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感情は理屈じゃない

スーパーで、店員さんの対応がちょっと冷たかったくらいで、なぜかじんわり涙が出た。

いやいや、たかだかスーパーでお会計してもらったときにちょっと態度が冷たい(ような気がした)だけなのに、何を傷ついてんだ?

そんな自分に自分でびっくりして、その後咄嗟に頭に浮かんだのは以下のような思考。

店員さんだって忙しかったのかもしれない。
気にしたって仕方がない。
いろんな人がいるんだから、たまにはこういうことだってある。
大丈夫大丈夫。
こんなことで泣くなんて。
切り替えなきゃ。

しかししかし、悲しいものは悲しいわけで、頭の言葉を無視するように心はずーんとなっているし、目頭は熱いままだ。

こういうとき、頭と心って別だなあ、としみじみ感じる。
思考と感情とも言えるだろうか。

頭がなんと言おうと、心は確かに傷ついて泣きたがっているのだから、どうせなら頭(思考)も「うんうん、今は悲しいよねぇ」と寄り添ったほうが安心できるし、後の回復も早い。

昔は「泣くのは卑怯だ」と言われたこともあって、悲しいときには「気にしてはいけない」「甘えてはいけない」と自分に言い聞かせていた。
実際、そんな頭の声のボリュームがあまりに大きいと、悲しみを誤魔化すこともできてしまう。

そしていったん誤魔化しても結局、古傷になって後々つらくなったりする。

喜びだって悲しみだって、等しく大切な感情であり、どこにいたって起こり得るものだと思う。
なのにネガティブな感情を一切出せないような状況にいるならば、ちょっと環境や人付き合いを見直したほうが良いのかもしれない。

スーパーの件も、あー悲しい悲しい、と開き直っていたら、心もだんだんと軽くなってきた。
そうなると、あの店員さんも色々あるだろうし、自分も余裕のないときってあるよな、とようやく本当の意味で思えた。頭と心が一致している。

悲しみは甘えじゃないし、未熟でもない。
ただそういう感情がある、というだけで、それに対して頭で価値を決めつけるものではないように思う。

感情を振りまく場所は多少選ばないといけないこともあるだろうし、泣いてるんだから許してよとも言わないが、日々豊かな感情を持つ人々や自分に、包み込むような共感や寛容さを持てるといいなと思う。

あと、うれしさや楽しさを素直に認め表現することもまた、大切だ。こちらはポジティブな方面。
今の自分の場合じゃ、こっちをより意識するほうが重要だろうなぁ。


追記:

後日、同スーパーにて、今度はなんとなくセルフレジに行った。

自分で商品のバーコードをピッと通していたのだが、ひとつの商品でピピッとなぜか2連続で読み取られてしまい、でも取り消しボタンも見当たらなかったので、仕方なくセルフレジエリアに一人はいる店員さんを探して声を掛けた……ら、その店員さんが例の店員さんだった。

内心ちょっとビクッとなったが、平静を装ってそのまま対応してもらうことに。

正直なところ、前回は普通のレジにいたからセルフレジならいないだろう、と思ってました。ごめんなさい。
とはいえ、セルフレジでも読み取りミスがなければ気付かなかったはずだ。

なんか、試されてる?と感じた。
あるいは、色々と意識してしまったのでこの状況を引き寄せたのかもしれない。

とはいえ、店員さんは普通に対応してくれて(当然かもしれないが)、なんだか心のモヤモヤがより軽くなった気がした。

前回の自分はおそらくちょっと不安定だったり疲労だったり、タイミングだったり、人を見ているときのフィルターだったり、色々あったのだろう。
それは相手のほうもそうだろう。

誰でも、波があるし、調子があるし、変化もあるよなと思う。
ひとときのことを後々まで引きずることもあるだろうが、次に会ったり話したりしたときは、なんてことはなかったりと、互いの感じ方が変わっているかもしれない。

そんなことを思いながら、機嫌良くスーパーを出た。




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