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社会の痛みはどこにあるのか? 女性蔑視発言、BLMから考える"文脈の解釈"

森会長の問題発言、そして謝罪会見からおよそ1週間が経過し、2月12日、辞任を表明するに至った。

関連ニュースをチェックするなか、私が時折利用しているニュースサイトのコメント欄では、ある一定数の同意見があることに気づいた。

それは「“老害”というくくりをやめろ」という、ある種の抗議意見だ。

もちろん、不必要に無関係の人間を傷つけるべきではない。また、あらゆる意見はインクルーシブされるべきだと考えているので、その意見の存在自体を否定するつもりもない。

ただ、その上で、私には違和感があるのも事実だった。「これはガスライティングではないのだろうか?」という疑問である。

ガスライティングにはさまざまなパターンがあるが、これは「まわりの人間が被害者に反感を持つように仕向ける」ケースといえるかもしれない。そして、それに対して「そうではない。言い方がいけないのだ」という意見があるならば、それはトーンポリシング──発言の内容そのものではなく、その口調を非難することで、発言の妥当性を損なわせる行為に当たるだろう。

このようなことを考えるうちに、今回の問題は私に、昨年世界的なムーブメントとなった「#BlackLivesMatter」を彷彿させるに至った。

BLMの本質は「白人か黒人か」の二項問題ではない。しかし、訴えられるべき文脈は「All Lives(すべての命)」ではなく「Black Lives(黒人の命)」だった。この流れは、今回の問題が「男か女か」「老齢か若齢か」ではないことを承知の上で、なぜ今「女」「若齢(少なくとも「老齢」ではない)」の文脈を訴えるべきなのか、に繋がるのではないかと感じた。

今回のnoteでは、森会長の発言をめぐる対立、そして、何が「Matter」なのかを私なりに考察してみたいと思う。

「老害と言う人間こそ“害”」

最初に、冒頭でもふれた“老害”への抗議意見について流れを整理しよう。

まず、ある記事でこのようなコメントがあった。

不愉快な老害、時代錯誤で発展の邪魔になる老害は、断固として否を突きつけ、辞退でもボイコットでもストライキでもして、組織や仕組みを機能不全にしてしまえばいい。これがより一般的になって、自分の上司、自分の会社、自分達の為政者に対する抵抗として広がってほしい。

おそらく、早くにコメントされていたことで多くの人の目に止まり、事実として「82いいね」がついたことで、今度は"老害"という表現への糾弾を切り口に、以下のような意見が加速していく。

特定の年齢層の人を十把一絡げに「老害」と評して、個人の行動を集団の問題とすり替え他の方々を傷つけたり、森氏の行動ではなく人格否定にまで走ってしまったりというのは、森氏の行動批判をしながら自分たちも同じようなことをしているに過ぎない。常に自分だってミスをしうるという謙虚さを忘れるべきではない。
(森会長の発言は)女性蔑視というよりはステレオタイプの問題。「女はこうだ」だけでなく、「男はこうだ」「日本人はこうだ」「外国人はこうだ」という固定概念であり、「老害」という言葉もまたステレオタイプ。その世代にも視座の高い方々はたくさんいる。
昨年、高齢者の仲間入りをしたが、森氏を老害と非難するコメントを見聞きするたびに傷つく。おそらく多くの高齢者が傷ついている。「老害」という言葉を使う人は、森氏と同じレベルの差別意識を持っている人間であり、年寄りを馬鹿にし、世代間の断絶を作りたい人間だと判断する。

結果として、YouTubeのコメント欄でありがちな「批判への批判ばかりで、最初の批判コメントが見つからない」現象が起きており、それを見た私は一定数の「“老害”というくくりをやめろ」という抗議を目にするに至ったというわけである。

それだけであれば、特に何の問題もなかっただろう。しかし、気にかかったのは、最後のコメントに「202いいね」がついている事実だった。

もしかすると、これらの抗議意見は最初のコメントへの単なる反発ではなく、本当に重要なマターの1つとして捉えている(少なくともメインのマターとして主張したい)層が一定数存在する、ということを示しているのではないだろうか。

もちろん、老害という表現によって「傷つく」ということは想像できる。なぜなら、私はメディアや大人から「これだから“ゆとり”は」と言われながら育った、ゆとり世代の人間だからだ。

