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ワナビ小説で世界を救えるか

 わたしの小説をお読みくださったことのある方ならばわたしがこのタイトルをホンキで申し上げていることをお分かりいただけるでしょう。
 ホンキどころか超ホンキです

 ホンキを超えた‘超ホンキ’ということは思念やお読みくださる方をその気にさせるだけでは済まなくて具体的に世界を救う、ということです。

 そして結論を先に述べよ、という鉄則にならい宣言します。

 救います。

🖋エンタメの最大の短所

 短所などといきなりネガティブから話を始めるとお思いでしょうけれども真実と思われることですのでまずはお伝えせねばなりません。

『手頃な感動は行動を却って抑制する』

 隠し立てしてもしょうがありませんので、ここでいう『手頃な感動』とはアニメ映画等で壮大なスケールの作品をスクリーンで観てその場の雰囲気に流されて『感動』しただけで何事かを成したような気になってしまうことを指します。

 エンタメ作品ですから演出があります。けれどもどのように演出して切なさや苦しさの感情を増大させたところであくまでも疑似体験でしかありません。擬似体験を擬似体験と割り切って現実の行動へ踏み出していけるのならばいいと思いますが、むしろその映画を観て感動したことで安堵してしまって具体的な行動へつながらない場合が多いのではないでしょうか。
 実際には具体的な行動として引き起こされるのはリピートでスクリーンへ二度・三度と足を運ぶことではないかと思います。

 そしてもしも現実世界で具体的に行動を起こすひとがあったとしてその人が何をなすかというと…
 その映画を超えるような作品のクリエーターとなりたいという夢を持って、再び別の映画を作ることであり、スクリーンやコンテンツの枠を超えた現実の生活での行動へとつながる可能性は極めて低いのではないかと思います。

🖋🖋小説の最大の長所

 小説が他のエンタメと決定的に違う点は、読み手と書き手の一騎討ちである、という部分だと考えています。
 映画や音楽などはそのコンテンツが上演・あるいは再生されている瞬間でも他者との繋がりが切れることは稀でしょう。複数のオーディエンスと共に視聴するというわかりやすい共有だけでなく、バンドが主体であったとしてもプロデュースや事前のプロモーション等である程度の全貌が掴めてしまいます。映画などプロモーションだけでイニシャルの観客動員は成功するというのが今や常識になっているのではないでしょうか。

 では小説は?

 わたしの主観もありますが、小説ほど読み手に自由が放り投げられているメディアはないだろうと思います。見開きのページを10分かけて読むことも10秒で読み飛ばすこともできます。
 なぜかというと主に文字情報は即座に脳内…あるいはココロで…音声化され主人公の風貌や時として性格等も読み手が主体となって読み進めることが可能であると考えられるからです。

 漫画もそうなのでは?

 もちろん小説にかなり近い自由度がありますが、逆に『絵』そのものが制約条件となって読み手の自由度を奪う場合もあろうとおもわれます。

 自由度、と書きました。

 小説においては読み手の自由度が他のエンタメに比してかなり優先されます。

 だからこそ書き手と読み手の一騎討ちなのです。

 小説の節々には書き手の主義・主張が知らず知らずの内にちりばめられることが多いと思いますが、そういう部分が見え隠れした時に読み手は感覚的に即座に反応して『いやそれ違うだろ』と反論する余地がかなり持てると思います。なぜならば他のエンタメにおいてはその主義・主張の部分を絵や音楽や声優の演技といった『圧力』でもって押し切ってしまうことも可能だと考えられるからです。

 小説の言葉はおそらくは読み手が本来持っている脳やココロと言った『再生機器』で筆者の意図とは無関係なパーツで再生される可能性が高いからです。

 これは小説の長所です。
 同時に短所であることもお分かりいただけるでしょう。

🖋🖋🖋世界を救った小説は過去あったか

 おそらくあっただろうと思います。
 というのは小説は読み手の自由度がかなり担保されることから、長い時間をかけて反芻・吟味・取捨選択というプロセスを経ていくからです。
 けれども実証することは極めて困難です。
 なぜならばアニメ映画を観終えて劇場から出て来た観客にインタビューして「感動した」と答える場合と小説に「感動した」と読み手が誰にも知られずココロの中で感動を答えるのとではニュアンスがかなり違うだろうからです。

 国民的なアニメを観た観客が劇場を出たところでインタビューを受けて『感動しました』というその感動と、夏休みの午後の図書館で古典となった小説を読み終えて外の日差しの中で余韻に浸るその感動とはやはりニュアンスが異なるだろうと思うんです。

 もしも小説が世界を救った例を実証するとしたら、なにがしか世界を救うことを事業や慈善活動で成し遂げたひとに対して「子供の頃にどんな本を読みましたか?」とインタビューして、「○○を読んで深い感銘を得て今の仕事があります」などという部分ではないでしょうか。

🖋🖋🖋🖋二次創作ではなく一次創作の人生を送るための小説を

 もしも過去に遡ることができるのならば、わたしは悪の総大将のようなテロリストや戦争を引き起こしているひとたちが子供の頃にあるいは青年期の頃に読むための小説を書きたいと強く願っています。
 悪を滅ぼそうとて一旦悪へと舵を切ってしまったひとのココロを宥めすかして善へ導くというのは並大抵のことではなく、ましては国家元首のように官位が高くなってしまっているひとならば今更どうにもならないというのをその本人も感じているだろうと思うからです。

 それならば子供の頃に、ほんとうの意味での具体的な人生の選択に関わるような感動を読み手と書き手が共に味わう小説を書きたい、そう思うからです。

 それは単純な勧善懲悪や努力と勝利といったテーマだけでなく退廃的なテーマを選ばざるをえないことも想定されます。

 なぜならば悪を抱き参らせるような感動こそ感動の真骨頂であり、それこそが現実世界で何事かよきことをなそうという寛容・柔軟・真摯・勇躍、といったものとなるはずだからです。

 そしてきわめて切実なことを書きます。
 非難を覚悟で書きます。

 いま現在世に知られている小説家の中でそういうことを書けるひと、あるいは忖度に屈しないで書けるひとはいないでしょう。

 だからこそワナビであるわたしが
 いいえ、ワナビであるわたしたちが
 そういう小説を書き続けねばならぬと考えるんです。

 最後までお読みくださり、ありがとうございました。

ノベルデイズという小説投稿サイトのわたしのアトリエです。お時間の許す方はご覧いただけるととても嬉しいです。


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