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人生で初めて「天職」だと思えたもの 〜名古屋での1年を振り返り〜

こんにちは!長畑です。

近々、僕の拠点は名古屋から東京へと変わることになります。
そこで、1年と少しお世話になった名古屋の地での思い出や、これからの活動についてつらつらと書いていきます。

①大阪を離れ名古屋へ


僕は奈良で育って18歳で大阪に引っ越し。
大学時代も社会人1〜2年目も実家に世話になりまくり。初めて実家を出たのは26歳だ。会社もずっと関西。

そして28歳で株式会社GOAL-Bにコーチング事業部として入社。
プロポーズをした直後だったので、すぐに結婚して大阪に住みながらオンラインでコーチングをメインに活動していくつもりだった。

そんな中、AKIOBLOGの「遼はジムやってきた経験あるから、柳楽と健吾(安慶名)のサポート頼んだ!」という一言により、名古屋ジムの立ち上げメンバーとなった。

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(実は入社前から柳楽の相談役になっていた。)


2020年9月に入社して10月にジムがオープン予定。

「この1ヶ月は自分はコーチングを学びながら事業責任者と店舗責任者のサポートをするんだ!」なんて思いながら名古屋のジムに1ヶ月住み込むことになった。初めて関西を出た。

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(つかの間のコーチング事業)

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②苦しみながら何とかジムオープン


9月に一時的に名古屋に移住。のつもりが、入社から2週間後に柳楽が体調を崩したことにより急遽、フィットネス事業責任者に就任。

正直不安の方が大きかったが、事業部全体の責任を背負う覚悟を決めた。

コーチング事業も兼任の予定だったが、ジム関連のタスクがパンパンすぎてコーチングの実施は見送ることになった。
入社して2週間で業務内容がガラッと変わった。
創業1年のスタートアップ企業のスピード感は流石だった。

正直、入社当初は名古屋ジムのことはどこか他人ごとだった。
「サポート」という言葉に甘んじてたのかもしれない。
そこから役職が変わったことにより「本気で自分がやらないとやばい」という状況に追い込まれた。


マネジメントについてはわからなかったが、とにかくジム立ち上げまでのTo Doリストを綿密に管理し、10月1日のオープンに備えた。

1番しんどい内装やマシン配置等のハード面に関しては自分の入社前にほとんど完了していたのは助かった。初期メンバーとお手伝いしてくれた方々(今の会員さんたちも含む)には感謝しかない。

僕は1ヶ月間、今の「カウンセリングルーム」になった場所で安慶名健吾と毎晩考え事をしていた。

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価格や営業日やシフトの組み方・各種システム等、「決めて実行する」ことをどんどん進めた。上手くいかないことの方が多くて苦しかった。

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(余談だが、当時のマンティ福原は「僕、筋トレばかりしてて本当にいいんでしょうか…?」とか弱気なことを言っていた。)

チラシのデザインや関しては試行錯誤を繰り返し、やったことのない・正解もない仕事に苦痛を感じていた。外注費用のわりに結果も全く出なかった。

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やはり、現実は甘くない。

「オープンまでに会員100人」という目標に対して実績は30人ほどだった。情けなかった。

ある日、事業部のMTGで発言した。
「俺が事業責任者である意味ってなんなんやろ?」

共にジム立ち上げをしていた安慶名とマンティ福原には
「ただ安心するから一緒にいてほしい」と言ってもらえた。
今この文面を見ると「何言ってんだこいつら」と思うけど当時の自分にはかなり救いになった。

AKIOには
「フィットネス事業部メンバーが本音で話せる環境づくりは遼が1番得意なはず。だから任せてる」
と言ってもらえた。

自分はマネジメント能力には長けていないけど、場を和ませるコミュニケーションでチームをまとめる人間なんだと気付くことができた。
これに救われた気がして何度も奮起することができた。

「人との関わりを大切にするジム」にしたくてスタッフの採用も行った。
初期インターンとしてジムオープンの手伝いをしてくれた林さん・狩矢を採用。
しつこく連絡してきたルックアップ細井についても、みんなの「こいつはちゃうやろ…」という雰囲気に反して、なぜか直感で採用。
少しずつ仲間が増えていった。挑戦をすると仲間が集まってくれる。

