桜と小さな幸せ
今年も桜の時期を迎えた。
青空と桜、なんてきれいなのだろう。桜の下では誰もが幸せそうに見える。車いすのお年寄りが、介護者と一緒ににこにこして桜を見上げている。工事現場で休憩している男性たちも、桜の大木のもと、なんとなく晴れやかだ。真新しい大きなランドセルを背負って、スーツを着た女の子が、桜をバックにお母さんに記念撮影してもらっている。せっかくのお天気なので「前撮り」というやつか。
そういえば、東京で暮らすようになって、わざわざ「お花見」として出掛けることが少なくなった。
上京したばかりの頃、桜の名所で知られる新宿御苑を訪れ、友人とレジャーシートを広げて酒盛りをしたのはいいが、トイレの長蛇の列に参ってしまった。田舎で生まれ育った私は、東京でのお花見とはこういうことなのかと思い知った。
この件で懲りたこともあるが、それ以上に、東京は桜の本数、それもソメイヨシノがものすごく多くて、家のまわりでお花見ができる気がする。
私の育った地域では、ソメイヨシノの桜並木を見ようと思ったら車で出掛けなければならなかった。ところがいま住んでいる東京の街では、自宅から最寄り駅までの間にも、立派な桜並木がある。
通勤電車の中からは、あちこちがピンク色に染まっているのが見える。
息子の通う小学校には、立派な古木がある。校庭の隅に植えられているのだが、たくさんの枝が横に向かって伸びているので、花が咲くとそれは見事だ。散った後は、あたり一面、ピンク色のじゅうたんを敷いたようになる。
東京の人って桜が好きなんだなあと思う。
そして私も、桜が大好きだ。
おかしなことに、桜が咲くと毎年、「今年も元気で桜を見ることができた。感謝感謝」という思いがこみ上げる。20代の頃からだ。正月も誕生日もそんなことは思わないというのに。桜を見上げると、自然ににっこりしてしまう。桜を見て嬉しそうな人を見ても、良かったねえ、桜っていいよねえと思う。
仕事では相変わらず対処すべき事柄に追われているし、子どものことでは悩みが尽きない。桜が咲いたからといって、何も解決していない。それでも「良かったな、幸せだな」と思うことができた。ああこれこそが、「小確幸」なんだなあと思う。
小確幸。一緒にこのnoteを制作しているShokoが以前こちらに書いた記事で、私は初めて知った。
村上さん、とは作家の村上春樹さんだ。
最近たまたま手にとった本にこんなくだりがあってびっくりした。
私が驚いたのは、この本、韓国の人が書いているからだ。
このエッセイに、まるで「もちろんみんな知ってる言葉だけど」のようなニュアンスで登場する。小確幸、そんなに認知度高かったのか!
この文章は、“幸せは「大きさ」じゃない。「頻度」だ”と題したエッセイに登場するが、これがとても良い。
コロナウイルスが流行して日常生活は一変した。北の国ではいまも戦火に怯える人たちがいる。
ここ数年で、私たちは当たり前のことが実は当たり前ではなかったことを嫌というほど思い知った。だからこそ、目の前にある小さなきらめきを大切に、大切に掬い取る作業が「生きる」ことをつないでいく、貴重な手段なのだと思う。
桜が咲いた。そして今年も桜を見ることができた。この重みを改めてかみしめている。
text&photo Noriko ©elia
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