酒鬼薔薇聖斗にネオ麦茶、秋葉原通り魔の殺人犯。あるいは、ハングリー精神のなさや効率性を重視するスタンス。未知の生物というレッテルを貼られる一方で、「俺たちが若かったころは」と空虚なマウントをとられながら、いっしょくたにされる不愉快は多く経験してきた。

もっとも、前提として“老害”は「弊害のある行動を起こす老齢の人」という意味なので、決して世代を指す言葉ではない。しかし、最初のコメントが強い口調だったことから、反射的に世代間対立の問題として拡大解釈し、抗議に踏み出した人が多かったのだろう。

したがって、「老害と言う人間のほうが“害”だ」という論旨のコメントは、200以上の共感を集めたと考えられる。

分断はすでに存在している

しかし、そうだとすれば別の問題も起きる。なぜなら、彼らの声によって、被害者の声が矮小化される可能性が大いにあるからだ。

私は、この問題でまず重要なのは、ステークホルダーであるにもかかわらず排除され、“わきまえさせられてきた”人々が声を上げたことにあると考えている。

これは東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会だけの話ではない。職場、学校、家庭、あらゆるところで起きていたはずだ。本来はインクルーシブされるべきステークホルダーなのに、女性だから、若いから、前例に倣わないから、俺たちに従わないからという理由で排除される。Twitterで2月4日午前、「#わきまえない女」がトレンド1位に上がったことからも、いかにそれが普遍的な出来事かわかるはずだ。

そんな排除されてきた人々が、あの発言をきっかけに過去や現状を重ね、積もりに積もった不満、悲しみ、気持ち悪さ、そして怒りを「もう黙らない」と表明するに至った。それこそが重要で、その声だけは何があってもかき消してはならない。

そうであるにもかかわらず、「あなただってミスをするんだから謙虚さを忘れてはいけない」「悪い人ばかりじゃないんだから」、あるいは「あなたの怒りは分断を生むだけだ」という声を聞いたらどうだろうか。

問題の本質を、被害者の「謙虚さの欠如」「感情論」にすり替えられるのはトーンポリシングだし、「あなたが分断を生んでいる」という論旨はガスライティングに当たる。いずれにせよ被害者の声を矮小化してしまうだろう。

謙虚にしていたらなかったことにされ、何かを伝えようとすれば煙たがられてきた人々は、断絶されてきた人々でもある。その観点で分断はすでに存在しており、その不健全な社会のあり方を今、私たちは変えていこうとしているはずだ。

その原動力になる声を、被害者を、より追い込みかねないという観点で、私は上記のコメントのいいね数が示唆する意識に、問題があると感じている。

All Lives Matterではいけない理由

このような流れを静観しながら、私はふと「#BlackLivesMatter」を思い出した。問題の解釈に共通点があるように感じたからだ。

Black Lives Matterは、解釈が難しいスローガンの1つといえるだろう。「黒人の命"も"大事だ」とするか、「黒人の命"は"大事だ」とするかは、翻訳を要する日本国内だけでなく、現地でも多くの混乱を引き起こした。

前者は「黒人の命も、白人の命と等しく大事である」、つまり「All Lives Matter(すべての命が大事だ)」という解釈だ。確かに、後者だと「大事なのは黒人の命だけなのか」と批判されかねないし、実際、すべての命が大事なのだから、正しい解釈といえるだろう。

しかし、この解釈は多くの失望や非難を集めることになる。

アメリカ史上最初の女性下院議長であり、現在「ワシントンで最も力を持つ民主党議員」ともいわれるナンシー・ペロシ氏は、あるテレビ番組で学生から「#BlackLivesMatterを支持しますか?」と質問を受けた。

ペロシ氏は「もちろん支持する」「アフリカ系アメリカ人コミュニティへの対応という点で、過去の苦しみを救済しなければいけない」と答えた。しかし、その合間にふとこぼした「All lives matter...(すべての命が大事ですが...)」が、質問者をはじめ、多くの視聴者を失望させた。

また、スーパーマーケットチェーンの「ウォルマート」も非難を浴びた。

同社は2020年6月より、「All Lives Matter」のスローガンがプリントされたTシャツなどを販売。しかし、販売から1ヵ月経たずして、客や従業員からの指摘・懸念を受け、該当商品を無期限撤去することになった。