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そしてジムは予定通り10月1日に無事オープン。

初日の営業が終わったとき、全員で泣きそうな顔で喜び合った。
ちょうどこのときに柳楽も一時復帰し、安慶名・マンティ・柳楽夫妻とともに「仕事って楽しいんやな。」と言いながら喜び合えたことが心の底から嬉しかった。

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③さらに苦しむ。事業責任者からトレーナーへ


そのまま多くの会員さんが入会してくれた。

ジムのフロントで会員さんと話すことは何よりも楽しかった。
そしてオープン初月から何とか黒字化を達成し、波に乗っていた。

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また、「朝営業してほしい」という会員さんの声を聞き、人件費よりも満足度を優先して即実行した。

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トレーナーの数が足りないと考え、採用活動も開始した。

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採用フォームに突如現れた岡田淳という男に惹かれた。トレーナーとして採用したいと思い、AKIOに繋げ速攻で11月入社という形で採用に至った。
(なぜかフィットネス事業から応募してきたのにコーチング事業での入社になった。自分とは逆のパターンである。)

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そして、またもやトレーナー探しは続く。
自分の大学の先輩である久保田甲斐に何度も断られながら何度も説得した末、1月入社として採用することができた。

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(1ヶ月間しつこくアタックして口説き続けた)

甲斐さんが入社を志望してnoteを書いてくれたことも、GOAL-B側もそれを受け入れてくれたのも、心の底から嬉しかった。(今だから言えるが、自分のエゴでGOAL-Bに甲斐さんをゴリ押しして、勝手に入社させた。でもこれが正解なんだと信じていたし、正解にしたつもりだ。)

引き続きインターンスタッフも募集した。

合宿イベントに参加しに来た梅木を採用。その場でみんなで合意した。
応募フォームから来た金刺を採用(安慶名に任せてたら採用してた)

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新たな仲間がどんどん増えて「トレーニングジムGOAL-B」の勢いは上がっていたように見えた。


しかし、11月、12月と時が流れ、ジムの勢いは止まっていた。
コロナの影響や冬という季節柄もあり、入会者がどんどん減っていたのだ。

事業責任者として様々な施策を考えて実行するも、あまり上手くいかなかった。
毎週の経営MTGで売上の進捗を報告する時間が、何よりも苦痛だった。

数字という結果は嘘をつかない。「頑張ったけどダメだった」は通用しない。

考えて考えて、事業計画を何度も修正してはやり直す日々。
夜通し考えても答えが出ず、疲労から生産性が落ちる負のループ。
自分は全く売上をつくれていない。でもマネジメントも上手くいっていない。
現場で頑張ってくれているトレーナーやインターンのみんなに申し訳ないという気持ちしかなかった。

その頃は、社会人アメフトチームの活動も全く上手くいっていなかった。
大阪まで帰って臨んだ試合の1プレー目で脱臼して病院に運ばれたときは、自分の情けなさに涙を流した。

社内でも大丈夫かと心配される日々。
心も身体もボロボロだった。

ある日、社長のAKIOから電話がかかってきた。
「遼、責任者よりプレイヤーをやりたいって想いはある?」

このとき、迷いながらも半分本音、半分はギブアップの気持ちでYESと言った。

こうして事業責任者を退任し、現場の最前線でトレーナーとして活躍することを誓った。
事実上のドロップアウトという形になったが、しばらく抱えていたモヤモヤが吹っ切れた。(一晩だけしっかり泣いて、思いっきり切り替えた。)

自分は社内で売上に貢献できていない。
かと言ってマネジメントでも成果を上げることはできなかった。

この事実がしばらく自分を苦しめた。
「トレーナーで成果を出すしかない」
自他ともにわかっていた。

体験会の場に誰よりも多く立ち、指導経験を積むことから始まった。
トレーナーに関する勉強、営業やコミュニケーションについての勉強、そして社内の優秀なトレーナー陣のセッションを盗みながら、自分のセッションをつくっていった。

2021年1月。新年を迎え、ジムの大型キャンペーンにより多くの方が体験に訪れてくださった。

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毎日のように体験会を担当し、多くの方に入会していただいた。
入会いただけなかったときはその原因を考え抜き、毎回のセッションで出来たこと・出来なかったことをエクセルにまとめた。
自分なりに仮設を立てて実行していくプロセスには何事にも変えがたい楽しみを感じることができた。

