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山口県長門に移住する(79): 祖母の誕生日に

今日、
8月4日は、
私を育ててくれた
祖母の誕生日。
 
祖母は、
1895年(明治28年)生まれ。
 
明治28年は、
日清講和条約が、
この山口のまち
下関市で交わされた。
 
祖母が亡くなって
今年で41年。
 
41年経っても、
祖母のことを思い出すと
泣けてくる。
 
懐かしい、だけでなく、
何もしてあげられなかった
自分が情けなくて。
 
私が2才の時に
母が家を出た。
 
以来、祖母が
私を育ててくれた。
 
それは、それは、
大切に。
 
祖母は、いつも、
着物に
パリッと糊の利いた
白い割烹着を着ていた。
 
小さな頃は、
その割烹着の胸に
顔を埋めて
祖母に抱きついた。
 
祖母の膝に頭をのせて、
耳掃除をしてもらうときの
安らかさ。
 
耳の中が
すっかり綺麗になっても
膝から離れない私の顔を
耳かきの綿で
優しく撫でてくれた。
 
台所から、
「絵里ちゃ〜ん!」と
祖母が呼ぶ。
 
行ってみると、
だし巻きの端っことか、
しめ鯖の尻尾とかを
口に入れてくれる。
格別に美味しかった。
 
祖母は、
88才で亡くなるまで、
好奇心旺盛で
学び続ける人だった。
 
亡くなる直前は、
本を見ながら、
籐編みのカゴを
作っていた。
 
漁師の家に生まれ、
兄弟も多かった祖母は、
尋常小学校さえ
満足に行けなかった。
 
だから、
読み書きは、
ほぼ独学だったらしい。
 
和裁も洋裁もできた。
お料理も上手で、
明治生まれなのに、
マヨネーズや
カスタードクリームを
手作りした。
 
私は祖母がつくる
コールスローや
サンドイッチが大好きだった。
白菜の糠漬けも絶品だった。
 
学びを楽しんで、
学び続けた祖母は、
私のロール・モデル。
 
愚痴らず、
文句など一切口にせず、
祖母は、粛々と日々を紡いだ。
優しさの中に、
いつも凜とした
美しさがあった。
 
祖母が亡くなる頃の
私は愚かで、
自分がどれほど
祖母に愛されていたか、
それが、
どんなに有り難いことだったか、
ちっとも分かっていなかった。
 
何のご恩返しも
できないまま、
祖母は逝った。
 
おばぁちゃん、
本当にごめんね。
 
おばぁちゃんには、
遠く届かないけど、
私ももっと頑張ります。
見守っていて下さい。

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