘い香りが漂うホットワインのマグカップを差し出し、声をひそめた。
「私が魔法を使えること」
「なに、姉さん。魔法?」
「そうよ。このホットワインに魔法をかけたの。これを飲むとぐっすり眠れるのよ」
カンナは少し笑った。
「そういえば、これを飲むといつも、すぐに眠くなるのよね。でも、アルコール強いし」
「それだけじゃないの。魔法の力も入ってるのよ」
自信たっぷりにそう言って、百合子は自分もマグカップに口をつけた。立ち上る湯気が眼鏡を曇らせる。
「姉さん」
「何?」
「ありがと」
百合子は黙って微笑んだだけだ。
「一緒に来てくれて、ありがとう」
翌朝、渚はかすかに頭痛を覚えながら、目を覚ました。確か二日酔いに効くビタミン剤があったはずだ、と荷物を探る。その時、何か冷たく堅いものに手を触れた。飛行機を降りて以来、電源を切ったままのスマートフォンだった。電源を入れてみる。スマホは突然息を吹き返したかのように、光を放ち始めた。
「そろそろ、帰ります」
朝食のテーブルで、渚は口を開いた。百合子がパンにバターを塗る手を止め、涼平は口に運びかけたコーヒーのカップをテーブルに戻し、隣に座る渚に向き直った。
「どうしたんですか、急に」
「仕事がね、来週から再開することになった」
「1カ月くらい休みのはずだったんじゃないですか」
「事情が変わったんだ」
「勝手だなあ」腑に落ちないというように腕を組みながら、それでも涼平はしぶしぶ言った。
「日本の会社のことはよく分かりません。でも、渚さんが帰らなきゃというなら、帰らないといけないんでしょう。もうちょっと一緒に飲めると思ってたんですけど」
「また酒の相手か」渚は苦笑いした。
カンナは黙って手元のカップに視線を落としていた。
「まだ帰りの飛行機の予約を確定してないんで、決まったら報告します」渚が言うと、カンナは顔を上げ、黙ってうなずいた。
電源を入れた途端、アプリやメールの通知が一斉に届いた。未読メッセージの数を示す赤い表示を、渚はぼんやりと眺めた。便利になったものだ。こんな北極圏の町にまで、日本からの電波が届くなんて。
その日は、パソコンを借りてネットで帰国便の手配をしたり、会社の同僚と連絡をとったりで、午前中がほとんどつぶれてしまった。気がつくと1時をとっくに過ぎていた。
「お昼、まだでしょう。よかったら一緒にどうぞ」
リビングへ下りて行くと、キッチンにいたカンナが声をかけた。基本は一泊二食だが、こんな風に昼食も出してもらえるのがうれしい。
「ありがとうございます」
アンチョビ風味のパスタだった。唐辛子がぴりりと効いている。
「姉さんはスパに遊びに行ったの。姉さんったら、顔なじみの友達もいるのよ」
「いいですね、スパがこんな近くにあって」
涼平が言っていた、なんでも日本語で通す百合子の姿を想像して、渚は少し笑った。
「もう来週には日本ね」カンナがぽつりと言った。
「ええ、帰ります」
「満員電車に揺られる生活へ」カンナが言う。
「同じ駅から乗り、同じ駅で降りる生活に」渚も続ける。
二人は顔を見合わせ、目元で小さく笑った。
「カンナさんは、しばらく日本には帰らないんですか」
「ええ、私は帰らない。ここにいる」
渚の脳裏に、不意に夢の中の光景が甦った。銀色の箱のような空間。窓もなく、扉もない。どこにも行けない閉ざされた世界。
「私は帰らない。私はここで待ってるの」
何を?と聞いてみたかったが、渚は黙ってカンナの顔を見つめただけだった。フォークを動かしながら、言葉を探す。
「なんだかまた、ここの人たちには会えるような気がします」
カンナは微笑む。
「じゃあ、さよならって言わないでね。最後の日に」
その日、空はすっきりと晴れ渡り、雲の数も少なかった。この分ならオーロラが見えそうだ、と思うと今日出発するのがもったいない気がした。
「渚さん、荷物これで全部ですか」
空港まで送ってくれる涼平が、トランクに手をかけ、渚を振り返る。
「これで最後だよ」渚は手にしていたボストンバッグをトランクに積み込んだ。百合子とカンナがみやげに、と手作りのジャムと、渚が気に入って毎日かじっていたショートブレッドをくれた。涼平は、ウオツカを1本用意していてくれた。
「お世話になりました」渚が百合子とカンナに向かって頭を下げると、百合子が一歩前に進み出て言った。
「私、魔法をかけさせていただきました」
「えっ?」百合子の言葉に渚は目を見開く。
「また会えるように、という魔法です」眼鏡の奥の目が笑っている。
「じゃあ、きっとまた会えますね」渚も笑ってうなずいた。
「元気でね」カンナが日の光に、まぶしげに目を細めながら言う。
「ありがとうございます。じゃあ、また」
渚の言葉にカンナは微笑んだ。
「またね、いつか」
「渚さん、行きますよ。混んでたら飛行機の時間に間に合いませんよ」
涼平が車の前から声をかける。あの道が混むことがあるのだろうかと思いながら、渚は「分かった」と答えた。
「ここにいる間は、本当に楽しかったです。また、きっとオーロラを見に来ます。今度は珍しい赤いオーロラを」
渚が振る手に、日の光が落ちる。百合子とカンナは、家の前に立ち、手を振り続けた。車が見えなくなってからも、二人はしばらくその場を動かなかった。雪の上にタイヤの跡が、くっきりと線を作り、空港までの道へと続いていった。
渚は、窓から空を見上げた。青い空から太陽の光が降りてくる。今、この瞬間も、目に見えないだけで、広い空には、オーロラの光の帯が、一面に広がっているのかもしれない。渚は目を閉じ、青空を踊る光の姿を思い浮かべた。その光は、自在に空を舞い、渚の瞳の奥には、うす赤い光の帯が、いつまでも揺れていた。
(おわり)
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