次第に入会率は上がっていき、通常会員になるだけではなく自分のパーソナルトレーニングを契約いただける方も増え始めた。
目に見えて結果が出始めた。

「絶対にこの人たちの身体と心をより良くしよう。」
「俺の関わりで、彼らの人生を変える。」
この想いだけで夢中で関わり続けた。

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(社長に毎日成果を報告していた。同じような反応ばかりだった。)

自分のクライアント様が

ベンチプレスのMAXを30kg更新したとき。
8kgの減量に成功したとき。
「初めて筋トレを楽しいと思った」と言ってくださったとき。
「パワーリフティングの大会に出たい」と言ってくださったとき。
「長畑さんと出会えて良かった」と言ってくださったとき。

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自分の心に、今まで感じたことのない喜びが走った。
自分を信じてついてきてくれて、結果を出してくれたことにただただ感謝していた。

「仕事って楽しいんやな。」
ジムオープン当初と同じこの気持ちを再び味わうことができた。

勢いに乗り、朝活イベントやオンラインパーソナルも始めた。

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気付けばトレーナー開始1ヶ月で、自分のクライアントは20名を超えていた。
セッション数も月100回を超えるようになった。

イベント番長のつもりで盛り上がるイベントを主催するのも楽しかった。

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採算も徐々に黒字に戻り、3月には過去最高売上も達成した。
チームで目標を達成して閉館後のストレッチエリアでみんなで喜んだのは忘れられない。それぞれが自分の責任を全うしたおかげだ。

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開館から閉館までぶっ通しでセッションしたり、睡眠不足でヘロヘロになる日もあったが、トレーナーの仕事は全く苦にならなかった。

パーソナルトレーナーという職業は、今までのどの職業よりも楽しかった。

僕の天職は「関わりで人のきっかけをつくること」だと気付くことができた。

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たくさんの人と、出会いと別れを繰り返した。

彼らが人生の中で、少しでも「筋トレが楽しい」と思ってくれたこと。
その場面に少しでも自分が関われたこと。

これらはかけがえのない財産となった。

④やっぱり、圧倒的に好き


2021年1〜4月はひたすらトレーナーとして働きまくった。仕事に夢中になっていた。
5月からはコーチングを開始すべく、社内でのコーチングの研修に大きく時間を使うようになった。その頃にはインターンの梅木や金刺がトレーナーとしてガンガン成長してくれて現場に立つことが増えた。

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元々コーチングをするためにGOAL-Bに入社した僕は、約8ヶ月をフィットネス事業で過ごしてから、コーチング事業に移った。(当時のフィットネス事業責任者・岡田淳のおかげで期間を決めて実行することができた。)

婚約した彼女も待たせっぱなしなので、そろそろ名古屋を離れようと思って家を退去した。結婚して大阪で過ごそうと思った。対面のパーソナルを少しずつ減らしてオンラインパーソナルを増やし、大阪に帰る機会を増やした。少しずつ名古屋にいる時間が減った。

常連の会員さんにはいつ会っても「遼さん久しぶりっすね!」と言われるようになった。

「トレーニングジムGOAL-Bは転換期を迎えてる」そう思っていた。
初期メンの安慶名も柳楽もいなくなり、僕も甲斐さんも関わりが徐々に減っていった。梅木や金刺がどんどん成長して自分たちでしっかり店舗を回すことができるようになった。
「働かせてください!」といきなりコメダで直談判してきた岩田一晃や、「一緒に働きましょう!」って言ったら本当に仕事辞めて働きに来た岡中友美も加わり、勢いは加速している。

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自分はシフトに入ることもなくなって、ジムを離れ始めていた。

でも6月末に会員さんたちの挑戦である「ベストボディジャパン名古屋大会」の応援に行ったとき、気付けば涙している自分がいた。

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筋トレをやったことのない状態から出場を決断して、会員同士で巻き込み合ってみんなで挑戦して、どんどん絞れていって本番のステージで輝いて結果を残す姿には本当に胸を打たれた。
「この数ヶ月で何があったん?!」と本当に思う。


さらにはみんな退職や転職という、筋トレに関係ない部分でも新たな挑戦を始めている。
毎日来てくれていた会員さんが「もっと自分の可能性に挑戦したくて、転職することにしました。」と報告してくれたときは涙が出そうになった。
(このジムで一体何が起きているんだ…)