一見正しいはずの「All Lives Matter」はなぜ、この時代において批判の対象となったのか。そこには、そもそも「All Lives」が平等に扱われていないという現実がある。

"Black"の背景には、祖国から拉致され、アメリカで奴隷として強制労働させられ、厳しい人種差別を受けてきた歴史がある。その影響で、彼らは今日でも「犯罪者」「危険」「貧乏」といったレッテルを貼られることがあり、厳しい偏見と差別を経験している。ジョージ・フロイド氏の一件は、そんな現実を象徴する事件だった。

一方、"White"はアメリカの中心として、その安全性が確保されてきた立場だ。肌の色によってレッテルを貼られることも、警察官に威圧されることも、就職や結婚で理不尽な思いをすることもない。社会的優位にいる彼らは心を痛める必要もなく、その結果、奴隷解放宣言から150年以上経った今でも人種差別は根強い社会問題として残っている。

Black Livesが直面する現実の厳しさに反し、All Livesを主語にすれば、Blackの痛みが矮小化されかねない──「All Lives Matter」が批判された根底にはそのような文脈があるのだ。

二項対立の勝敗では前進しない

そして、それはもちろん「黒人の命のほうが大事だ」という主張と同義ではない。以下は、「#BlackLivesMatter」の解釈が混乱や対立を生むなか、インターネットで広く拡散された画像である。

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©︎ Sarah Smith Wills

少女のプラカードには、

WE SAID → BLACK LIVES MATTER
NEVER SAID → ONLY BLACK LIVES MATTER
WE KNOW → ALL LIVES MATTER
WE JUST NEED YOUR HELP WITH #BlackLivesMatter FOR BLACK LIVES ARE IN DANGER!

とある。

彼女は、この活動を通じて「黒人の命だけが大事だ」と言いたいわけではなく、「すべての命が大事だ」ということはわかっている上で、今危険な目に遭っている黒人のために「#BlackLivesMatter」を通じて手を差し伸べて欲しい、と主張したのだ。

この文脈は、今回の森会長の発言、そしてそこから露呈した社会問題に対峙するときにも通じる考え方なのではないかと思う。

おそらく、多くの人々が主張したいのは「女性の意見を尊重しろ」でも「年寄りは黙っていろ」でもない。自分は誰も傷つけたことはないとは言わないし、同じ属性の方々をいっしょくたに扱うつもりもないし、すでに存在している断絶を深めたいわけでもない。男も女も、高齢も若齢も、すべての人の意見が大事だということはわかっているのだ。

その上で、今ここに、すべての意見が平等に扱われていないという現実がある。そこで優位に立つ人々の多くは、ボーイズクラブで権力をもつ男性×高齢であり、その逆の立場の人々は厳しい現実に直面してきた。

だからこそ今重視すべきは、これまで平等に扱われてこなかった人々の声なのだと思うし、この社会問題を解決するには、それぞれがそれぞれの方法で手を差し伸べることが求められるはずだ。それは、同じように声を上げてみることなのかもしれないし、自分の行動を省みることなのかもしれないし、その背景にあるものを調べてみることなのかもしれない。

そしてその先に求めるのは、クローズドなボーイズクラブへの参入ではなく、すべてのステークホルダーに対してオープンな場を設けること、それによって担保される透明性、そして平等なのである。

あらゆる社会問題は、その複雑さやステークホルダーの多さから、二項対立では語れないものが多い。また、その問題を解決するのは二項どちらかの勝敗ではないはずだ。

社会を前進させるのは、複雑なものを複雑なものとして、多様なものを多様なものとして捉える力であり、その上で、今どこに痛みがあるのかを読解し、手を差し伸べる力なのかもしれない。

■引用・参考文献
・Rolling Stone Japan|他人を混乱させて責任を錯覚させる心理操作「ガスライティング」とは?
・Rolling Stone Japan|自分の主張をするためのアサーション 人の発言を封じるトーンポリシング
・Yahoo! JAPAN ニュース|黒人の命「は」か「も」か BLM、難しい訳語 少女のメッセージに見る複雑さ
・現代ビジネス|"Black Lives Matter"どう日本語に訳すかという本質的な問い
・Harper's BAZAAR|なぜ「All Lives Matter(すべての命が大切)」と言うのをやめる必要があるのか