66 できない子・劣等生といわれる子どもも人間である
最近、この本を読み進めている。
冒頭に「できない子・劣等生といわれる子どもも人間である。」と書いてあって、こんな意識すら薄れてしまっていた自分を深く反省させられる。
「いまの子どもたちは学校でテスト責めにあっている。」という一節もあって、1970年前後でさえ、こんな感じだったら、相対評価から絶対評価になり、20年あまりが経過した現在は、より一層「テスト責め」になっているのだろうか。
毎週毎週、テスト、テストで、頭がおかしくなりそうになるときがある生徒もいるようだ。僕もテストしようかな、と思うと明日は他教科のテスト、その翌日も・・・、その翌日も・・・か、じゃあ来週ねっと言って他教科との被りを避けたのに翌週になったら他教科と重なっていることも少なくなかった。
p.113
学校教育の目的がすべての子どもを賢くすることであり、そのためにテストによってひとりひとりの子どもの理解のていどを知り、それにもとづいて次の授業のやり方を工夫するというのであったら、テストをやったあとでなん時間かの授業はすべきであろう。
そのためのテストであったら、医者が病気をなおすために患者の体温や脈拍を測定するのと少しもちがったところはない。そこにカンニングはありえない。
国語が70点、数学は80点、それらの合計点150点。この150点という点数のたし算には、数的には加えることができるけれど、異質な2つを足したわけではないので、この数値は身長と体重と胸囲を足した値と同じくらいたいした意味をもたないものではないだろうか。そう遠山啓さんは、述べていて、改めて考えてみるとそうだな、と思った。僕自身、学生時代を絶対評価で評定が出され、学生としても先生としてもテストに関してあまり疑問を抱いてこなかったので、テストの「必要悪」を「必要善」だと思ってしまっている自分がいることに、この本を通して気付かされました。