文書2

Agust D "ディス"の根底にあったもの

BTS(防弾少年団)のラッパー、SUGAことミン・ユンギの、Agust D名義のミックス・テープ『Agust D』が公開されてちょうど3年が経つ。

「仕事を奪われる兄さんたちの妬み、嫉妬の騒音」「俺よりラップ下手なんだから転職しろ」と、BTSのCypher(ラッパーのRM、SUGA、J-HOPEが参加し、ヒップホップならではの"ディス"ラインを畳みかけ、ゴリゴリのハングリー精神を見せつける)シリーズに輪をかけて攻撃的なディス。サビには「俺のtongue technologyでイかせてやるよ」のパワーワード。同作について、ファッション誌「GRAZIA」のインタビューで

「やりたいことは全部できました。(中略)大衆性を気にすることなく、音楽ランキングにこだわる必要もなく、作業をしました」

と語っていたのを読み、「本当にやりたい放題だな(笑)」と思ったのも懐かしい思い出だ。

だが一方で、私には若干の違和感があった。このディスが純粋なヒップホップ文化に則していると捉えづらかったからだ。彼は「ヒップホップ性愛者」(2014年発売のアルバム『DARK & WILD』収録曲タイトル)であるにもかかわらず。

ミックス・テープを聴き進めるうちに、私はさらに頭を抱えることになる。

不穏な空気への扉が開かれるのは7トラック目「마지막 (The Last)」。ダークなヒップホップチューンだ。そこで歌われるのは、自己嫌悪やうつ病で対人恐怖症を発症して両親とカウンセリングに行ったこと、伏せられてはいるがおそらく自殺未遂の経験があること、そして、商業的に成功してもなお苦悩が終わらないこと、アイドルラッパーと揶揄されることへの嫌悪感と絶望。あまりに直接的な告白は、多くのファンに衝撃を与えた。

そして、8トラック目「Tony Montana (Feat. Yankie)」を挟み、次の「Interlude ; Dream, Reality」からはガラッと世界観が変わる。悲壮感漂うアンビエントなピアノの音色。曲中で発せられる言葉は〈Dream〉のみ。しかし曲名を見ると、夢のあとには現実がある。夢を描き、追い続けても、最後には果てしない暗闇のような現実しか残っていない。そう訴えるように。

そしてとどめは最後の収録曲「so far away (Feat. 수란 (SURAN))」。「Interlude ; Dream, Reality」を引き継ぐような音のなかで、SUGAは吐露する。

〈死ぬこともできずに生き続けてる〉
〈みんな進んでるのに なんで俺だけここにいるんだ〉
〈俺自体消えてしまえ/こうやって世界は俺を捨てる〉

自信満々でディスを畳みかけ、煽りまくり、舌テクノロジーなどと言っていた人物とはまったく違う。これはまるで遺書だ。

SURANの歌声はさながら女神のように響く。それが余計に、SUGAが極端な選択をしてしまうのではないかと不安を駆り立てる。そんなふうに、ファンを混乱と不安のどん底に突き落としたところで『Agust D』は終わるのだ。

ヒップホップ性愛者であるミン・ユンギに、ヒップホップの王道を外させたもの。そしてここまで極端な作品を作らせたもの。それは一体何だったのだろうか?

それを紐解くために、ユング心理学の観点から迫ってみよう。

ユング心理学が生んだ文学「デミアン」

なぜユング心理学なのかというと、BTSに間接的な影響を及ぼしていると考えられるからだ。

ファンにとっては周知の事実だが、BTSの青春3部作~「WING」の主要MVは、小説「デミアン」からインスピレーションを受けて作られている。

青年・シンクレールの自己探求の物語である同書は、ちょうど、真の自己を求めて彷徨う7人に重なるものがあったのだろう。そのなかにはもちろんミン・ユンギもいる。

著者であるヘルマン・ヘッセは「デミアン」を書き上げるまでに、60回に及ぶユング心理学の精神分析治療を受けていた。そのため、シンクレールが自己へたどり着くプロセスは、ユング心理学の精神分析と似通っている。つまり、BTSは間接的にユング心理学にふれているといっていいだろう。

