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恥ずかしさの系譜

わたしは語学の教師なので、学生が恥ずかしがっている姿を見る機会がわりとある。
発話するときとか、間違えたときとか、わからないときとか、みんなわりとよく恥ずかしがっている。

今日初めてクラスに来たD氏は英国人で、クラスの最年長の生徒だと思うけど、彼は2時間中1時間半ぐらい恥ずかしがっていたように思う。

わたしは絵画教室に行ったとき、すごく恥ずかしかった。
子どものときは写生会の絵が褒められたり、切り絵で賞をもらったりしていたし、小学生のときは3、4年油絵も習っていたから得意だったんだけど、何十年も絵を忘れていて、それで大人になってから絵画教室に行き始め、そのとき、すごく恥ずかしい気持ちを感じた。
先生が絵をチェックしに来ると、顔がゆがんで笑ってしまう。
「でへへへ」とか「あははは」とか、ちょっと不自然な笑い。
恥ずかしいから笑ってしまうのだった。
思うように描けないのである。
どう見ても笑うしかない出来栄えで、恥ずかしさで自分を卑下してしまう。

自分でお金を払って来ているのに、なんのために卑下したり、恥ずかしがったりするのか、まったく意味のない行動なんだけど制御不可能だった。

自分の生徒を観察していると、ちょっとしたことで恥ずかしいと思うひとと、まったく恥ずかしくないひとと2種類いるのがわかる。
恥ずかしくないひとは狼狽えないで平常心だから、心の揺れ幅に無駄がないように見える。
恥ずかしいひとは心の針がびょん!と揺れ動く、振り切れる、いつまでも振動が残って揺れている。
大変な労力を「恥ずかしさ」の感情が自分に強いているのである。

D氏は疲れただろう。
わたしも絵画教室は愉しいのだったが、すごく疲れた。

「恥ずかしさ」は自分のなかだけで起こっている葛藤なので、自分で自分を罰しているようなものである。

失敗したり、間違えたり、あるいは誰かに怒られたり、辱めを受けたりしても、自分で「だからなに?」とクールに構えていられたら、無駄なエネルギーを使わないで済む。
他者がわたしを罰しても、他者はわたしではないので本質的には関係ない。
自分で自分を罰するのがいちばんダメージを受けるし、案外自分はしつこい。
脳内で何回も反芻できるから。

わたしは毎回恥ずかしがっていたから、いい絵は描けなかった。

だから、生徒には「恥ずかしがらないで。だいじょうぶだから」と思うし、そう思っていることを、ことばではなく、なんとなく態度で伝えるようにしている。
本当にそう思っているので、伝わるのではないかと思う。
いや、それが自分に伝わらないなら、生徒にも伝わらないから、もっと本当にそう思うようにして、まず自分から恥ずかしさみたいな自罰をやめないとなー、などと今日は思った。



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