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64 美術は授業をするたびに、子どもを好きになる材料が増えていく

先日、美術による学び研究会北海道大会に参加しました。
小さな教室で10人ほどの前でスピーチするんだろうな、と登壇者を安請け合いをしてしまったのですが、北翔大学の映画館のような立派なホールで、名高る実践者がたくさん集まる中での発表でした。


午前中に、実践交流があったのですが、それを見てホンモノの美術教師の圧倒的な力量を見て、とんでもないところに来てしまったな・・・と一人控え室で狼狽えていました。w

僕が発表した内容は、こんな感じでした。

山崎正明先生との出会いは、4年前、北翔大学で行われた授業づくりネットワークの北海道集会でした。その翌年も授業づくりネットワーク北海道集会があり、同僚の美術の先生と一緒に山崎先生の講座を受けに来たのが、今回のご縁につながっています。僕が印象的だった授業は2019年の「こころの模様」でした。水彩絵の具って、そうやって使うものだったのか。ゆるやかな自己開示っていいな。そう思いました。昨年度の2月末に、専門教科が数学の私に、校長から美術も持ってほしい、と告げられました。頼るところがどこにもなかった僕に、あたたかく手を差し伸べてくれたのが山崎先生でした。研究会でお会いした程度の付き合いだったにもかかわらず、こうしてサポートが受けられたこと、この研究会に来れたことを幸せに思います。

どの教材を購入すればいいのか、という相談で4時間、そして、これまで月1回のzoom会議で10時間程度のサポートを、山崎先生から受けることができました。新採用としてうちに来た先生も会議に参加し、初任者研修としてはこれ以上ない学びもらっているな、と感じます。先日、たまたま喫茶店で会い、「最初に誰と出会うかはとても重要だよね」と話していたところです。
山崎先生のサポートもあり、初任者先生はやる気に満ち溢れ、美術室は生まれ変わりました。良い意味で散らかっていて、僕は居心地がいいです。校内公開授業でも、たくさんの先生が口々にその居心地の良さを語っていました。

僕が所属している授業づくりネットワークでは「学校はつまらない場所になってしまったことを、コロナはより一層気づかせてしまった」という認識に立っています。友達と接触してはいけない。友達と近くで話してはいけない。行事は中止します。授業は講義型のみです。給食は黙食で。とやっているうちに、学校はいつしかプレイフルな場所ではなくなってしまいました。
数年前、僕は生徒会担当で生徒会の子たちとコロナ禍だけれど、どんなことができるか考えていました。これまでプログラムの順番は大人が考えていました。管理職と相談し、それを生徒会の子たちが考えられるようにしました。学年での舞台発表とカラオケやダンス、お笑いなどの有志発表を、どの順番でやれば効率よく、そして会場が盛り上がるかを考えほしいのだけれど…と伝えると、生徒会の子たちが「先生、僕たちはそういう仕事がしたかったんですよ」と万年の笑みで言っていたのです。あのときの笑顔と高揚感に満ち溢れた声は、今でも鮮明に覚えています。僕はそのとき内心こう思っていました。「こんなことであんなに喜ぶくらい、学校はプレイフルではない場所になってしまったんだな」と。とても切ない気持ちでいっぱいでした。

ただ、今年度美術の授業を持たせてもらって感じたことは、子どもにとっても教師にとっても美術の授業はとてもプレイフルな場所だということが分かりました。学校が学校でいられる大事な時間なんだな、と感じました。



①美術の授業を通して、自分には足りていない「子どもの学びを見る」のアンテナを鍛えているのかもしれませんね。数学授業では子どもの学びを見れないのは、なぜなのだろうか。やはり僕の方が立場が上だという気持ちと、問題がクリアできるかどうかにしか興味がないのかもしれませんね。

②「これ、おもしろいねー」「いい感じだねー」と言って教室をぐるぐるまわっている。その時間もおもしろい。数学授業だと、どうしても僕が上で生徒が下。同じ目線で話すことは、まずない。だけど、美術授業はちがう。「これからどうしようと思ってるの?」「どこが気に入ってるの?」と話すことができる。
最近もっとも気に入ってるのが「大きさを変えたり、場所を変えたりして実験するつもりで、いくつか描いてみてよ。そして、バランスを見ながら自分でいいと思うものを選んでね。」と言える時間だ。
数学授業だと思考停止…という感じで動きが見えないけれど、美術授業だと「じゃあ…」といくつか試作品をつくることができる。「○の数を増やしてみよう」「○の濃さを変えてみよう」「○の大きさを変えてみよう」と。
そういう実験をした後、どれを選ぶのかを見ているのが本当に楽しい。
たったこれだけのことなのに、ここまで心が躍るということは、普段いかにこういう場面を見ていないかが分かる。何もかも決められたことをこなす毎日の中で、彼らにとって美術授業はとても貴重な時間だ。

③ちょっと数学での悩みを話させてもらいます。
ここ数年の僕の数学授業での悩みは、「今日の問題はこれです。この問題は、普通はこうやってやるけれど、こんな風に解くと、誰でもできるよ!どう、わかったかな?」と全員に分かるように僕が意気込めば意気込むほど、そこからはみ出てしまう子を、目の前にいないことにしてしまう。aくんは、この問題なんて解けるはずないのが分かっているにもかかわらず、「こうすれば誰でもできるようになるよ」と言って、教室に存在している子を透明人間にしてしまっている自分がだんだん嫌になっていました。
けれど、美術の授業は、僕が数学の授業で、学級づくりで見たい景色がこんなにも簡単に見ることができる。
もちろん、山崎先生をはじめ美術教育の歴史の積み重ねによって、こういう幸せな時間を過ごすことができているのは、まちがいないのですが、数学では「なんでできないんだよ」「もっと勉強しようよ」と生徒のことをどんどん嫌いになっていってしまうのですが、美術はやればやるほど生徒のことを好きになる材料が増えていくことがとてもいいな、と感じています。

美術授業は、作品の中で他者と出合えて、アートを通じて生まれる他者との「ちがい」への気づきが得られる。だから、美術は授業をするたびに、子どもを好きになる材料が増えていくのだろうな、と思います。