というわけで、ここからはユングが確立した「自己」の概念を、『Agust D』の違和感と混乱を解明する手立てとして使っていく。

心の大半は"無意識"が占める

「デミアン」では、主人公シンクレールが「自我」と「自己」の違いを経験する。この2つは一体何なのか。

私たちの心の中には、私たちが「意識」できる部分と、「無意識」の部分が存在している。前者は自我(EGO:エゴ)、後者は自己(SELF:セルフ)だ。意識的にコントロールできる自我とは異なり、自己は「無意識をすっかり満たさなければ叶えられないもの」である(「デミアン」では、自己の実現こそが、シンクレールが目指す”アブラクサスの共同体”への到達となっている)。

例えば「お金を手に入れたい」「恋人がほしい」といったものは自我にあたる。これらの欲求に私たちは意識的だ。

しかし、意識できるにも関わらず、それらは叶わないときがある。それは、無意識の部分が「お金がない」「恋人がいない」という状態で満たされているためだ。その潜在意識がそのような現実を引き寄せている、という考え方をする。

ちなみに、近年話題になった「アファメーション(affirmation)」はこの無意識を操る方法だ。ノートなどに「私には十分なお金があります」「私には素敵な恋人がいて、今とても幸せです」と書き、繰り返し潜在意識に刷り込むことで、それを実現させようとする取り組みである。

話を戻そう。人間の心の中の意識と無意識、そして自我と自己の関係は以下のようになっている。

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意識できる自我は心における上澄みのようなもの。それ以外の大半は無意識である自己が占める。そして、それが行動、運命までも左右していく。

ミン・ユンギの「自我」と「自己」

ここからはあくまで私の考えだが、ミン・ユンギという人間の「自我」と「自己」は、以下のようなものだったのではないだろうか。

■ 意識できている「自我」
・かっこいいハードヒップホップをやりたい
・夢や希望を語っていきたい
・影響力のある人間になりたい

Cypherシリーズや「Agust D」などのハードなヒップホップを好き好んでやったり、BTSの名曲「Tomorrow」などに若者の背中を押すメッセージを乗せたり、GRAZIAのインタビューで「慈善事業に取り組みたい」と発言したりする様子からは、ミン・ユンギの「こうなりたい」といった自我を感じる。それはもちろん、本人が意識している部分だ。その一方で、

■ 無意識の「自己」
・アングラ時代の劣等感
・精神を病んだことのコンプレックス
・繊細な自分への嫌悪感
・アイドルであることへの拒絶

インタビューで「夢や希望を語るのが好き」と語りながら、リリースされたものは攻撃的でダークで、悲壮感が漂ったミックス・テープ。ミン・ユンギの無意識をすっぽり覆い、根強く存在している劣等感やコンプレックスが、彼の行動を決定づけているのではないかと考える。

あのディスが”王道”ではない理由

前述した「Agust Dが純粋なヒップホップ文化に則したものだとは捉えづらい」という違和感も、この自己の部分に繋がるのではないかと思う。

ディス自体はヒップホップ文化の王道だ。だが、歴史的に見ると以下の3つのどれかに分類されることが多い。

① 下の立場から上の立場へ吠える下剋上スタイル
② 地域対決スタイル
③ 同等の人間が、シーンを活性化させるためにわざと仕掛けるスタイル

K-POPでもこの王道ディスは繰り広げられている。BTS関連では、iKONのBOBBYがBTSのRMをディスった「2014 Mnet Asian Music Awards」の出来事が有名だろう。

当時BOBBYはデビュー前。韓国の人気番組「SHOW ME THE MONEY」で活躍したため知名度はあったが、キャリアやセールスで言えば比べる間もなくRMが上。つまり、BOBBYからRMへのディスは明確な"下剋上スタイル"だった。その後、RMがBOBBYをディスり返したことでビーフ(ののしり合い)が成立。まさに王道だ。

では、Agust Dのディスはどうなのか。

「兄さん」というワードが出てくるので一見下剋上スタイルかと思いきや、歌詞をよく見てみると、ヒョンはラップの才能がないし、成功していないし、金も稼いでいないし、知名度も低いことがわかる。つまり、社会的立場としては、どう考えてもミン・ユンギのほうが上なのである。もちろん地域対決でもない。