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本当にすごい。語彙力がないが、すごい。

そして純粋に
「もっとこの人たちの挑戦を見ていたい」と思うようになった。
言葉にするならば、僕は「彼らのファン」になっていた。

僕はトレーニングジムGOAL-Bの会員さんのファンである。
今頑張っているみんなの挑戦をこれからも見ていくし、これから入ってくる方たちのきっかけづくりも一緒にやっていきたい。
微力ながら僕たちスタッフとの関わりでみんなの人生を変えたいと本気で思っている。

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そんなことを考え、名古屋での仕事は今は限られているはずなのに月の半分ぐらい名古屋に居座っている。楽しいからパーソナルもまだ続けてる。フロントで雑談するのも楽しい。家もないのになぜかホテル取って名古屋で生活してる。

ジムが帰る場所みたいになってる。ジムに行ったらスタッフや会員のみんなに会えるのが嬉しい。ただその感情だけ。


⑤東京ジムについて


8月末、ついに結婚をした。プロポーズから1年以上待たせることになったが最高の結婚式を挙げることができた。
妻とは今後について相談し、東京に移住するという決断をした。妻の実家が東京にある・東京の本社でメンバーと毎日会える・東京にジムの2号店をオープンする等が理由である。妻は東京に異動願いを出している。11〜12月には僕は東京に移住する。

正直名古屋を離れるのは寂しいが、パーソナルやコーチングを受けてくれている大切なクライアントが名古屋にいる。僕が一緒に働こうと言って採用したスタッフもいる。

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だから「東京⇆名古屋」の旅人生活はまだ少し続きそうである。
名古屋にバーもオープンしてしまった。これぐらいがちょうどいい。

そして東京ジムについて。

東京ジムはもともとパワーリフティング専門のジムとしてつくる予定だったが、フィットネス事業のみんなが名古屋の「トレーニングジムGOAL-B」の雰囲気が好きすぎて、「初心者も大歓迎」のジムにコンセプトが変わった。

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正直、GOAL-Bで「BIG3が正義」になってはいるけど、誰にでも押し付けるのは良くないと僕は思っている。
初心者の方には「まずは筋トレを楽しんでもらうこと」が最優先。
その上で筋トレにハマり、結果的に「BIG3を伸ばしたい」と思ってもらえたら最高だと僕は感じる。


今までのジムでの会員さんの変化もそうだった。
 「筋トレなんてやったことないし続くかわからない」
→「やってみると楽しい。スタッフと話すのも楽しいから続けてみよう」
→「3ヶ月続けてみてめちゃくちゃ楽しい。もっと本格的にやるためにしっかり目標設定したい」
こうなって初めて、BIG3を伸ばしたいと思ったり、パワーリフティングに出たり、ボディメイクのコンテストに出たり、自身がトレーナーになったりと次のステップに進み始めているのである。

これを東京ジムでもやっていきたい。名古屋よりも人の多い東京という地で、より多くの人の挑戦する姿を見ていきたい。
かっこいい姿を応援したい。

これが僕の東京ジムに対する熱い想いである。

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僕のプライベートな出来事が重なり東京の生活が増えるこのタイミングで、東京にジムができるのは何かの縁だと思う。

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僕自身、振り返ってみれば色んな人の縁でここまで来れた。
そして僕はやっぱり人のきっかけをつくるのが好き。
これが僕の天職だと信じている。


東京ジムのメインの担当は甲斐さんだけど、もちろん僕も貢献する。
そして名古屋ジムで生まれたような人の可能性やきっかけをつくる関わりを、東京ジムでも続けていきます。

「トレーニングジムGOAL-B」には自分の人生の中でも死ぬほど大切なものをいっぱい教えてもらえた。すごいジムだ。

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「たった1年でこんなに多くの変化があったのか」と、ここまで書きながらエモさを感じています。


⑥最後に


最後に。

僕が伝えたいことは「絶対に最高のジムにするから東京ジム来てよ!!!」ということ。

これを読んで下さってる関東在住の方はぜひ遊びに来てください。
騙されたと思って1回だけでも来てください。

もしもビジターで来るときに「僕に会いたい」と言ってくれる方がいれば、予定調整して東京ジムに行くので気軽にDMください。老若男女関係なく大歓迎です。

P.S. 軽く書こうと思って始めてみたら、気付けば朝になってました。想いが止まりません。この記事を読んで、少しでも僕たちのジムについて知ってもらえると嬉しく思います。最後まで読んでいただき、本当にありがとうございました!!!










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