これが私が違和感を覚えた要因だ。『Agust D』に出てくるディスは、下剋上やシーン活性化のために使われるようなヒップホップの文化に則していないのである。

では、何がミン・ユンギにそうさせたのか。それこそが、彼が持ち続ける劣等感、コンプレックス、アイドルという肩書への拒絶などの「自己」だった。それがヒップホップという免罪符を得て、ディスという形でアウトプットされたため、歪みが生じたのではないだろうか。

その一方で、彼を支配する絶望は精神や行動、感情を蝕んでいた。それが思わず裸のままで出てきてしまったのが、あの遺書のようなラスト2曲だったのかもしれない。

本当ならば夢や希望を語りながら、大好きなヒップホップに取り組み、活動に満足し、影響力を持つ素晴らしい人間になりたかったミン・ユンギ。しかしそれを目指そうとすればするほど、劣等感や自己嫌悪に苛まれ、いつの間にかまた暗く孤独な世界に立っている。頭では「成功したじゃないか」「ファンもいるじゃないか」とわかっていたとしても。

そんな自我と自己の対立、そして、自己にあるものをさらけだし、解放されたいと願う切実な気持ちが込められたのが『Agust D』だったのではないだろうか。

そして今のミン・ユンギは...

『Agust D』の衝撃に、しばらくは「お願いだから死なないでくれ...」とハラハラしながら見守っていたのだが、今はもうそんなことはない。なんなら安心して見れるようになった。

劣等感の克服にはいくつか方法がある。彼が意図したものかはわからないながらも、この3年でミン・ユンギが得たもの・実践したであろうものを2つ挙げてみたいと思う。

1つ目は、自分の不完全さを認めること。

BTSにはメンタルケアコーチがついているのだが、今年のBTS FESTA(周年記念祭)のコンテンツでは、ユンギがこう語る場面があった。

「(コーチから言われた言葉で)1つだけ覚えているのは『そんなこともあるさ』。昔は、これじゃダメだという思いがすごく強かったが、最近は『そんなこともあるさ』という見方をするようになった」

完璧主義から脱却し、劣等感を少しずつ手放してきたユンギ。リラックスして話す姿にかつての危うい感じはなく、安定感すらある。ちなみに今ではメンバーすらも、何か失敗したときはユンギの「そんなこともあるさ」という慈悲(?)にあやかっているという。

2つ目は、他人のためになることをやること。

この3年で彼らの名前は世界中に広まり、影響力も高まった。国連総会でスピーチを行い、ユニセフ(国際児童基金)とのコラボ・キャンペーン「Love Myself」もスタートさせた。困難のなかにいる世界中の若者たちのために、彼らを救う一助となるために。

また、個人でも保育施設39ヵ所に韓牛を寄付した。2014年、ユンギは「お金をたくさん稼いだら(ファンに)お肉を奢る」と約束していたのだが、結果的にはファンへの感謝を込めて「A.R.M.Y」名義で寄付を行うことに。これは「ファンとの4年越しの約束を叶えた」と話題になった。

メンタル面の変化、そして社会貢献活動。ほかにもいろいろな因子があるとは思うが、とにもかくにも、ユンギの無意識を満たす自己は大きく変わったのだろう。

その証拠に、アルバム「MAP OF THE SOUL : PERSONA」の記者会見ではこんな印象的なやりとりがあった。

記者  :第二のBTSを夢見る人たちへ一言お願いします。
SUGA:第二のBTSは存在しないと思います。僕も、子どものころにはヒーローがいて、その方を見て、その方のようになりたいと思いました。しかし、最終的にはその人になったのではなく、BTSになったんです。

これは、BTSというチームの話だけでなく、ミン・ユンギ個人の話としても聞くことができるだろう。「こう在りたいのになぜできないんだ」と苦しみ、その根底には劣等感があった青春時代を経て、良くも悪くも「俺はミン・ユンギなんだ」と受け入れた。他人をディスりながら自分を傷つけ、もがき、苦しみ、戦い続けたAgust Dはもういないのだ。

だからこそ、私はAgust Dの次回作を心待ちにしている。この3年で、ミン・ユンギという人間が見た景色、そして今見ている景色を、音楽を通して知りたいと思っている。